ikr_4185 / #財団版深夜のtale執筆1時間勝負「SCP-347-JP」
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罪、とは何であろうか。

例えば、ある社会においての規範、それに反する行為は罪である。
長い文明発展の歴史に於いて、最小限の倫理として様々な法が定められ、それに対して"罪"も定められた。
然し、社会が多様である以上、規範も多様な物であり、また罪もそれに従い多様な形態を取っていた。

罪が多様であるように、罰も多様であった。
形態としては同類の罪も、別の社会では罰の軽重は全く異なる物となり、身体性の伴わない名誉刑・財産刑から、最も重い物では生命刑まで存在した。
此処に於いては"罪"は相対化される物であり、個人の罪悪感は考えられていないのは確かである。

法に対して、道徳は如何であろうか。

道徳は、善悪の規範である。然し理学の法則とは異なり、善悪は客観的な物では無く、個人の内に存在する主観的な物である。
確かに、社会道徳は存在していると言える。だが社会道徳は、ある共同体の中でのみ共有される物であり、これもまた相対化される物である。
何れにせよ、道徳も絶対的な物では無く、従って道徳に対する罪も相対化されている。

罪は、個人の内に存在する。

はたして、そうだろうか。

罪を負う者は、相応の罰を受け無くては為らない。
社会に対する罪であるなら、社会に対して。
個人に対する罪であるなら、個人に対して。
神に対する罪であるなら、神に対して。
自己に対する罪であるなら、自己に対して。
何れにせよ、罰を受けなくてはならないのは、彼である。

はたしてそうだろうか。

罪悪感は、内から発せられる物だ。
人間は、自らの罪に対して罪悪感を覚え、それを補償しようとする。
罪人は、補償をしなくてはならない。それは人間の内的な機制に因る物である。

だが、罪が相対的な物であるなら、補償も相対化されて然るべきである。
補償が相対化された時、罪悪感もまた相対化される。
だがこれは内的な物である以上、温度や重量の様に比較できるものでは無く、その点で客観的評価を行う事は出来ない。
罪悪感は、相対化されるが、評価できない。

彼の罪は、彼の罪なのだろうか。

此処で私は思考しなくては為らなかった。
何処に矛盾が存在する?

相対化される罪は、内的な物である。
此れは人類の歴史が生み出した、否、人間の内的機制が生み出した真実である。此処に偽りはない。
だがもし、絶対的な罪が存在する為らば。
内的機制に依らない、絶対性がそこに用意されていたとする為らば。

罪とは、個人の内に存在する物なのであろうか。

もしも、罪が外に存在したら?



彼の罪は、私の罪だ。

私は、これ以上を得ては為らない。

私はこの事を、啓蒙する。それが、彼の罪に対する補償と為ろう。



SCP-347-JPは当時███市にあるサイト-81██でSCPの監視を行っていた瀬戸研究員が強姦殺人の容疑者として逮捕されたことから発見されました。瀬戸研究員は ──

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