「兄貴、一緒に映画見よ!」
猫宮幸子が一枚のDVDを携えて猫宮寓司の研究室を訪れたのは、夜もどっぷりと更けた頃だった。何事かと眉をひそめる寓司を尻目に、幸子は勝手知ったるとばかりにずかずかと上り込んでくる。寓司の個人用パソコンのパスワードを慣れた手つきで解除し、DVDを挿入。
「おい、ちょっと待てって、僕はまだ仕事が」
「残ってるの?」
幸子の言葉に、寓司は残った仕事を見やる。今日中に片付けなければいけない書類はあらかた終わっていた。出来れば早いうちに終わらせたいものもあるが……他でもない妹が訪ねてきてるのだ、明日に回しても問題あるまい。寓司はわざとらしくため息をついて見せた。
「……あと五分待て」
寓司がそう答えると幸子はにこにこと笑う。
「さっすが猫宮研究員、仕事がお早いですなあ!」
「馬鹿にしてるな」
「してないしてない。兄貴は私の誉れですとも」
「……エージェント・猫宮の働きもなかなかのようで」
「馬鹿にしてる?」
「してないしてない」
軽口を叩きながら、寓司は書類をファイルにまとめる。一方幸子はどこからか椅子を引きずってきて映画を観る準備を始めていた。
「それで、なんで急に映画なんだ」
「んにゃ、特に理由はないんだけどさ。串間さんがオススメって貸してくれたから。なんかすっごい感動したんだって!」
「ふーん」
口では興味がない風を装いつつも、若干の期待を胸に抱きながら寓司も映画を観る体勢についた。二人肩を並べてモニターを眺める。幸子が楽しそうにエンターキーを押した。
「それじゃあ、再生!」
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1時間後。
「……つまんねーの」
寓司はぼそりとつぶやいた。
串間保育士から借りてきた、というその映画は典型的な恋愛映画であった。
可憐で不幸なヒロインが複数の男性の間で揺れ動く。感受性豊かな若い女性なら感情移入して楽しめるのだろうが、あいにく二人ともそんな性質ではない。
幸子はといえば、兄の肩に頭をあずけてすやすやと寝息を立てていた。時折むにゃむにゃと不明瞭な寝言をつぶやいたりもしている。
自分から誘っておいて、と思わないでもないが幸子が熱心に恋愛映画を見ていても寓司としては複雑だったろう。
明日串間保育士に感想を聞かれでもしたらどうしよう、と考えながらぼんやりと画面を眺める。パソコンのモニターの中では、一人の男性がヒロインに熱く迫っているところだった。
『たとえ死んでも、俺が君を守るよ!』
ストーリーはよくわからないが山場なのだろう。豪華な音響、光の中で男優が叫んでいる。
なんとも陳腐で安い台詞だ。映画の中で使われる「死」の一文字は寓司からすれば、当然かもしれないが、ひどく軽い。もはやそのことにいちいち不快感を感じる段階でもなかった。そんなことを考えるには、あまりに、死に慣れすぎている。
寓司は毎日死と隣り合わせに、否、死と混ざりあって生きている妹の頬を撫でた。暖かかった。
「たとえ死んでも、僕がお前を守るよ」
口にすればなんとも気恥ずかしい。しかも聞くもののいない独り言だ。誤魔化すように咳払いして身じろぎすると、パチりと幸子が目を開いた。
「ダメだよ、兄貴」
猫のように丸い瞳がまっすぐと寓司をとらえる。突然かけられた声に、寓司は軽く狼狽した。
「お前、起きて……」
「兄貴が死んだら、私は嫌だよ」
寓司の言葉を遮るように幸子がはっきりと言い放った。呆れかえるほどにストレートな言葉だ。ありきたりで、当たり前で、仲のいい兄にかけるにはぴったりで。けれど、だからこそ寓司はその言葉に答えることができなかった。
僕もお前が死んだら嫌だよ、と、そう言えたならどれだけ幸せだったろう! けれど寓司にはその言葉は許されていなかったのだ。
「……そうか、お前は僕が死んだら嫌か」
そうつぶやくのが精一杯だ。言葉が詰まる。本当はもっと言いたいことがあるのに。二度と死ぬなと言ってやりたい。悔しい。
寓司と幸子の世界は重ならない。
「あれ? もしかして兄貴泣いてる? 泣いてる??」
「泣いてない」
「わーい兄貴を泣かせちゃった!」
「泣いてない。兄相手に生意気なことを言うな」
「はいはい」
幸子はニヤニヤと笑いながら再び寓司の肩にもたれかかった。すぐにすぅすぅと、規則的な寝息が聞こえてくる。もしかしたら、溌剌と寝ぼけていたのかもしれなかった。
寓司はそっと幸子の手を握る。するとか細い力が握り返してきた。彼の妹は生きている。何度冷たい手を握って、もう二度とこんなものには触れたくないと思っても、寓司は幸子の手を握ってしまうのだ。その熱量がただひたすらに寓司の呼吸を苦しくさせる。きっとまたいつかこの体温もあっけなく奪われてしまうのだ。
けれど、今はただ温かい。猫宮幸子は生きている。死に続けながら生きている。だからやっぱり、寓司はこの言葉をつぶやくのだ。
「たとえお前が死んでも、僕がお前を守るよ」
お前が業火に包まれたのなら僕がその体を抱き上げよう。
お前が水底に沈んでいくのなら僕がその腕を引っ張ろう。
お前の肉体から血潮が滴るなら僕がその傷口を塞ごう。
何度死んだってその度に僕が駆けつけてやる。僕はお前をここまで連れて帰ってやる。お前が100万回死んだとして、100万1回目に目を覚ますときも僕はお前の兄であり続ける。お前が生き続けて、死に続ける限りずっとそばにいてあげるから。
だから、だから――。
モニターの中ではいつの間にかヒロインが一人の男性とゴールインしたらしかった。教会で二人が永遠の愛を誓っている。
「永遠、か……」
呪いのような言葉だ。永遠の命、永遠の愛。何度も恨んだその言葉を、それでもやっぱり信じていたかった。
肩に乗る確かな重さ。小さな吐息。暖かい体温。寓司は静かに目を閉じた。
「おやすみ、幸子」
今日も生きていた妹に今日も変わらない挨拶を。願わくは、明日も、その先も、笑顔で「おはよう」が言えますように。