2011年10月29日
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空白
空白

 四月の空は高度を大きく失い、大きく弧を描く飛行機雲に引き裂かれている。空の青さが瞳に満ちると、まるで己の空虚さが少しは誤魔化せるのではないかという気がしてくる。そんな理由で兄弟殺しの元・納棺師は、ベンチに座ってひたすらに無為を為すことを好んでいた。

 冬を過ぎた大気は、それでもまだ湿潤とは縁のない男の肌をきりきりと掠めては、舞い上がった砂塵を翻弄する。片割れを手にかけてからというもの、男には今までなかったはずの花粉アレルギーの症状が現れていた。天罰の類かもしれないと男は半ば本気で考え、そして残りの半分では否定している。

 "会合"は昨夜遅くに開かれ、侃侃諤諤の混線と錯乱を収集する目処も立たず、日の昇る頃になって全員が諦念という言葉を知ったことで終幕を見た。あれはひどい乱痴気騒ぎだったと思う。男はすっかり統制を失って垂下した前髪を、しきりに手袋越しに撫で続けていた。あの議場に紛れ込んでいた土竜(モグラ)──財団と連合、それと政府系の泡沫な組織──たちの処遇は、彼らの希望もあってあらかた向こうに委任されている。ゆえに男は即座の解放にあずかることができ、こうして公園の長椅子で無為を享受するに至ったのだ。

 彼ら──あるいは彼女──には感謝の念を伝えるべきかもしれず、男は言伝を誰に頼むか、選び取らねばならない。数時間ただ雲の流れを収めていた虹彩が、男の疲労と懈怠によって緩慢に閉じられる。脳髄から一挙に血が引いたような感覚、魂が重力に負けたかのように頭を垂れて、男は気づく。

「……だれだ」

 口腔内の渇きが、男の声を実年齢よりも二回りほど過剰に老化させていた。音も気配もなく、いつからかベンチの端に座しているスーツの男。オダマキが、実は己が白昼夢のうちにいるのではないかと疑念を生じさせたのは、ひとえに赤い天狗の横顔が原因だった。

 陽光に晒された鮮血のように輝き、それでいて生命の溌剌さとは無関係な興奮を促す赤色。おそらくは樹脂製の天狗面は──彼の体調不良が大きく影響しているのかもしれなかったが──常に表情を動き回らせているかのごとく見える。

「だれだ、と聞いてる」
「………………」

 意図的な無視だと元・納棺師は結論付け、正面の砂場へと視線を戻す。公園の外縁部に三名、内部にも一名の護衛が配置されていたはずだが、砂場で生成破壊を繰り返す幼稚園児も、ブランコで行きつ戻りつをしていた少女も、まるで初めからいなかったとでも言いたげに、園内は無人に成り果てていた。

「コードネーム・イトクリ。伊藤遊佐か」

 赤色の長い鼻は、相も変わらずただ向かいの枝垂桜の並木を向いていた。それは穢れから逃れようとする忌避感にも似て、大いにオダマキの不快と不興を買った。

 まさか花粉症対策ではありえない天狗面の下には、実はただ真っ平な皮膚だけ存在するのではないか。うすら寒い妄想がほんの一瞬だけ神経系に発火し、オダマキは唐突な頭痛とともにそれを忘れる。少なくとも目の前の男が味方でないことだけは確かで、今もって殺害されていないことを鑑みれば、話を聞く気はありそうなものだった。

「伊藤遊佐だな」

 だが、天狗が会話というものを知っている確証はない。

 放っておけば機械的なリピートをいつまでも繰り返しそうな天狗は、ふと、ダークスーツの懐へ手を伸ばす。両者の間にあった奇妙な緊張感は、一挙にこの場をキリング・フィールドに変えかねない害意となって立ち現れる。

「……もう一度聞く。伊藤遊佐だな」
「違う」
「伊藤遊佐でなければ、お前は誰だ」
「伊藤遊佐は死んだよ。俺が殺したんだ」

 初めて天狗の黒い目が、オダマキを捉えた。憤怒の表情で固められた天狗面は、まるで当てが外れたことに対して理不尽に怒っているかのように、ただこちらを無言に睥睨し続けている。

「……なるほど。PSYCHEのミスか」

 頭痛によって徐々に質量の増してきた頭は、オダマキの神経を必要以上に先鋭化させていた。先ほどと変わって表情の定まった天狗は、始終ペースを握ったまま、ただただオダマキにストレスを強いている。先ほど伸ばしたきりの手が再び動き、大気を伝わる害意と警戒の眼差しが一点に集中する。

「これはお前だろう」

 天狗が取り出したのは、真新しい数葉の写真だった。明度の低い小さな四角の中には、暗闇と女と男、そして幾つかの贄の姿が収められている。オダマキは別段驚くこともなく、"会合"の一場面を押さえた紙片から目を離す。あの東屋での"会合"。オダマキの黒いオールバックが上から、はっきりと、影のように突っ立っている──その様子を、この天狗は見ていたのだ。

 物分かりの良いメイカーズのみが招かれる饗宴は、すでに十数度目になる。研究者連中のうち、特に急進的な者たちの利益代表者として参じているオダマキにとってみれば、あのイカレたトイ・メイカーの招きこそ、彼の目的に適う今のところ唯一の希望に他ならない。収容主義者の兄のはらわたから盗み出してきた黒塗り文書の数々は、彼らの歓心を買い、そして自らの立場の強化に必要不可欠なものとなった。収容主義者たちは今もなお彼を追い、そしておそらくその者達とは異なる組織の工作員が、こうして目の前にいる。今後の人生のほとんどは追われる身なのだろうなとオダマキは思い、ふたたび手ひどい頭痛に見舞われた。

「日本生類創研は財団から離脱した伊藤遊佐、イトクリ博士の参加を機に、数年で国内のPNコマースを席巻した」
「夏山の爺さんは今頃頭抱えてるだろうよ」

 東弊重工の悪癖と悪弊、それから悪意と悪質さを煮詰めてできた職人の男を思い浮かべ、オダマキは軽薄な笑みを禁じえなくなる。2006年の"邂逅"が現在の状況を作り出すことを目的としていたものだったのか、今となっては誰にもわからない。何しろ東弊重工の元締めである夏山は二度とその会合には参加せず、また使者の派遣にも応じることがなくなった。鳥越は直後の連合による襲撃で、"アルカトラズ"に幽閉されている。

 いずれにせよ、日本生類創研は勝者となった。正確には、その一部が、勝利の美酒にて泥酔することを許されていた。躍動的特異経済理論(Dynamic Anomaliy Economics)の旗印に参集した者の中には、旧態依然とした東弊重工の意向に逆らう元工員たちの姿もあった。超常経済における金融商品取引のほぼすべてがMC&Dの手に握られている以上、彼らの意向を避けて経営を成立させるためには、並々ならぬ苦心と惨憺が必要とされてきた。同業者らによる企業連合、明確な管理者を持たない護送船団方式が戦後間もなく構築され、踏み荒らされた庭を手入れしなおす庭師の役目を負ったのだ。それはうまくことを運んできたのだろう。だが、歴史はすでに彼らの役目の終わりを告げている。オダマキにはそう思えてならず、だからこそ兄の古巣へ、兄として舞い戻ったのだ。

「世界オカルト連合極東部門は日本生類創研との協議を望む」
「なに」
「外部サプライヤーとしての打診だ」

 表情の激変を抑制することに全神経を注いだことで、オダマキのこめかみには幾筋かの脂汗が表出していた。己の命運は、実はすでに尽きていたのではあるまいか。天狗が開かずの口の放った言葉は、まともな内容ではなかった。

「お前はいったい」
「PSYCHEの"使節"だ。あなたとの連絡役を受け持つ」
「それはわかりますが、だが、焚書官のみなさんは、いったいどういう風の吹き回しで」
「プロメテウス、ロゴス。連合は常に友人と手を携えてきた。だが冷戦後の20年間、我々はたった独りであらゆる研究と開発を行ってきた。極東部門はすでに独自の兵器開発能力を喪失していると言ってもいい。最高司令部で行われている会議の20パーセントはMC&Dによる経済的侵略について、そして残りの30パーセントは財団との情報戦について。あとの半分は──私も知らされていませんが。PLOTEMYは慢性的な人材不足の自己解決をすでにあきらめ、外部組織との提携を謳い始めた。ともかく、連合は機密を保持することができ、かつ共同歩調を取ることの可能な研究機関を求めている」
「馬鹿な」

 額を左手で包んだ元・納棺師の男は、天狗の面をちらと横目で見やった。再び脳天から血流が一斉に避難を始めていて、重力の下、意識が井戸の底へ落ちていくのを必死につなぎとめる。

「我々はあなたがた圧制者や焚書官に組しない。それがトイ・メイカーとの契約だった」
「それなら」

 ──連合はあらゆる犠牲を払う、という高らかな宣言を、オダマキは聞いた。"アルカトラズ"に幽閉中の鳥越の解放、そしてワンダーテインメントへの軍事作戦。彼の言う一連の"手切れ"が成功すれば、日本生類創研は晴れて超常世界の表舞台へと姿を現すことになるだろう。日本国内のPNコマースを制圧しつつあり、独力でMC&Dに対抗しうる力を持った現在ならば、その話は決して夢物語ではない。だが、トイ・メイカーは、あのイカレた外資の女は決してこの誘惑を歓迎しない。憎悪すらしていることは明白で、一蓮托生となったワンダーテインメントとの手切れは、あるいは日本生類創研の、もしくはオダマキ個人の破滅を意味するかもしれなかった。脈拍が乱れ、無様な様態をこの男の前で晒していることが余計に腹立たしい。眼前の天狗は悲惨なほど対照的に、平静な様子で返答を待っている。

「……私とは、会わなかったことにしてくれ」
「いいだろう」

 天狗の着るダークスーツの材質は、少なくともオダマキの見たことのある代物ではなさそうだった。彼らの持ついわゆる"ブラック・スーツ"であるかどうかまではわからないとしても、この誘惑が取扱いに慎重を期するべきものであることは間違いない。すでにこの現場がワンダーテインメントに監視されているという可能性も否定できず、もはやオダマキの身体の周りには針でできた筵が巻き付いているのだ。

「それでは、また会う機会があれば」
「待て」
「何か」
「名は、名を名乗ってください」
「海野です。以後、お見知りおきを」

空白
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ごめん飽きた。

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