吠えるカナリア 1章その1
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1章「遊びの時間」

 町外れにある小さな貸しビルの1階に、「セグメント・カバー・パトロール」のオフィスはあった。築40年は経過してそうな、古いビルだ。
 1階にはインディーズプロレス団体が入っていて、朝から晩まで威勢のいい掛け声が聞こえてくる。
 3階には胡散臭い団体の道場があり、4階は空きテナントになっていた。そういうビルだ。

 ヘルメット男の保護を終えて、虎屋はオフィスの机に封筒を置いた。
「お疲れさま。これが今回の報酬だよ」
「ありがとうございます、所長」
 明細には5桁の金額が記入されている。
 加奈は首を傾げて、明細書越しに所長の狐面を見つめた。
「微妙に多くないですか?」
「君、色々見ちゃったからね」
 所長はわざとらしく溜息をついて、加奈に背を向けた。
「絶対、誰にも言っちゃダメだよ。情報が漏れたら、それ嫌がらせみたいに減らすからね」
「わかりました」
 加奈は素直にうなずいて、封筒をバッグにしまった。
 虎屋は自分の机に陣取ると、出前のナポリタンを手に取った。
「すっかり冷めちゃってるな……あ、今日はもうお仕事終わりだから。時給の方は、いつも通り25日に振り込んでおく」
「はい、よろしくお願いします」
 加奈は一礼すると、建て付けの悪いドアを閉めて仕事場を後にした。

 隣の市との市境にあたる峠を、加奈はマウンテンバイクで登っていく。人気のない道路を走った先に、目的の場所はあった。
『さくら療心院』
 色あせたコンクリートの平屋の前にマウンテンバイクを停めると、加奈は足早に建物の中に入っていく。
 薄暗い廊下を足早に歩くと、彼女は106号室の前で立ち止まった。
 入院患者のネームプレートは一枚だけだ。
『鳴谷晴香/在室』
 在室なのを確認すると、加奈は古ぼけたドアをノックした。

「はい、どちら様で……おや、加奈さんでしたか」
 振り向いたのは、スーツ姿の中年男性だ。首からネームカードを下げており、「ソーシャル・ケア・プロジェクト 学習指導員・間尾」と記されていた。
 6畳ほどの明るい病室には、ベッドが一床しかない。簡素な学習机があり、小学校中学年の女の子がプリントの束と格闘していた。
「あ、お姉ちゃん!」
 ぱっと表情を輝かせたのは、加奈の妹の晴香だ。
 加奈にとっては、唯一の肉親だった。
 腰を浮かせかけた晴香を、スーツの男性がたしなめる。
「晴香さん、先にプリントを終わらせてしまいましょう」
「えーっ……」
 残念そうな顔をする晴香に、男性が笑いかける。
「今やってる分だけでいいですから。残りは宿題ということで」
「やった!」
 一転して嬉しそうな顔になった晴香を見て、加奈も思わず苦笑してしまう。どうやら妹は元気そうだ。

 プリントを終わらせた晴香は、いそいそと立ち上がる。
「お姉ちゃん、今日ね……」
 そこにノックの音がして、エプロン姿の若い女性が入室してきた。
「晴香ちゃん、シーツ干すの手伝ってくれないかな?」
 また残念そうな顔をする晴香。
「串間お姉ちゃん、私にお手伝いばっかり……」
 加奈がすかさず妹をたしなめる。
「入院するときに、お姉ちゃんと約束したでしょ? 病院のお手伝いも、ちゃんとするって」
 姉にたしなめられて、しゅんとする晴香。悲しそうな顔をして、目を伏せる。
「そうだけど……でも、お姉ちゃんと……」
 すると串間と呼ばれた女性も、にっこり笑って励ました。
「すぐ終わるから、がんばろうね。早く干さないと、シーツ乾かないからね?」
「……うん」
 ようやく納得して、晴香はシーツの詰まったかごを持って歩き出す。
「すぐ戻るから。帰っちゃダメだよ、お姉ちゃん?」
「だいじょうぶ、帰らないから」
 苦笑して手を振り、妹を見送る加奈。

 晴香の姿が見えなくなると、加奈は真面目な表情で振り向いた。
「あの、妹の様子はどうですか?」
 スーツの男性はプリントの採点を終えて、小さくうなずく。
「今のところ、学習内容に影響は出ていないようです。事故前の単元もしっかり覚えていますし、事故後の単元も習得が早いですよ」
「そうですか……」
 ほっとした加奈だが、次の言葉に心臓を突き刺される。
「ただ、人間関係に関する記憶だけは、安定しません。僕や串間保育士の記憶が、時々曖昧になるようです。僕が出した宿題は覚えているのに、僕のことを一瞬忘れたりしますね」
 加奈はうつむき、無言で説明を聞いていた。
 しばらくして、ようやく口を開く。
「どうして、なんでしょうか……」
「わかりません。僕は医師ではありませんから、医学的なことは何も言えませんね」
 そう言うとプリントの束をブリーフケースに収め、彼は立ち上がる。
「この施設の人はみんな、晴香さんの記憶を守るために戦っています。どうなるかはわかりませんが、できることは全部やりましょう」
「ありがとうございます」
 加奈は立ち上がると、深々と一礼した。

 彼と入れ替わりに、晴香が戻ってくる。きれいに折り畳まれたシーツと一緒だ。
「これ、私のベッドに敷くの!」
 慣れた手つきでシーツの交換を始めた晴香に、加奈は穏やかな気持ちになる。
(家事が得意なのは、事故の前と同じだね)
 加奈はせっせとシーツを交換している妹に、何の気なく声をかける。
「宿題、ちゃんとやらないとダメだよ?」
 すると晴香は姉に背を向けたまま、元気よく答えた。
「うん! 松尾先生の宿題、あんまり多くないから大丈夫!」
「松尾先生?」
 晴香に勉強を教えているボランティアは、間尾先生だけのはずだ。
(まさか……)
 不安な気持ちになった加奈に、晴香が振り向いた。
「あ、間尾先生だった。なんかすぐ間違えちゃうの」
「そ、そう……うん、いいよいいよ」
 どうやらただの勘違いだったらしい。加奈はほっとして、立ち上がった。
「せっかくだから、ちょっと散歩しようか?」
「うん!」

 病棟周辺は質素だが広い庭になっていて、よく手入れされた花壇と家庭菜園が広がっている。
「あそこにお芋植えたんだよ」
「じゃあ、秋になったら一緒に焼き芋食べようか」
「うん!」
 他愛のない会話を楽しみながら、姉妹は手をつないで歩く。
 加奈は昼下がりの青空を見上げながら、ふと思う。
 せめてこのまま、もう何も失うことがなければいいのにと。
(お父さんとお母さんが死んじゃったのは、もう吹っ切れた気がする。でも、晴香が……)

 両親を失った事故のとき、晴香もまた後遺症を負っていた。
 記憶が少しずつ、失われていくのだ。
 そのことに気づいた加奈は死にものぐるいで奔走し、晴香を治療してくれる病院を探した。
(大変だったなあ……)
 あちこちたらい回しにされたあげく、やっと見つかったのが、この小さな医院だった。小さいながらも入院病棟があり、保育士や家庭教師のボランティアも来てくれる。
 今はここで治療法を探りつつ、症状の進行を少しでも食い止めようと努力しているところだった。

「お姉ちゃん、考えごと?」
 晴香が心配そうな顔でこちらを見ているので、加奈はハッと我に返った。
 なるべく明るい笑顔を作り、晴香の頭を撫でてやる。
「ううん、何でもないよ」
「えへへ」
 安堵し、嬉しそうな妹。
 その表情を見て、加奈も優しい気持ちに包まれる。
 すると晴香が笑顔で言った。
「事故のとき、お姉ちゃんが私を助けてくれたよね? 最初の入院のとき、ずっと私の手を握っててくれたし」
「あはは、そんなこともあったね」
 怖い事故の体験も、少しずつ話せるようになってきた。晴香の心が、恐怖を克服しているのだ。加奈は嬉しかった。
 晴香は加奈の手を握って、少しはにかむ。
「お母さんと一緒に、お見舞いにも来てくれたよね?」
「ん?」
「ほら、ケーキ持ってきてくれたでしょ? みんなで食べたじゃない」
「あ、あー……そう、だね。うん、そんなこともあったね」
 加奈は苦笑してみせた。
 晴香はそんな姉にしがみつくと、照れながらもしっかりと言う。
「お父さんもお母さんも死んじゃったけど、お姉ちゃんがいてくれて良かった」
「……うん、私も晴香がいてくれて良かったよ」
 加奈はそう言うと、ちらりとガラケーを見る。
「おっと、もうバイトの時間だ!」
「え、もう? じゃあ一緒に病室まで帰ろ?」
「うん。帰る前に、先生に御挨拶していくね」
 姉妹は仲良く手をつないで歩く。

 加奈は笑顔を浮かべたまま、心の中で呟いた。
(晴香、お母さんは事故のときに死んじゃったんだよ……お見舞いのケーキなんて、誰も持ってきてないよ……)
 だがそれを口に出すことはできない。
 異なる記憶を抱いたまま、姉妹は手をつないで歩き続けた。

「晴香ちゃんの症状、進行してるわね」
 主治医の前原は腕組みをして、ボールペンで机をトントンと叩いた。彼女は言葉を選びながら、なるべくわかりやすく加奈に伝える。
「脳の記憶を司る部分が、どんどん新しいものに置き換わっているの。だから記憶も入れ替わってしまうのよ」
「防げないんですか?」
「普通は起こらないことだから、治療法もまだできてないの。ツテを頼って大学病院にも相談してるんだけど、うかつにいじると他の記憶まで置き換わる可能性があるわ」
 前原医師の言葉に、加奈は苦悩する。
 晴香の症状は、人に関する記憶にしか影響しない。
 勉強した内容や何かをした体験は、消えずに残っているのだ。
 ただしその記憶に誰かが絡む場合、それは別人に置き換わる。
 前原は加奈の表情を見て、小さく溜息をついた。
「少なくとも今のままなら、晴香ちゃんの社会生活に支障は出ないと思うわ。分数の計算もできるし、メールだって送れるもの。でも……ね」
 何事も明瞭に告げるのが前原医師のスタイルだが、今日は妙に歯切れが悪い。
 だから加奈は、確かめるために口を開く。
「もし治療して変なことになったら、それも忘れてしまうかもしれないってことですか?」
 加奈の問いに、前原はうなずいた。
「その可能性は高いわ。脳外科や心理学の専門家がチームを組んで治療法を探しているけど、リスクが高すぎるのよ」
「そうですか……」
 うなだれた加奈の肩を、前原が優しく叩く。
「今はリスクの低い治療法を探しているところよ。幸い、ここに来る前よりも症状の進行は格段に遅くなっているわ。焦らず、気長にいきましょう。ね?」
 前原医師の優しい言葉に、加奈は少しだけ励まされる。
 加奈は顔を上げて、力強くうなずいた。
「はい」

 加奈はマウンテンバイクを押しながら、医院を後にする。
(やっぱり、なかなか治りそうにないなあ……)
 晴香の治療費は、決して安くない。
 この手の重い病気なら国の補助が出るのだが、晴香の症状は病気として認知されていないのだ。だから健康保険でまかなうことができず、どうしても自費診療になってしまう。
(私がもっと稼がないとダメだね)
 落ち込んではいられない。加奈は自分を叱咤激励すると、マウンテンバイクにまたがった。

 ブラインド越しにそれを見送ったスーツの男が、白衣の女性を振り返る。
「見守るしかない、というところですか。前原博士」
「今のところ打つ手ナシだもの」
 前原はコーヒーをすすって、頭を掻いた。
「SCPオブジェクトの確保に失敗したのは痛いわね」
「オブジェクトの回収については、担当の部署が動いています。間に合うといいんですが」
「そうね……。間に合わなかったときの準備だけは、進めておきましょう」
 スーツの男は小さくうなずき、ブリーフケースを手に取った。
「手配しておきます。彼女には伝えますか?」
 前原は少し考えてから首を横に振った。
「いずれ、ね」

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