「ありがとうございましたーっ」
猫宮幸子は運転手に一礼し、タラップを降りた。
一日に4往復のバスより他に移動手段の存在しない、まだちらほらと道端に雪の跡が残る山奥の村に彼女が向かったのは、嫌味な兄貴からついに永遠の逃亡をし仰せた訳でもなければ、実家の墓参りでもない。
仕事である。
「えっと?こっち?」
バスの中で一通りの地図は頭に入れてある。なるべく目立たぬように、と愛車は駅前に置いてきた。さすがにこんな山村にドゥカティ— Monster 1200 S stripe—を持ち込んでは、エージェントとして失格にもほどがあだろう。
というか、そもそも彼女がそのちゃきちゃきとした見た目に反してバケモノみたいなバイクを使いこなしていること自体が、そのうちどこかから怒られそうな事案ではあった。
「やっぱり寒いな…スニーカーの下にもう一枚靴下履いてくればよかった」
一般的な女性にしては多い独り言を喋りながら、彼女はバス停側の階段を降りた。いかにも農道といった雰囲気の道を通り抜け、少し集落の中を歩く。なるべく目立たないように、しゃなりしゃなりと集落を抜けて行く。やがて目的地— 人気のない廃屋である—到着すると、猫宮は人目につかない所に荷物を降ろして仕事の準備を始めた。
一度コートを脱ぎ、ワイシャツも脱ぐ。すこし震えながらアンダーウェアの上に耐ショック性のウェアを重ね着し、ワイシャツの襟に緊急用の小型ナイフと通信装置が縫い付けられていることを確認。動作するか一度スイッチを押す。
「あーあー、11:34、てすてす。聞こえていますか?」
「はいOKです。本日はよろしくお願いします」
耳に取り付けたイヤホンから落ち着いた声が聞こえたのを確認してから、全て着直す。レザーパンツの尻ポケットに私物のICレコーダーを突っ込み、セカンドバックに幾つかの装備を入れ直すと腰に巻いた。スニーカーを脱ぎ、ソールをナイフで剥がす。内側にきちんと小型の拳銃が収まっているのを確かめて、靴とセカンドバックの中身が映るように1枚、そしてそれを全て着用した自撮りとで2枚、写真を撮って財団に送信した。
「はい確認が取れました。11:46、猫宮幸子さん、座標FL-0944652、SCP-46651-Provisionallyの内部調査をお願いします。この調査は財団倫理委員会の承認済みであり、エージェントの方には意図された、無闇な危険がないことが確認されています。猫宮幸子さんは財団の指令に基づき、強制ではなく自らの意思で調査に向かっていますか?」
「はい。私が行きたいから調査に来ました」
「確認が取れました。潜入中、20分以上定期通信が送られなかった場合、音声記録の録音が前触れなく途切れた場合、財団は貴女の身に何かが起きたと判断し、適切な行動を取ります。宜しいですか?」
「はい。大丈夫です」
「確認が取れました。それではよろしくお願いします。」
猫宮は最後にもう一度、全部の装備が整っていることを確認してから目的地の扉の前に立った。軽く深呼吸をしてから、廃屋の扉を開ける。
「いらっしゃいませー!一名様ですかー?」
「は、はい」
「おタバコはお吸いになられますかー?」
「あ、はい。お願いします」
「かしこまりましたー!喫煙席ワン、一名様入られまーす!」
廃屋は、その外見とは裏腹に何やら明るい、一般的なカフェの様相を呈していた。
猫宮幸子は喫煙席に座ると、周囲を見渡す。窓の外を見ると、それまで居た外の雪景色ではなく、何処か都会のような風景が広がっていた。
「あぁ、入りましたー。外は都会のような風景に見えます…椅子は普通のソファ、一応欠片を持ち帰ります」
「了解です。前任のエージェントの報告通りですね。トイレに向かってもらえますか?」
「はい。…えーと、トイレに着きました。便座も個室も、特におかしなところはありません」
猫宮はスマホで幾つかの写真を撮ると、席に戻った。店員(?)が注文を取りに来たのでサマージュースを頼む。注文が運ばれて来たところで、猫宮はレジに向かった。
「ありがとうございますっ!」
「あ、いや、会計じゃないんですケド」
「何かございましたか!」
「え、えーとあの、こちらの方にすこしだけお話を聞かせていただきたいと思いまして」
「かしこまりました!お席にて少々お待ちください!店長を読んでまいります!」
猫宮は席に戻り、タバコを一本吸った。サマージュースには一応警戒をして口をつけない。しばらくすると一人の男性がこちらにやって来た。
「何かございましたでしょうか?」
「はい。一度お話を聞いておこうと思いまして」
「…警察の方ですか」
「うーん、はい」
「…私達はどうなるのでしょうか」
「いや、えーと「私達はここで静かに喫茶店を経営しているだけです。特に何も、ご迷惑をお掛けするようなことはございません。天地神明に誓ってです。こちらに流れて来てから3年、やっとお得意様も出来て来たところなのでございます。こちらの噂が広まってはまずいと気を利かせてくださる素敵なお客様達です。どこからお話を聞いたのかわかりませんが、何卒…お願いいたします」
「…」
猫宮幸子は無言で席を立ち、トイレに向かった。音声受信をオンにして、オペレータと会話を行う。
「基本的には事前の情報通りですね。どうしましょうか?いちおう、拘束の用意は持って来て居ますが」
「彼がこの座標の異常性の基準になっていることは事前調査で確認済みです。今回の潜入調査でインタビュー記録も取れました。これらを総合的に判断し、財団が決定を下すはずです」
「わかりました。私からはAnomalousを進言して居たと伝えてください」
「かしこまりました。それでは、そのままご帰宅下さい。本日は直帰で大丈夫です」
「わかりました」
猫宮が席に戻ると、まだ男性は席に座ったままであった。
「処分は…どうなるのでしょうか」
「私にはそれを軽々に話す権利はありませんし…未だ決定はしていません」
「あなたはきっと、警察…とかそういうものよりも、もっと恐ろしいものなのでしょうね」
「そうかもしれませんね」
「私達は…殺されるんでしょうか?」
「分かりません」
「この店は…畳まなければならないのでしょうか?」
「分かりません」
「ウチのお得意様も…何かをされてしまうんでしょうか?」
「分かりません」
「…そうですか……貴女が先ほどから飲み物に手をつけないのも、吸えないタバコを無理に吸っているのも何かの司令なのでしょうか?」
「…分かりません。私には、何も、分からないんですよ」
猫宮は、そう言うと椅子に座り、一気にサマージュースを啜った。
「ごちそうさまでした。お勘定をおねがいします。」
「これ食べんのん?」
「はい。宜しくお願いいたします。」
セクター・8192食堂に併設された、料理長私室に、二人の女性が佇んでいた。一人はこの部屋の持ち主、鬼食。もう一人は“1/4研究員”こと、田中伊藤研究員である。
「いいけどさー、なあにこれ?うまい棒?水?味ってさ。わっちは確かに“何でも”食べられっけどさー、美味しくないのは嫌よん」
鬼食はいたずらっぽく田中伊藤の方を向いた。
「一通り、研究は終わっているのです。内容の成分もほとんど一般のものと変わりないことが判明しています。恐らくですが、毒もありません。今回の試食は一応の確認でして」
「答えになってなーい、ね。わっちは美味しくないのは嫌って言ってるんだよう。仕事だから、とは言ってもね」
あぁ、なるほど。
田中伊藤は理解した。この少女— 少女なんて冗談でも言えない年齢では有るはずなのだが—はあれだ。いわゆる“めんどくさい時の料理長”モードに入っている。朝食を食べ損ねたか、新料理の開発がうまくいかなかったか、ワシントン条約で禁止されている生物の肉を輸入しようとしてまたぞろ銀襟さんに見つかったか、原因は分からないが。
「うひひひひ。そんじゃーそこに置いといてよー。また今度食べておくからさっ」
「うっ」
それは困る。なんだか、食べないで適当なことを報告されそうな気がする。私の目の届かないところで、彼女がどうするかなどわかったものではない。
「と、とりあえずAnomalousアイテムの詳細だけでもお願いします」
まるでナンパ師のようなセリフを言いながら、伊藤はカバンからタブレットを取り出そうとした。鬼食に“食堂”のほうへ行かれるのはまずい。もうすぐ昼時だ。彼女は料理に関しては決して譲らない。「お腹すかせてるんがいっちゃん辛いからね!」が口癖の彼女が。もし。外に並んでいる“職員”を見てしまったら。
『あはは、ごめーんねいとっちゃん。また今度!わっちは忙しいんだぜ』
とかなんとか言われてしまうに違いない。
「あの、鬼食さん、これだけでも…つぁ!?」
慌てていたのだろうか、椅子の脚に伊藤の左足が絡まる。前のめりに倒れそうになり、田中伊藤はカバンから取り出したタブレットを思いっきり鬼食に向かって投擲してしまった。くるくると宙を舞ったタブレットの角が、鬼食のこめかみに突き刺さる。
「ぎゃおん!」
「あっ!すっみません!!ほんと!申し訳ないです!!うっわー鬼食さん!血が!ヤバイ!ティッシュ持ってきます!…持ってきました!さーっせんした!ッス!」
「…いとっちゃんテンパると体育会系が出るね…あつつ、っつー…酷いことするなぁ…血が出てるから料理は無理だな…ブドウ球菌が…」
鬼食はどこからか取り出した包帯をくるくると頭に巻きながら、タブレットを拾い上げる。
「ヘイ、お嬢さん、落としたぜ」
なぜ急にダンディな口調になったのかは分からなかった。照れ隠しかもしれない。
「いえ、こちらこそすみませんでした…本当に。本日はここで一旦帰らせて頂いてまた、後日きちんと依頼させていただきます…うわ…画面が割れちゃってる」
思いっきり地面に落ちたタブレットの画面はひび割れ、特に画面の下半分は真っ黒になってしまっていた。
「うっわー、えらいこっちゃーだねこりゃ。こりゃ…ううん?」
こちらを覗き込んでいる鬼食の目が固まった。驚いたような顔をして、何やらブツブツと呟いている。
「…っで……E………肥大…………ううん……?……」
「お、鬼食さん…?」
「……決めた!決めたよいとっちゃん!アタシ食べる!そのうまい棒食べるよ!概要を見せてくれてありがとう!サァ持ってこい!うまい棒なら大好物だ!!100本だって食ってやろうぞ!」
「ぅぇ!?は、はい?」
「食べるってんだから食べるんさー!早く持ってきて!わっちの気が変わらんうちにさ!これか!これを食えばええのんか!?」
興奮した口調で、鬼食は椅子に座った。一度合掌、大きな声でいただきますと唱え…怒鳴ってから、机の上の『うまい棒 水味』に手を伸ばす。
「バリバリバリバリ!ドガガガガ!!ガシャーン!!ブッピガン!ブッピガン!ウィーンキュルルル!キュゥッ…………バゴーーン!!!」
世界の終わりのような音を立てながら、鬼食は机の上のうまい棒を物凄い勢いで食べ始めた。みるみるうちに包装紙が積み重なってゆく。
「完食!ごちそっさまでしたァ!」
「あ、ありがとうございました。して、お味のほうは…」
「問題なし!水ってか塩?海の水の味がすんね。他の人が食べても問題ないぜ」
「り、了解しました。本日はありがとうございました…では私はこれで」
「ヘイ!待ちな!」
「ハイ!なんでしょう!」
「今日のアタイはなんだか気分がいい!Anomalous保管庫にアタイを連れて行きな!まだやってなかった試食、全部済ませちまうぜ!ほらほら!ほらほら!」
なんだこいつ。頭を打ってついにおかしくなったか。
しかしとりあえず、物凄いやる気を発揮した鬼食を止める道理もなく、伊藤は鬼食をAnomalous保管庫に案内することを上司に報告した。
提案は承認され、鬼食にその旨を伝える。鬼食は何やら歌を歌いながら先に走って行ってしまった。
「っと…うわー、しかし本当にタブレットどうしよう…お兄ちゃんに怒られちゃう…」
タブレットを机から拾い上げると、何やら裏にぬるりとした感触を感じる。
「…?なんだろ、これ」
タブレットの背面に、何か塗られている?
いや、血か?うーん?…ローション?いや莫迦な。なんでそんなものが。
「…まあいいや」
タブレットをケースに入れる。田中伊藤は、鬼食の跡を追った。
Anomalous-JP No.78
説明:うまい棒 水味。
回収日:20██/██/██
回収場所:都内ディスカウントショップ██████████駄菓子売り場。
現状:完食。
厳密には海洋深層水味でした。―伊藤研究員
Anomalous-JP No.79
説明:Eカップサイズのブラジャー。装着者の胸部をブラに適したサイズまで肥大化させる██████████████████████
███████████████████████膨らむ█████████
回██████████
回収██████████購入。██████████不明。
現状:██████████
██████████―████
春先の有る日。研究室を抜け出して中庭の桜の下で一杯やっていたマロース博士がそれを見つけたのは既にアブソルヴェントを2.3本空けた後のことであった。
半袖のシャツにカーゴパンツ。キャスケットを被った5〜6歳ごろの少年。それがいつからか、マロースの後ろに立っていた。
少年の目は暗く、値踏みするようにこちらを睨みつけている。
「よう!どうした少年よ、迷子か!」
「…」
少年は答えない。
「我輩はマロース博士!ウォッカとテキーラ、ウイスキーが大好きな愉快な博士だ!ソビエト崩壊よりこの財団に身を寄せはや██年!!特別御意見番兼博士として勤務してやっておる!時に少年よ、君は誰だ!保育所ならばここを真っ直ぐ行って右!三本目を左!一階上に上がって二つ目の部屋!そこを出て廊下を西…西…西に向かってまっすぐ!突き当たりを降りて今いる中庭のそこのドアから出て来られる!そしてそこからこ〜うぐるっと迂回!道なりに真っ直ぐ進んで行けば、君の本来おるべき場所に辿り着くであろう!このセリフ、心に深く刻んでおくと良い!セレクトボタンでいつでも思い出せるぞ!」
渾身のユーモアを織り交ぜた愉快な挨拶を受けてなお、少年の態度に変化は見られなかった。
マロースは少しだけ困った。
「少年!なあ少年よ!!そのような灰色の目をするでないわ!世が世なら不敬罪にて捕まっておるぞ!」
「…」
「…」
少年はピクリとも動かない。変わらず、暗い目でこちらを睨みつけている。
「仕方が無いな!我輩は財団勤務のマロース博士!スネグーラチカには程遠いようなお前の態度も多めに見ようぞ!ついてくるが良い、保育所までの道はそれほど長くはない!」
「…」
マロースは答えを待つことなく、子供を抱え上げた。後期高齢者にさしかかろうという年齢にもかかわらず彼の肉体はそれを微塵も感じさせない。
「ホッホォ!我輩は冬の男!少年よ、寒かろう!」
「…」
「のお!ソビエトの冬よ!冬将軍の権現よ!寒かろうのう!少年よ!」
「…」
「我が息は吹雪の風!ゴダールは“子供達はロシア風に遊ぶ”という映画を撮ったが、ワシに言わせればちゃんちゃらおかしいものよ!ロシアの風に子供が遊べるものか!いや、内容はどうであれな!」
「…」
「着いたぞ少年よ!ンン…ェヘン!ェヘン!!我輩こそは冬将軍、ロシアの北風の権現マロース博士よ!保育士殿よ!こちらに一人、貴殿のィヤスリーから零れ落ちた少年を連れて参ったぞ!ェヘン!ェヘン!誰かおらぬか!」
「…」
「誰か!誰か!…んぬ!?少年、少年よ!何処へ行った!?保育所はここだ!おい!」
いつの間にかマロースの腕の中から消えていた少年は、少し離れた場所でポケットを漁った。小型のICレコーダと、メモ帳、鉛筆を取り出す。
「…ジェット・マロース。きん務中に飲酒。監査官に対しては一方的かつ高圧的に話しかけ続け、その正体に対し油断し切っての行動が目立つ。めいていしていたとはいえやや注意欠かん。対応として“見るからに怪しい態度”を取ったが、まるで疑わず。功績をかんがみても一度厳じゅう注意を進言…保井虎尾」
「何を消しているんですか?」
ガスマスクの中に声が響く。長女は答えない。
「すみません、どちらに向かわれているのですか?」
長女は答えない。何も喋らず、余所見もしない。静かに廊下にいる男の後ろに忍び寄っては、首に手を絡める。スプレー缶を口元に当てる。耳元で小さく「貴方は転寝をしてしまっているのよ」と呟く。倒れこんでくる彼らの肉体をそっと抱え、地面に寝かせる。次。次。また次。
「あの、すみません。私の声は聞こえていますか?」
長女は答えない。廊下を進む。後ろから、二人の女性がついてくる。
「あの、あの」次女は何も話さない。長女を押しのけ、階段を上る。何人かの機動部隊隊員とすれ違うが、すれ違いざまにまとめてエアロゾルの詰まった煙幕を投げつける。「あらァ、俺たち気絶しちまってたみてェだ」
彼らを抱え上げ、踊り場にもたれかからせる。次女は何も言わない。
「すみません、それ以上近づかないでください」次女は答えない。階段を上る。後ろから二人の女性がついてくる。
「今すぐその場で止まってください。別サイトに連絡し機動部隊がこちらに向かっています」三女は動じない。廊下を突き進む。横から一人の背広姿の男が飛び出してくる。即座に首筋に手刀を打ち込む。男は意識を失って倒れた。記憶処理は施さなかった。「来ないでください。あの」三女は何も言わない。
ふいに長女が走り出した。一瞬遅れて、次女と三女もそれに続く。“三姉妹”はお互いに押しのけあいながら、廊下を突き進んだ。
最初に到着したのは次女だった。三女と長女が追いつく前に、急いで部屋の中に入る。部屋の中には一人の男。怯えた目でこちらを見ている。
「な、なんなんですか…?あの…通信室に…?というか、僕に…何の用」
次女は彼の前に立った。しっかりと直立し、ポケットに手を突っ込む。空いている片方の手でガスマスクを取った。職員の誰にも見せたことの無い顔。後ろでドアが開く音が聞こえた。長女と三女だろう。次女は少しだけ後ろに気を遣いながら、息を吸う。ずっと言うつもりだった一言を、口から吐く。
「あの…これ、チョコレート…です。…好きです」
サイト-8192で一件の葬儀があった。身寄りのないエージェントと、機動部隊員と、表向きは社会からいなくなったことになっているDクラス職員と、あまり表に出せない職員たちのためのものだ。皆忙しかったけれども、そこはなんとか都合をつけて集まるのが通例となっていた。簡素、かつ合同のものではあったけれども、そんなことは関係なく職員は割にこの葬儀には参列していた。
「あたし、けっしてそっち方面の専門家じゃあ無いんですがね、いいんですかね」
紅屋瓶蔵は控え室で呟いた。
「良いんですよ。紅屋さん。こんなものは所詮遺されたもののための儀式ですし、また生きている職員に財団が残酷な組織ではないことをアピールするためのパフォーマンスだ。まさか貴方も、死後の世界とか極楽とかを信じている口ではないでしょうな」屋敷信正—屋敷博士がそれに応える。
「あんた宗教学者でしょう。そこまで言いますかね」
「だからこそ言えるのですよ。わざわざ記憶処理まで使って坊さんを読んでくることは無い。それらしく見えれば良いのであって、それでパンピー職員は何だか死者をあたたかく見送った気分になる。それで良いのです。袈裟を来たヨボヨボのジジイが前に出て来て、それらしく喋って、それらしく祈る。その所作こそが大切なのですよ」
「へぇ」紅屋は分かっているような、分かっていないような声を上げて頷いた。
「…それでは、あたしは少しお手洗いに行ってまいります。直ぐに戻ります」
「便器に座ったまま死なんで下さいよ。いい迷惑だ」
「言いますね」紅屋は控え室を出て、サイトの廊下を歩く。手近な手洗いに入り、個室で用を足した。すると、彼の耳に何かの噂話が聞こえてきた。
「…骨は無いんだな」「…そうだね」「どっかに行っちまったんだっけ?穴に落ちて。仕方ないけどさ、遣る瀬無いな」「…いなくなった…ってことだよね」「又中クンは?」「…98サイトに出張。多分、来れない」「…死にたくねぇなあ」「……そう、だね」
葬儀の参列者の会話だろう。少し気になって、紅屋は個室に座ったまましばらく聞いていた。エージェントと思われる二人の共通の友人。ポータルオブジェクトに飲み込まれ、ついに帰ってこなかったらしい。
しばらくそこにいると、彼らの後に手洗いに入ってくる人々の色々な話が聞こえて来た。怪物に引き裂かれた機動部隊員。収容室で隙を見せたがためにとんでもない死に方をしたDクラス職員。どれもが現実離れした、およそ普通の生活をしていては経験することのない死に方であった。
「本当にいいのかねえ…」
紅屋はかぶりを振って便器から立ちあがった。廊下を歩いて来る途中で、こちらに向かって歩いてくる屋敷博士に出くわす。
「あんまり遅いのでついに逝ったかと思いました」
「年寄りは便所が近いだけですよ。しばらく出られませんから、多めにしておかないとね」
「デリカシーのかけらもありませんな。大人ですか?」
「うふふ」彼の言葉はいつだって刺々しい。それが己を異常の嵐から守るための精一杯の鎧であることを、紅屋は知っていた。
「屋敷さん。あなたは…死にたくないでしょう」
「それは、まあ当然です。生きているものならば皆当然でしょう。私はヒトなんです。人として生きて、あくまで人として生き延びます」
「誰か特定の人を思い浮かべています?」
「…ご想像にお任せします」
「…本当はどうなのでしょう」
「と、言いますと」
「あなたは怖いのでしょう?自分が分からないものが。自分の知らないものが。自分を越えて行くものが。だからそれを研究した。神を、儀式を、宗教を。だからあなたはいつだって、ヒトを越えているかもしれないものに対して厳しいのでは無いですか」
「…不愉快です。いや、気分が悪いですな。あなただってそうなのではないですか。こんなところにいつまで居るつもりなんです?離れるのが怖いのでしょう。未知の世界の入り口の横から離れたら、いつ、そこから出て来て、いつ、そばに来たのかわかりませんものね。その老眼と、遠くなった耳で」
「…否定できませんねこりゃ。…みんな、同じなのかもしれませんね。だからこそ、私たちはとりあえずは仕事をしなくてはいけない。ここに残るために」
「…間も無くお時間です。袈裟を着直して下さい」
葬儀会場までの廊下を歩きながら、紅屋は少しだけ考えた。この葬儀もまた、その一つなのではないかと。死にたくない。財団に居る職員ならば皆そう思っているだろう。それは一般社会で生きている人々と比べたら幾分か大きな気持ちなのかもしれない。だからこそ、彼らは死を実感するためにここに集まって来る。財団職員に限った話ではないが、この葬儀が定期的に行われている理由が少しだけ分かった気がした。
「紅屋博士。こちらになります。…では…最後の別れを、よろしくお願いいたします」
「了解しましたよ。…ェハン。失礼いたします」
ドアをくぐる。見知らぬ職員たちがこちらを一斉に振り向く。彼らに一礼し、部屋の前方にある簡素な祭壇の前に座る。棺が置いてある職員もいれば、写真が飾ってあるだけの職員もいる。おおよそ死体が入りそうにもない、小さな小箱だけが置いてある所もあった。
「…?」ふと目がひとつの写真に止まる。紅屋の目が、隣の写真に、棺に書かれた名前に、死者の一部分だけが収められた小箱に映る。
それは、紅屋のかつての教え子達であった。覚えている。自分が育てた名前を覚えている。そんな職員の名前が、紅屋の眼前にちらほら、広がっていた。
「屋敷博士…やはりお人が悪いです」
こんなものは所詮遺されたもののための儀式だ。屋敷の言葉が頭の中で反響した。
紅屋の後ろに座っている職員たちが、固まってしまった紅屋を心配してざわついた。自分の知っている名前が前に置いてある。自分の知らない名前が後ろに座っている。
「みんな…慕われていたんですねぇ」
手を合わせる。後ろの職員がそれに続く。
「合掌。そして、祈りを」
「ビデオカメラが撮影を開始!直ぐに確認に向かいます!」
雛形が机の上の鍵を引っ掴み、スタジオを飛び出す。パソコンと睨めっこをしながら、僕たちは取り敢えずコーヒーを淹れた。
「よーし、直ぐに現場周辺の住民調査の結果を当たれ。どうだ。」
僕は手元のタブレット端末を操作し、検索を行う。
「居ました。42歳男性、実家にて8年前から引きこもりを開始。使用しているインターネット回線の記録からは小児性愛と欠損嗜好の形跡が確認できます」
「十分だ。直ぐにエージェントを現場に向かわせる。3人で良いだろう。くれぐれも住民に気づかれるなよ」
中山室長が携帯電話で付近に張り込んでいたエージェントに連絡を取る。しばらくして、雛形から着信があった。
「こちら雛形。犯行現場が撮影されたことを確認しました。撮影者を一瞬気絶させ撮影記録をコピー、完了して居ます。直ぐにそちらに送信いたします」
スタジオの共用メールボックスに、数十MBのデータが送り込まれてくる。
「よし、仕事の開始だ!」
僕は手元のCG編集ソフトを起動する。エージェントが撮影してきた男性の画像を元に、30人がかりで超速で男性の3DCGモデルを作っていく。向こうのテーブルでは1000人体制で犯罪行為が撮影された現場、そのもののモデルが作られていることだろう。
「出来ました!」「こちらもOKです!」
完成した3DCGモデルを並べ、さも男性がその犯罪を犯したかのように見えるよう、映像を編集していく。監督が横で確認し、違和感のある部分を全てピックアップして編集班に回す。
編集班はPhotoshopで指摘された細々とした違和感を手作業で修正して行く。ここが最も手間のかかる作業だ。割かれる人員も多く、時に中国のスタジオに一部仕上げを外注することもある。中山室長は「向こうの奴らは仕上げが雑だ」と言ってあまり彼らを好んで雇用しようとはしないけれど、僕の目には十分な仕事ぶりに思える。
「出来ました!直ぐに焼きます!」
田中さんが出来上がったデータを送信し、ビデオテープに完成した「犯罪映像」を録画する。予備も含めてダビングしたところで、帰ってきた雛形さんが目的地までとんぼ返りをした。
「エージェントに記憶処理薬を持たせているだろうな」
「大丈夫です。…任務、完了しました」
スタジオに安堵のため息が充満する。
このスタジオがいつから存在しているのか、そんなことは僕たちにはどうでもよかった。ただ僕たちは「カメラ」で犯罪の映像が取られた時にそれを直ぐに回収し、それに合わせて最新のCG技術で偽の映像を作る。それだけだ。そんなスタジオが全国に幾つもあって、それらは全部まとめてただ、「財団」と呼ばれている。似たような名前の小さな組織が同じく在るらしいが、そんなものに僕たちの技術がばれるものか。ばかばかしい。