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「猫宮」
「はい?」
リラクゼーションルームにて。猫宮はミケの腹を撫でながら、呼びかける声に顔を上げた。見ない顔が、大きめのカゴを持ち立っている。こちらは向こうのことを知らないが、向こうはこっちのことを知っているらしい。その鋭い目つきは、ともすると不機嫌そうにさえ見える。猫宮は相手のキツく見える視線に思わず眼を泳がせながら、頬の辺りを居心地悪そうにかりかりと掻いた。
「……えと」
「悪い。初対面だった。私、エージェント・西塔」
「あの、新人エージェントの猫宮です。はじめ、まして」
「……」
沈黙が流れる。気まずい。猫カフェ常連の水野研究員が、シロを抱えるようにだいて二人の様子を窺っている。
「……その、何か?」
耐えかねて苦笑いながら立ち上がった猫宮が口を開くと、突き出されたのはひとつの籠。意図がわからず、思わず猫宮は目を瞬いた。
「掲示板にお前がペットを預かってるという話を見て来た。緊急の任務が入ってて困ってるんだ。良かったら、預かってもらえないかな」
なんだ、ペットの話か。ホッとして猫宮は胸をなでおろす。早速カゴを預かろうと、その中を覗こうと西塔に近づき――
「ええ。もちろん良いですよ。えと、飼ってるのはどんな子で――」
――全身が、堰を切ったように総毛立つのを感じた。わたしの、しらない、いきものがいる。ナニカ、ワタシノシラナイ、モノガ、イル。
「タンザニアオオヤスデの五郎だ。可愛いだろ?」
「え? えええええ、ええ、かか、可愛いです! 可愛いと思います……その、こ、ここっ、個性的でっ!」
西塔の誇らしげで幸福に満ちたその表情に相反するかのごとく、巨大な虫がその中にいた。暗黒が形になったかのような造形に付随する足は、闇に朱の火が延々と灯されるかにも思える。節足動物。虫。インセクト。これは、完全に猫宮の管轄外である。確かに掲示板には記載されていない。ペットを預かる、間違いなくそう書いただけだ。しかし、こんなものが現れるとは。全く以て予想外だった。動揺して硬直する猫宮の後ろで、同じくオフのエージェント・育良がココに引っ掻かれている。
「可哀想に、前はこんな狭いものに押し込めたりせず一緒に散歩していたんだけど、結城博士が苦情を入れてしまって……」
「そ、そそ、それはその、残念ですね……」
「ああ……」
しょんぼり。これほどその形容が似合う表情も中々あるまい。人を抜く鋭利な眼差しは悲哀に満ちて伏せられ、きらきらと輝いている。その俯く姿さえ美しい。ここへ濡れた瞳と染まった頬でも添えてやれば、財団職員男子の半数ほどは容易く落とせるのではなかろうか、同性である猫宮でさえそう思えるほどの強い魅力に、それを後押しするような落胆が込められていた。
彼女の失意に呼応するように、五郎の、タンザニアオオヤスデの波打つ足が悲しげに蠢く。すごい量の脚だ。その脚から繰り出される感情表現はきっと豊かだろう。載せ心地も最高に違いない。自分の考えが着地点のないどこかへ行ってしまっていることを自覚しながら、猫宮は、背中に伝う汗と沸き立つ鳥肌に止まってくれと願うしかなかった。水野が西塔の後ろでヤマトを追いかけている。
「……まあ、それは良いんだ。本当は一日構ってあげるつもりだったんだけど、緊急って言うもんだから」
「なる、なるなるなる、なるほど」
自分の動揺が相手に伝わっていないか不安を通り越して吐きそうだった。猫宮は、安易な自分の行動を久しぶりに後悔した。彼女の楽天的な性質は、おおよその場面で取り柄には足るのだろう。しかし、それは時折恐ろしい落とし穴を作り出す時もある。そして――
「というわけで、預かってもらえないかな」
――それが、今だった。
「……」
視線が集まる。背中に視線が集まっているのがわかる。猫宮は、自身の後ろに期待と不安を抱く二人分の目線と、それとどうでも良さそうに過ごしている四匹分の存在があることを強く実感した。ここで引いたら、私は、西塔さんと同じく、ペットを飼う者として――どうなる??
それは、出来ない。猫宮は、心の中でその首を横に振った。そう、逃げては――ならないのだ。
「……わかりました。預からせて、頂きます」
ふ、と西塔の表情が柔和に転じる。後ろでピリついていた空気が、途端に減じるのを猫宮は感じた。勝った。私は、私に勝ったぞ。
「助かるよ、ありがとう。お礼は必ず」
「はい」
「あ、それと。エサは一緒に入れてあるから、くっつけてあるメモの通りにお願い。それから、一緒にいる時の過ごし方なんだけど……」
説明の合間に、連続した通知音が走る。財団所属の職員が必ず持たされる、専用の連絡端末からの着信だ。そして、それはどうやら西塔の端末への着信だったらしい。
「まずい、呼び出し。それじゃ、大体はメモに書いたと思うから、そのとおりに頼むよ! それじゃ!」
そう言うなり彼女は駆け出し――た、瞬間。リラクゼーションルームのテーブルの足に強かに脛をぶつけ、西塔は叫んだ。
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「ウグーッ!」
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しばし痛みに悶え転げる西塔。唖然として見つめる猫宮、水野、育良。時間にして10秒に満たない間の出来事だったが、西塔はよろけながらも立ち上がると、先程と変わらない勢いで走っていった。
「……」
猫宮は、手元のカゴを見つめる。
タンザニアオオヤスデの五郎が、不安を露わにするようにその触覚をふわふわと動かしている。きっと、普段と違う状況に怯えているのだろう。何となく察しているのだ。その表情は、表情というものがあるならば、おそらく、きっと、たぶん、物憂げだ。
……私が不安でどうする。私が不安で、どうするのだ。彼は、いや彼女かもしれない、五郎は、きっと飼い主から離れて寂しいのだ。つらいのだ。猫宮はよく知っている。寂しがりのペットは、しばらく離れてしまうと、とても悲しむことを。大変なストレスになることを。それをよく知っているからこそ、私が動揺してはいられない。五郎を、西塔が帰るまで、守ってやらねばならぬ。世話をしてあげねばならぬ。そう密やかに決意する猫宮の後ろで、育良がココに飛び掛かられている。
「……大丈夫。五郎ちゃん、君はちゃんとお世話してあげるからね」
カゴの中で、五郎の触覚が一際強く揺れた。
それはひょっとすると、彼女が猫宮を一時だけでも飼い主と認めた、その証だったのかもしれない――多分、猫宮の勝手な勘違いだが。
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「こないだ虫預かったって聞いたんだが、どうだったんだ」
数日後、猫宮の自室。
無表情に膝の上のココを撫でながら、エージェント・猫宮の兄、訪ねてきた猫宮研究員――寓司は聞いた。
「ミケ達に食べられないようにするのが大変だったよ」
「まあ、大変だったろうな。で、世話はどうだったんだ」
「……虫も、悪くないね」
こうして、猫宮のペットホテルに昆虫の預け入れが加わるのだった。