ボッズの記憶

黄色とオレンジ色をしたアイポッドが、小さな車輪を拘束で動かしある人間の足元に集った。その人物は、二つが揃う前まで覗き込んでいた望遠鏡から顔を遠ざけ、「もにょもにょ」と、人間の聴力では決して聞き取れぬ会話をする両目たちに視線を向ける。その人物は微笑みながら、黄色の方を膝に乗せた。
 
「久し振り。長旅ご苦労。地球での生活はどうだったかな? 何があったか教えてくれないか?」
 
片目を膝に乗せた人間は、机上の奥に置いてあった電線を取り出した。黄色い片割れは順応するかのように右側面の開口部を開く。中にあるのは小さな差し込み口であった。その穴の一つに機器が挿入され数秒すると、机と観葉植物の真横に壁際に設置されたディスプレイに数秒の砂嵐の後、これまで彼らが見、聞き、知ったことが放映されるのであった。
 
  


オレンジのツナギを着た若い男性が、警備隊に組み伏せられている。ツナギの男は警備隊を退けようと懸命にもがくが、力学と医学的な知識が合わさった拘束に為す術がない。オレンジの男は「死にたくない」と叫んでいる。そうして「非人道的」だと訴えている。白衣を着た女性が近寄り、ポケットから黒光りする銃口を取り出した。通常なら、命乞いをするのが正常な反応であるが、男は射殺されるのが最も安らかな最後であるかのように、安堵した表情を浮かべた。
 
銃口の位置は頭部に定まっていたが標準位置が変わり、大動脈に被弾しないよう気を使った弾丸の射出が行われる。致命傷に至らなくとも肉を貫通する一撃は強烈だ。その銃撃は二度行われた。拳銃を片手に白衣を翻す女性は云う。「生け捕りにしておけ」と。警備員は頷いた。女性は次にこう述べた。「SCP-106の部屋に生きたまま拘束しておきなさい、と。その番号の意味を知るツナギの男は目を見開き抵抗を見せるが、その首筋に注射針が突き刺さる。
 


強風でマントが流され、露になるのは不可解な刺青と褐色に焼けた肌である。アベルは首元に装着された鋼鉄製の首輪を煩わしく思いつつも、しかし自主的に取り外すことはなかった。訓練中の彼は木製の玩具の剣を振るい、機動部隊を押しのける。その顔には退屈ばかりが浮き彫りになっていた。
 
「やぁ、アベル。ご苦労さん。これでも飲んでみないか」
 
演習が終わって、研究員から差し出されたのは緑色をした液体であった。アベルはグラスを受け取り、一口飲む。
 
「なんだこれは?」
 
「お酒だよ。どうだい、おいしいかい?」
 
「何というか、ミントのような……」
 
「つまり、さわやか?」
 
「……、さわやか」

研究員の言葉に同意したアベルは、この液体の詳細を訊ねた。途中まで、清涼感と緑色を効果を呈す効能に強い興味を示しつつも、唯一の欠点を聞くと急激に興味を失い、飲みかけのグラスを研究員に押し付けた。
 


無個性なT路地の長い廊下に、テディベアが走りぬける。その数秒後、奴は、数名の研究員の肉体を通り抜けた。


腐食する液体を垂れ流す仮面と対峙し、拘束されたペスト医師は賛美歌を歌いながら狭い独房の中にいた。マントの中から、彼専用の医療道具を取り出し、提供されたDクラス職員の肉体を切開する。通常なら死亡してもおかしくない出血量と肉体的な損傷なのに、犠牲者の意識は鮮明に保たれ、恐慌と混乱による悲鳴をあげていた。
 
「怯えなくても良い」
 
鋭利なメスをクルクル回しながら、内臓を切り分ける。Dクラスは痛みを感じなかった。それゆえ、自身の内部がプチプチ音を立て切られる感覚をより一層味わい、それが何よりの苦痛だった。
 
「私は、医者だ。きみは何も怯えることなんかないんだよ。病気は治るからね」
 


手足が奇妙に長く、無毛で白い肌をした痩躯の男が顔を両手で押さえ泣き叫んでいた。その激しい拒絶と嫌悪の反応が数十秒続いた瞬間、クルリと背中を見せ、収容室の壁を軽々と引き裂いてどこかへ向かう。男の悲鳴は怒号に変化していたが、その遠吠えの奥底には深い憎しみと悲愴があった。聞く者の感情を揺さぶりかけ真に迫る、絶体絶命の声であった。
 


デッキブラシとモップを手にしたオレンジの男の足元に纏わり着きながら、アイポッドは慌てたようにうろつき回る。オレンジのツナギは悪態をつきつつも、足蹴にしたり乱暴な所作を取ることはなかった。アイポッドはSCP-173の収容室の入り口に先回りして、ジャンプしながら、中に入ることの危険性を訴えていた。アイポッドを無視して、収容口のシャッターがゆっくりと開かれる。シャッターが全開になる前にアイポッドらは、室内を凝視するように視点位置を変えた。
 
出入り口が完全に開くと、オレンジの清掃員数名は部屋の壁に手を突く彫刻から目を逸らさないよう、掃除を開始する。血と便の混じったそれはブラシで掻き、水で流すたび強いにおいを放った。
 
やがて掃除が終わり、清掃員は入室した時と同様に彫刻を凝視しながら退出する。清掃員が全員出、シャッターが閉じられる最中、アイポッドも同じように忌まわしい彫刻を凝視していた。


野外のテニスコートに全身を炎上させる巨大なノミがいた。一撃ラケットを振るたびに炎が疾走するような爆風が巻き起こる。その衝撃で数名の研究員が吹き飛ぶが、反対側のテニスコートに対峙するアベルは別であった。歯を食いしばり、太股の筋肉を隆々と膨らませ跳躍し、放たれた渾身のスマッシュを投げ返す。オキシディストは、その反撃が愉快だったのか、金属音の混じった異国の言葉を発した。その応酬は、日暮れまで続いた。
 
一方、試合風景を撮影するのはブライト博士だ。彼は「実写版・テニスの王子様」として上映すべくカメラを回しているのである。無論、O5に映像記録を取り上げられ、禁止リストが増加したことは云うまでもない。


狭い通気口の中にテディベアが立っていた。それを追いかけると、ぬいぐるみは逃走する。仲間たちの最後尾にいるのは、新しい素材で出来た未知の存在であった。
 


「クソトカゲの収容室にミュウツーがいるんだよ!」

警備員に拘束されつつそう叫ぶのはブライド博士だ。

「数秒だけで良いから、中を開けてくれないか!? 僕はまだゲットしてないんだよ! ミュウツーが欲しいんだ!!」
 
「ブライド博士に、未来永劫ポケモンGO禁止を命じる!! O5の許可はいらん! 追加しておけ!」
 
アイスバーグが怒鳴った。
 


研究員の一人が壁の穴に片手を突っ込み、何かを掴んで取り出した。恐る恐る手の平を開くと、そこにあるのは幼少の頃失った、思い出の人形である。

「まさかこれが出てくるなんて!」
 
顔は嬉しさに充ち満ち、さも大事そうに人形を胸に抱いた。その人形は一昔、外国で作成され一世を風靡した子供向けのヒーロー人形だ。研究員は俄かに目尻に涙を溜めている。
 
「僕が小さい頃、お小遣いを貯めて初めて買ったフィギュアなんだ。クラスに一人はいるだろう、意地悪なガキ大将。そうそう、クレフみたいな傍若無人で迷惑なだけの奴。そいつが僕の大事なコイツを濁流する川に投げ捨てたんだ。しかも目の前でだよ! くそったれ! ……ん、まあとにかく僕のところに戻ってきて嬉しいよ。あんまり珍しくもないし、買おうと思えばオークションとかでも手に入っただろうね。だけど、僕が少ない小遣いを貯めて買った奴は、こいつだけなんだ。大事な奴なんだよ」
 
研究員は懐かしさと興奮により頬を赤くさせながら、鼻を啜った。思い出の人形をテーブルの上に置いた瞬間、そのフィギュアはショットガンにより粉砕された。四肢が四方へ飛び散り、床に落ちる。思い出の大事なフィギュアは、修繕不可能な有様となった。
 
「よくも俺の悪口を云ったな! 破壊してやったぞ!!」
 
クレフ博士は白い煙を垂れ流すショットガン片手に、ニヤニヤ笑っていた。
 


ポケットディメンションからオールドマンの片手が伸び、脚部を圧力機で破壊され悲鳴をあげるDクラスの目の前に、粘着質な音を立て現れた。オールドマンはニタニタと笑いながら、未だ苦痛の声を迸らせるDクラスに、わざと余裕をもって近寄った。ポケットディメンションから出てきたのは、オールドマンだけでなかった。少し前、内部に取り込まれたエージェントも同様に出てきたのである。
 
オールドマンはエージェントの少し遅れた放出に気付き、背後を振り替えつつも、壊れ玩具に興味を失っているのか、対して反応を示さなかった。死刑囚の拘束具の縛めが遠隔操作で外れると、Dクラスの襟首を掴んであなぐらの中に引っ込む。Dクラスの顔には腐敗液が二三滴付着し、足の破壊よりも顔の負傷の方が苦しいらしく戦慄し悶え発狂していた。
 
脅威が去って数分しないうちに、その場に駆けつけるのは機動部隊だ。エージェントの奇跡的な生還に驚きつつも、担架に乗せ集中治療室に移送する。

「初めての帰還者だ! 延命処置を!」

蚊の鳴くような声で「殺してくれ」と訴えるエージェントの主張は、誰の耳にも届かない。聞こえなかったわけではない。黙殺されたのである。
 


バレンタイン当日、アイスバーグとギアーズ博士は隣同士に座り合い、ささやかな恋人同士の時間を楽しんでいた。アイスバーグは、その頬を氷点下から人並みの温度に程近いものにさせ、目線を意図的に逸らしながら、華やかなラッピングが施された四角い箱を差し出す。
 
「酒菓子ですが、構いませんか?」
 
「あなたが用意した物なら何でも構いません」
 
対するギアーズは無愛想というよりも素っ気無く返答する。通常、その態度に応対した人間ならば、無感動な態度に傷心するだろう。しかし、アイスバーグは彼が懸命に対応しようと努力していることが、その丁寧な返事から感じ取ることができた。未だ人間としての感情を失いまいともがく彼に悲しさを憶えつつも、それを無視した。そのような感傷は、まだ必要ではない。まだその時ではないからだ。
 
ギアーズは、プレゼントの箱を受け取り、包装紙を規則正しい手順で外した。次に蓋を開けると中にあるのは、実においしそうなチョコレートである。一つ指に摘み口に運ぶ。美味とは異なった笑みがギアーズの顔に、自然浮かんだ。
 
「また来年もこうしたいですね」
 
「ええ、そうですね」
 
「……私の感情が全てなくなっても、来年といわず毎年そうしてくれますか?」
 
「勿論です。僕がし――」アイスバーグは首を振った。紡ぎ出る言葉はギアーズにとってどれほど残酷なものであるのか、知っていたからだ。「僕は、幸せですよ」
 
代わりに出た本音でありつつも、限りなく嘘に近い返事にギアーズは何か云いたそうな一瞥を送りつつも、「そうですね」と同意した。次いで訪れるのは沈黙だった。ギアーズはチョコ菓子をテーブルの上に置き、腕時計で今の時刻を確認する。アイスバーグは、「自分が死んだら」と云いかけた重みに胸中を支配されている。ギアーズはネクタイをスルスルと解いた。その動作を見たアイスバーグは、その行動は何を意味しているのか悟ったのだろう。顔を真っ赤にして俯いている。ソファの足元にネクタイを放り出しかけたギアーズは、アイポッドの存在に気付く。

「ここから先は見せられないんだ」
 
“両目蓋”を手の平で隠され、部屋の外に出された。
 


8時45分になると、研究員がコーヒーを片手にアイポッドの前に現われる。それは日常的なものであった。
 
「やぁ、元気かいボッズ。この前はスピードを出しすぎて壁に激突していたようだけれど」
 
研究員は笑いながら、オレンジと黄色の彼らを撫でた。ボッズのプニプニとした感触が好きなのか、猫の咽喉、犬の頭を撫でるように念入りに行われる。研究員が存分になでた後、ボッズたちは白衣をユラユラ動かしながら歩き去る彼の背後を追った。
 
「ついてきちゃったのか? 残念だけど、ここから先はとても危険なんだ。すまないね、ドアは閉めておくよ」
 
コーヒーを飲みながら研究員はボッズが入らないようにドアが閉められた。しかし、数秒と経たない内に、横引きのドアが開く。研究員は閉じて数秒としないうちにまた開いたのだ。
 
「今回の研究で私は昇進しそうなんだ。個人の研究室がもらえそうなんだよ。そのときは、私の部屋においで。たっぷりなでてあげるからね」
 
鼻歌混じりの声であった。ボッズたちは「もにょもにょ」と互いに言葉をやり取りしながら、ピョンピョン飛び上がる。子犬のようにはしゃぐボッズに研究員は手の平をひらひらと動かしながら、今度こそ本当にドアを閉じてその奥へ入った。
 
翌日の8時45分、彼は二度と姿を現さなかった。

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