財団管理部門人事教育部作成: 政治史講義テキストからの抜粋
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※本項は20██年発行の超常政治史B 第3版を元に製作されています。




太平洋戦争と財団、そして財団の政治介入について

 これまで財団において繰り返されてきた重要な議論の一つに、財団による国家への政治的介入の是非というテーマがあります。財団による政治的介入の一つのモデルケースとしてよく挙げられるのが、第二次世界大戦、特に太平洋戦争です。当時財団は──その国家のほぼすべてが収容活動体制下にあったという理由から──半ば連合国側へ加担する形で、この戦争に介入していました。
 当時は収容活動体制の外部にあった大日本帝国およびその勢力圏、そしてユーラシア大陸東部地域安定化を目的として、財団は連合国への──決して積極的とは言えませんが──協力を行っていました。大日本帝国は、財団への参加を半ば"欧米列強主導による既成の秩序への参加"だとみなし、それを忌避する傾向があった12のです。財団は、フィールドエージェントによる非公式接触や、渉外担当官による公的な打診(これらは主に1940年頃の日米交渉時に派遣されていました)を繰り返していました。
 また一部では、日本施政下の地域に於いて、同国の了解を一切得ずに収容活動を行うこともありました。収容活動を行うことは無論国際的公益に適った行動であり、財団にとっては公式且つ合法的(超法規的3)活動でした。しかし、大日本帝国はそれらの活動が露呈すると猛烈な抗議を示したのです。財団による非認可の収容活動は日米交渉にも翳を落とし、その和平案の妥結をいっそう難しくする要因となりました。それを受けたアメリカ合衆国が財団に対し、日本での収容活動を控える要求を出す事態4にまで発展したのです。財団は表面上その覚書を順守する姿勢を見せましたが、実際には収容活動をより隠密裏に行うよう方針転換したにすぎませんでした。
 ここに来て、財団O5司令部内では論争が発生しました。O5の数名が、「日中戦争時から続く大日本帝国との軋轢をさらに強めれば、最悪日米間の破局的戦争に財団が巻き込まれる5」として、収容活動に対する慎重論を提示したのです。しかしそれらはあくまで少数派にすぎず、

  • 日米戦争発生という可能性の低さ
  • 仮に発生したとしてもその戦争は短期的に終結するだろうという幕僚部による分析6
  • 日米交渉への信頼感(当時日米諒解案が提案されていた)

 これらの要因によってO5は日本における収容活動が「不必要な介入」とは認めず、その継続を公的に指示したのです。
 しかし幕僚部の分析は全く外れてしまいました。アメリカ合衆国は財団の予想以上に態度を硬化させていましたし、大日本帝国は大胆な戦略を取ったのです。実際に戦争が発生すると、O5内では先の問題が再び──しかし今度は多数派が逆転した形で──討議されることとなりました。
 財団は、日米間の和平の早期締結を半ば強権的に両国へ要求し、日本による東南アジア地域からの即時撤兵と、アメリカ合衆国政府による石油供給の即時再開を求めました。しかしこの手法は国益や外交について全く無思慮かつ礼儀を欠くもので7、両国政府は財団の要求が「両国間の微妙かつ繊細な事情について考慮していない非常識なもの」として拒否し、戦争は継続される結果となってしまったのです。しかし、希望はまだ残されていました。
 諜報活動によって、財団は大日本帝国内部には短期の内に戦争を終結させる意思があることを突き止めていました8。しかし問題は、いくらその戦争指導計画について調査しても、そのロードマップがどこにも策定されていなかったということでした。
 財団は、大日本帝国に短期決戦へ導くための能力が欠如していることを見抜けなかったのです。またアメリカ合衆国においても、財団は無力でした。アメリカ世論は既に過熱しており、最早財団によって自然な世論操作を行うことは不可能に近い状態となっていたのです。
 大規模な国家間戦争に対する財団の脆弱さが、露呈した瞬間だったと言えるでしょう。早期講和を断念した財団は、対日戦争(太平洋戦線)戦域臨時対応部門を編成し、日本本国を含むあらゆる地域に於いて、収容活動を継続しました。大日本帝国に対する財団収容体制への公式参加の打診も、並行して行われました。しかしその戦争中──ミッドウェー作戦失敗後の戦況悪化後も──大日本帝国は一貫して財団組織への参与を認めませんでした。この裏には、軍部と強力に結びついた国内の要注意団体(GOI)、異常事例調査局(IJAMEA)や蒐集院などの組織による影響があるとされました。
 財団臨時戦域部門は直ちにこれらの影響力を排除することを決め、大日本帝国本国への暗殺部隊派遣をO5へ具申しました。しかしO5はこの提案に難色を示したのです。それは、先の日米交渉・早期講和への失敗があったためでした。数年以内に大日本帝国が降伏することは見えていましたし、また欧州戦線ではナチス・ドイツが大きく後退を始めた時期にも重なり、O5は無用な介入が戦争へ悪影響を及ぼすことを良しとしませんでした。
 しかし、実際に終戦が近づいていくと、対日戦争は米ソ間の勢力争いの前哨戦という様相を呈し始めました。財団はこれ以上のアジア太平洋地域の不安定化を望まず、終戦へ向けて改めて両国へ宣言(第4090号O5声明9)を行いました。内容は「戦争終結後には、日本周辺地域の統治者の変更如何に因らず、財団はこの地域を公的に認められた収容活動体制下に置く」というものでした。これらの宣言は前回の失敗を踏まえ、十分な根回しと事前協議のもとに発布され、日本、アメリカ合衆国、イギリス、中華民国(そしてソ連も含め)はこれを1945年5月に承認しました。
 異常事例調査局は財団の宣言を受けた後に突如として解散され、蒐集院は日本国内での影響力を著しく低下させました。しかし継戦派は大陸で活動中の陸軍を中心に根強く、財団は連合国軍による日本本土進攻を支持し、その支援を行うことを申し出ました。
 ところが、実際には本土進攻を待たずして大日本帝国は降伏しました。財団は直ちに特命高等弁務官を派遣し、旧来のGOI関連施設ならびにその資産を差し押さえ、日本を収容活動体制下へ組み込むことに成功しました(無論、新興の世界オカルト連合の妨害をかなり受けていましたが)。
 しかし間もなく、財団は日本を中心とした地域の安定化が、このままでは達成できないことを悟りました。GHQを隠れ蓑とした政治介入によって、共産革命や旧軍によるクーデターの防止など国内治安の維持には成功したものの、日本を取り巻く状況は悪化の一途をたどっていました。冷戦構造が徐々に明らかになっていくと、財団はこの「戦争前夜」の状況に似た日米交渉での失敗を思い出したのです。
 財団は日本を巡る諸問題に対し、基本的にはアメリカ合衆国を支持する方針を取りました。それは、これまでの財団による政治介入とは一線を画すものでした。価値判断の基準を「財団自身の判断による道義的正義」から、「大多数の国際社会が認める正義」へと転換したのです。
 ソ連は財団の中立性を非難しましたが、財団は抗議に対しては一貫して「財団の立場は常に安定を至上命題としている」とし、冷戦にともなう収容活動体制への危機を回避することに努めました。戦時期の経験を踏まえ、財団の外交能力は目覚ましい成長を遂げたといるでしょう。
 しかし、次の問題はすぐそこまで迫ってきていました。


戦後の日本における財団、PEJEOPATの創設について


 財団は、これまでの国家同士の外交関係への介入という形から、今度は財団自身が勢力間外交のプレーヤーの一人となっていくという状況に置かれるようになります。
 始まりは、世界オカルト連合(GOC)の設立でした。財団日本支部の正式発足に先立って設立されたGOC極東部門は、財団による統治機構掌握には出遅れたものの、着実にその地盤を固め、日本での異常存在への破壊活動や、GOIへの積極的な攻撃を開始していました。
 財団日本支部はGOC極東部門という組織をかなり危険視していました。この組織の内部には財団へ反発した蒐集院関係者や旧軍の将兵がおり、次第に財団への対抗組織としての性質が強くなってきていたためです。
 社会的要因による日本国内の動揺を抑えることに成功した財団は、しかし本格的に自らへ挑戦可能な組織の出現までは予測していませんでした。
 世界各地では財団とGOCによる緊張状態が現出され、特に財団の浸透が遅れた日本や中国、朝鮮半島ではあからさまな対立が始まりました。国際的な冷戦の開始と同時に、超常世界においても冷戦が起きていたのです。
 ところが、財団はGOCに対して強硬な態度を見せることをあらゆる部署に対して禁じるという手段を取りました。国際社会が軍拡競争という狂乱に晒される中、財団は極めて開明的な外交政策を取ったと言わねばなりません。しかし財団も全く対抗的な手法を取らなかったわけではなく、財団はGOCに先駆けて日本政府と「非常事態に関する財団と日本政府間の取り決め」を締結し、国家権力と財団活動の結合化を図りました。
 正式な統治権・行政権保有者との約定は、自らの活動を正当化する上で最重要ファクターたりえるものでした。GOCもやや遅れて同様の協定を日本政府と締結し、事実上財団──日本国──GOCの二重同盟状態が発生しました。にもかかわらず財団、GOCは双方とも、この日本政府のある意味背信的な行為に対して一切の非難を行いませんでした。
 財団からしてみれば、この状態こそ望みうる最善の安定状態であったのです。2つの協定にはいずれも、「日本国の秩序及び国体護持に対して挑戦的な存在に対し、2者は共同して対処する」という条文が盛り込まれ、組織間紛争によって、日本へ被害を与えた組織が外交上不利になる状況を作り出すことに成功したのです。これは両組織間での突発的紛争の抑止に大きな効果を与えました。GOCは次第に勢力拡大を目的とした財団への挑戦を止め、対立はおろか冷戦構造からの避難において財団と協力する姿勢を取るようになっていきました。
 その背景には、日本政府による異常存在への独自政策の開始がありました。
 総理府内閣調査室異常部門(CRO-PN)、公安調査庁特異案件対策室(AID)、陸上幕僚監部調査部第2課別室内部の超常案件対策部隊("角鴟")、そして公安警察内に設置された特事セクションなど、次々と官僚組織の内部に異常存在を扱う部署が新設され、財団及びGOCは国家権力との結合化を見直すべき状況に置かれました。協定は日本政府の行動を止める上でかえって障害となり、財団とGOCの2者は新たな枠組みの新設を求めるようになっていたのです。協議は秘密裏に行われ、日本に対しては完全に秘匿されていました。1年に及ぶ協議の末、「既存の日本国内の超常組織間の平和友好のための機構」の設立が提言されました。
 この提言は財団とGOC双方の最上位指導層の了解を得、それらの署名とともに日本政府へ送られました。この提言を受けた日本政府の衝撃は計り知れず、一時は財団とGOCからの最後通牒だと見る向きさえあったと言われています。日本政府はアメリカ合衆国へこの提言に関する情報を送付し、この条約に伴う政治的判断への是非を問いました。この動きを察知した財団とGOCはアメリカ合衆国大統領へ向けて直接、「極東アジア地域での国家による異常存在対策活動への懸念」を伝え、その反対への動きを封殺したのです。拒否への退路をふさがれた日本政府は、19██年、「既存日本超常組織平和友好条約10」を財団、GOCとの間で締結しました。そして同時に「既存日本超常組織平和友好条約機構11」が発足したのです。この組織はある程度3者から独立性を持ち、公平な立場から各組織間での利害衝突などを調整することを目的としていました。その権限や制約の大半は財団とGOCによって決定され、日本政府はほぼ参与することができませんでした。
 この既存日本超常組織平和友好条約機構は現在まで残っており、日本における超常組織間の紛争解決や公的機関などとの利害調整に役立てられています。とにもかくにも、こうして財団とGOC、そして日本政府の3者は一応の平和を得ることとなりました。


筆者あとがき

 大規模国家間戦争への介入、そしてGOCの出現に伴う財団の超常組織間外交の始まり。20世紀は財団にとり激動に次ぐ激動の世紀であったということは言うまでもないことです。21世紀は、どんな世界が我々を待ち受けているのでしょうか。その答えを探るためにも、歴史を学ぶことには大変な意義があると筆者は思っております。このテキストを読んでいるあなたが、これからの世界をより良く導いてくれることを祈っています。
 確保、収容、保護。

- 超常史編纂部門 史学博士 古海彦秋12 19██年9月23日、サイト-81██にて。

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