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- 真中央に関する来歴
- 途中で飽きたの
- イトマキ兄弟 見分けが付かなくなった話
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真中央(まなかひさし)は三川を見た。
「おう、三川。随分久し振りじゃないか。ご無沙汰という感じだ。積もる話も積もらない話も、抵抗感も無抵抗もあるだろうが、まあ座れ。手前との対談を俺ァ、楽しみにしていたんだぜ?」
真中がそう云って指し示すのは、四角い形状をしたテーブルである。対談を促された三川は警戒心を一切合切緩めることなく、軍人特有の足音のない歩調で椅子に近付き、テーブルや椅子、そして周辺に危険物がないか細心の注意を払い着席した。その動作、一挙一動を眺めていた真中は非常につまらなさそうに鼻を鳴らす。
「随分警戒してくれているじゃないか。俺如き一介下賎の一般庶民に行う仕種じゃないな。そう猫のように振る舞られちゃ、期待に添えたくなるじゃねえか。何だ、とりあえずここ一辺周辺を爆発爆散でもすりゃいいのか?」
「行うものも怠っては我が身が持たなく保てないのでな。まぁ……お前如き愚かで粗忽者に落とし入られるほど、まだまだこの私も耄碌していないつもりだ」
三川はくだらないことを云っているんじゃないと、眺め眇め真中を睨みつけた。そうして思い出すのは、この男の性である。『人の嫌がることを進んでやる』俗諺の意味を、本来の意味と、履き違えているような人間だ。彼はただの暇潰しと、三川の期待に沿えるため、言葉通り、本当にこの部屋を破壊することが予想された。真中はサービス精神が旺盛といえばそれまでであるが、嫌がらせに関しても十二分な力を持っているのだ。
「それで……前置きはこれぐらいにして、どうして一体全体私の前に姿を現した? 約六十年振りに再会するんだ。それ相応の用事は持って来たのだろうな? そうでなければ、今すぐこの場から退去するぞ」
「おいおい、カリカリしなさんなよ。ただ俺は近状報告するために、お前さんを呼んだんだからよぉ」
真中はそう云って、三川の正面に腰掛けた。三川は目の前に存在する男の顔を凝視し、真中を視認した時から持っていた疑問を口にする。
「近状報告か。それならば劈頭第一に訊きたいことがあるのだが、どうしてお前の外見は若々しい? 約六十年ぶりなのに、十代か二十代初めの姿そのままではないか。最後の――日本が敗戦し、財団に蒐集院が飲まれる以前よりも、青二才の外見をしているではないか?」
「お前の見た目も似たようなものじゃねえか、美青年?」
「私の見た目は財団で云うところの認識障害だ。だがお前はそうじゃない。誰かの肉体に憑依でもしているようだ。誰かの身体を間借りしているようなようにしか見えない。殊にその姿外見は、財団に就任していた人間のものだよな。名前は何と云ったか……そうそう、[削除済]だ」
三川の疑問を受けた真中は「表面上かつ抽象的でありながらもその指摘通りなんだがよ」と云いながら、テーブルの上に置かれていたティーカップを引き寄せ、琥珀色の水面に角砂糖を入れた。ティースプーンでぐるぐると砂糖粒を攪拌させながら、説明する。
「お前の云う通り、確かにこの肉体は故[削除済]そのものだぜ? 外法に外法を“乗っ取って”、因果応報の如くこいつの意識と肉体を支配している。一般向けに判り易く説明するならば、大蛇丸が他者に刺青のマーキングをして、時期が来たら“転生”するようなもんだ」
「転生……」三川はそこで若干興味を示したのか、足を組みながら正面を見据えた。「ほう。それで……一般的でない説明をするなら、どのようなメカニズムで肉体を奪取しているのだ?」
「心理遺伝だよ。夢野久作、ドグラマグラ。三大奇書として怪しくも名高い、その著者著作の名前ぐらい知っているよな?」
ドグラマグラとはブゥウウ――ンという一文から始まり、ブウゥ――ウンという一文で終わる小説である。特筆すべきはその本の“読み辛さ”が挙げられるだろう。余程の根気がなければ、チョンガレ唄辺りで挫折してしまう――読者に最低三度の完読を要する書物であった。個人的な見解に伴って語らせてもらうならば、冒頭部位はクライマックスゆえ読むのに労を報いないものだと解釈している。
「ネタバレになるが確かドグラマグラは、呉一郎が死体と化した美女の亡骸が、死体から腐乱となり骨身へと終わるその無常、至上の有様を鬼気迫り精密極まった天下の筆遣いで写生した巻物の内容を見、遥か一千年ほど以前の先祖たる呉青秀の意識が、己が妻をその手で縊り殺し――それからも後、女の亡骸を求め絵巻物に描き続ける意識に囚われて終うといった内容であったな」
「そ。その内容の複雑怪奇さを一言で片付けちゃならねえのだろうが、親は子に似る……先祖の悪癖が子孫に遺伝するといった内容だ。因果応報――意識と魂魄の隔世遺伝と云って良いのかねえ?」
「親――子、か。して、その[削除済]とやらは、お前の直系直属の子孫となるのか」
「そうだ。比喩ではなく直喩として、俺の息子となる。転生してから、オリジナルの俺の姿になるのが少々ネックだが、まあよかろう。[削除済]の他にも全国に種をバラ撒いちゃいるぜ。せめての情けとして、女親の気持ちを慮って意図的に双子を製造している。かたっぽが消えても、片方がいりゃ納得するだろう。諦められるだろうと思ってな。あ、因みに娘には手を出しちゃいねえぜ? 俺の転生固体は男じゃねえと――種子を霧散する雌有固体じゃないと転生できねえんだ。女だと正しく等しく畑違いって奴だ」
真中は呉の子孫が男でないと絵巻物を見て発狂しないようなものだと、笑いながら云う。
対して三川は双子を製造することについて、「それは余計な厄介、ゴタゴタを引き起こす要因ではあるまいか」と思ったが、余計なことは口を出さなかった。
「ところで三川、お前の顔すげえ面白いよな。変り種の……そうだな、乳首の部分が空いたTシャツの柄として、顔をプリントして販売していいか? 俺なら今年一番の流行柄として、ファッション業界を席巻してやるぜ」
「ふざけんなブッ殺すぞお前」
「冗談だって」
真中は「ヤマトモとか云うグロテスクな顔面凶器顔にするかな」と、妥協案を思案し初める。どうやら顔のプリントに関して冗談ではなく本気のようであった。ちなみに余談であるが真中はヤマトモと接触したときダンプカーを衝突させ、天高く舞うヤマトモを尻目に「トリプルアクセル、10点!」と評したのであった。
三川は話を戻すように、疑問に思っていたことを尋ねる。
「お前が蒐集院時代から財団へ吸収された後、一括徹底して“記憶の分野”に携わっていたと聞いている。もしやお前、転生することを前提に、子々孫々に“先祖の意識覚醒”を実現するために研究していたのか?」
「そうだな。それ以外の理由はねえよ。そうでなきゃ、人の頭を弄くるあんな根暗な場所にいるもんか。……それにしても記憶処理剤の研究か、懐かしい。俺一人じゃレトロ感満載の薬物しかできゃあしなかったぜ。なんつったけな、諸知博士と神山ブラザーズの協力と、死刑囚を使った膨大な動物実験(サンプル)がなければ、俺の転生だなんて夢想と等しき無残な夢であったことだろうよ」
「お前は何のために転生だなんて事象を行っているんだ? 葦船のように永久不滅、永劫不遜な生命を得たいがためにやっているのではないのだろう?」
「不老不死か。確か、あの枯れ木のような爺さん、それが目的だったかな? だが、お前の云う通り、俺にはそんなものにゃ興味はねえ。フラスコの小人じゃねえんだ。そんなもん会得しても空しいだけだ。ただ俺は“終焉を見るために長生きしたかっただけ”だよ」
「終焉?」
三川は眉を潜めた。真中は紅茶をぐいと呷って、ティーカップに戻す。口調の荒々しさに反して、礼儀礼節が細部にまで徹底された仕種であった。
「終焉。俗っぽい表現をするなら、『世界の終わりを見てみたい』って奴だ。とは云っても、俺が見たいのは終焉じゃなく、結末って奴かもしれないが……。それにしても――おいおい、笑ってくれるなよ。ラノベだと評してくれるなよ。俺の話を詳しく聞けば、二割程度共感……とはいかなくとも、理解はしてくれるんじゃねえのかな」
「冷罵されたくなければ話せばよかろう。最も一々滾々、喋々喃々語ったところで、お前の話に興味や共感を抱かない人間は一定数いることだろうな。私はお前の木端恥ずかしい主義主張、青臭くも拙い論調を、鼻で笑うつもりで聞いてやるよ。殊によっちゃ、後ろ指差して大爆笑してやる」
「ひどい奴だな。バーカバーカ、秒速で禿げろ」
「……お前は子供か」
呆れ顔の三川。
――やがて真中は、訥々と語りだした。
「終焉――或いは、結末。まぁ、ぶっちゃけると俺はこの世の中に疑問を抱いているわけだ」
「疑問?」
「オブジェクトのことだよ」
オブジェクト――超常的な作用を有した、有害と有能のアーティファクト。それが何なのか態々云うまでもなかろう。偏(ひとえ)に語るならば、SCPのことである。
「これまで財団は――財団に限らずあらゆる組織は、その異常物を使って伸し上って来た。時には武力で、或いは政治で――もしくは局所的かつ大規模に。個人や群集や国家が、人間の枠を超えた魔法のような、科学の極限とさえ云える物質を利用した。この点に関して、反論はねえな?」
「まぁな。第二次世界大戦――否、下手をすれば人間の起源、宇宙の発端すらオブジェクトが効果を発揮したことにより発展誕生した可能性がある」
三川の云うことは、誇大妄想かつ被害妄想による意見ではなかった。彼は下手をすればと云ったが、人間が理解できる範疇を超えた彼方にオブジェクトが関与している可能性があった。人はそれを神と呼んだか、悪魔と称するのか不明であるが……。
「そこで俺は思うわけだ。宇宙だなんて超々大規模深遠不明瞭なわけのわからねえ、人間がどう足掻こうと把握解明もできやしねえ、空間領域を光速で拡大させるモノにゃ興味はねえ。俺が云いたいのはこの地球上、具体的な時期を指摘するならサルがヒトへ進化した有史前後における人間の活動のことだよ。否、否々々々――過去現在未来における人間の生活が、全て、遍く、悉く、純粋な人の力によるものだったらどうなるのだろうかと――な」
「……オブジェクトが関与しない世界を見たい、もしくは全消失させたいということか?」
「異常物がない異常も、異常物の存在する世界による相似性――反作用によるアーティファクトの影響だ。少なくとも俺はそう思う。俺の云いたいことは、全世界、全ての平行世界における異常物の消失を狙っているんだ」
「それは――!」三川は僅かであるが狼狽した。にわかにではあるが、真中の意思の中に狂いを見出した。「そんな思想が――」
「三川、てめにゃわからないし共感できねえだろうが、世界は異常物によって疲弊し磨耗し劣化している。手中の珠を可愛がる余り、我が身可愛さ余って多大なる代償が人類に課されているじゃねえか。現実改変による安穏? 認識障害による暗澹? ミーム汚染による暗黒? 犠牲を有した安定と平和? だめだね。いらねえよ、そんなものは。必要ねえ、一個だって零細に無用だ。俺はよぉ――異常物を異常物で防護しなくとも――
――そんなモノがなくとも、人類は繁栄できる。
と、声高々に主張する」
「…………」
「俺は人間の可能性を信じている。改変による救済……無用だ、そんな改竄なくとも人間は存在できる。認識の加工による救命……そんなもの不要だ、そのような処置なくとも人間は実在できる。異常生命体による直接被害……たとえその事象が発生しても人間は生存できる」
人間は純粋に人間の力だけで生きるべきだ。
真中は無言になった三川を他所に断言し、締め括った。
「少し前に三川が云った通り、宇宙の誕生そのもの、人類の発生そのものがSCPオブジェクトによる可能性は否定できねえ。だが、俺は――その宇宙と生命の起源そのものを――全並行世界に存在する異常物を十把一絡げ、一切の例外なく消失させるつもりだ。三川の云う通り人間の誕生にオブジェクトが噛んでいて、全て人類が平行世界で消え去っても、宇宙や世界そのものが消失しようとも、俺は人間の可能性を信じるね。人間が生存できる世界線を信じるね」
「宇宙が消え世界はなくなり、人間がどの平行世界でも消失する可能性があったとしてもか?」
「そうだ。たとえ人間が消え去ってしまっても、異常物を無に帰す。宇宙が消え世界が消失しても、やがて宇宙が生まれ世界が誕生し人間が繁栄することだろう。俺は、そう信じているんだ」
真中は云う。
「俺は人間を賛美する。人間は素晴らしい。もっと云えば、人間が異常オブジェクトに頼らず、その危機に見舞われたとしても――滅亡しても生きている。生きていた。何と感嘆縷々滂沱することか! もっともっと云えば、人間が人間だけの力で生きていれば素晴らしい!」
三川は真中に、人間の可能性を信じる、狂信的な信仰に嫌悪感を抱いた。異常だと思った。異質だと感じた。狂っていると判した。
「お前は俺の主義主張、思想心理に嫌悪感を抱いているようだが、そもそもこの世界は疲弊しているじゃないか。異常オブジェクトによる物理的な暴力で、改変能力による間接的な被害で、ミーム認識災害による遠回りな影響で、世界は疲れきっている」
「…………」
「誰かがこの世界は、砂上の楼閣、奇跡的に平和が樹立していると云っていたが、俺にゃそうは思えねえよ。病人によぉ……重症重病の人間に延命のために薬物を注入して、口には呼吸器を差込み生き永らえさせる……さながら、ゾンビを見守っているような――本人の意思を無視して植物状態の人間を延命させ続けている如く、綱渡りをする人間を真下から観察しているみたいな、どうしようもねえ気持ちになる。それならよ――そんなこと続けるぐらいなら、いっそ死んでしまえ。滅んで、滅して終えと俺は思っているんだ」
「お前は……」ややあって三川は口を開いた。「いっそ滅んで終えと思うのなら、お前はなぜ、人間を助ける。お前はこれまで財団への資金援助や、他組織に人員派遣など、無償奉仕をしてきたはずだ。死んでしまえと感じているのなら、どうして無意味に延命させるようなことを――」
「あん? 理由は単純だよ。『懸命に努力する人間が好き』だからだ。愛しちゃってるんだよ」
とはいってもなと、真中は苦笑しながら頭を掻いた。
「無論、打算的な意味合いもある。ほらよ、犀賀派というのがいるじゃねえか。世界を救うならば、他の平行世界を滅ぼしても良いっていうやつ。俺があいつに対抗するにゃ、人脈が足りず、手段が不足しているんだ。他組織に恩と仇を売ることで、何とか対抗拮抗できねえもんかと考えている」
犀賀派のやり方には一種の疑問があるが、突き詰めて云うならば『救う』――『救済』。
対して真中のやり方は端的に云うならば、『巣食う』――『堕落』である。
犀賀と真中は根源が類似していながらも、相性が悪い。相似性があるゆえ水と油のように反発することはないだろうが、互いの存在が火に油であることは火を見るより明らかだ。
「おう。三川、俺に手伝ってほしいことがあれば云え。俺の邪魔にならなければ、妨害や妨げにならないと判断すれば、いくらでも協力してやるからよ」
俺は人間が大好きなんだ。
――と、真中は狂信の祝詞を呟きながら微笑した。
「真中央、あなたは敗北しました」
と、財団エージェントは真中へ向けて寸延短刀、【刃毀(はがく)れ】を向けた。真中はさすがに、刃折れ矢種尽きたのか、兜を脱ぐような降参の態度である。しかし武器を向けられているにも関わらず、両手を挙げるような真似はしない。相変わらずのふてぶてしさである。いっそ堂に入って清清しかった。
真中はエージェントに対抗する武器も、転生する個体も所持していない。赤裸々に云うなら裸一貫であり、真中の持つ財産の全ては使い果たされていた。しかし何も所持していない状態であるのにも関わらず、彼はどこか余裕と怠慢の感じられる態度と気配さえ醸し出していた。
……いいや。それは余裕ではない、達成感だ。怠慢ではなく、満足感だ。
白旗を揚げつつも屈しず、不遜と傲慢とさえ思える真中にエージェントは苛立ちを覚えた。短刀を誇示強調するように、奴の鼻先へ向けながら怒鳴る。何に満足しているのかと、やりきった表情に中りを付ける。真中は精悍な顔を笑みの形に歪ませながら、「どうってことはねーんだよ」と云った。
「ただな、正直ここまでやれるとはぁ思っていなかったんだ。失敗し敗北してしまったのは、そりゃ勿論残念だぜ? だがな……平行世界の『俺』が、第二、第三のパラレルワールドの『俺』が、あっちの世界ではコレを教訓糧として邁進してくれるかと思うと、どうにもね」
「情報を他の世界へ投げたのか?」
「一挙一動がどこかに反映されていることだろうぜ。だがこれ以上は、黙秘する。何もそこまでベラベラ喋るこたぁねえだろう。多少想像の余地を残しとかなくちゃな。第一時間を割いてまで創ったのは、随分昔から頭の中に明確な案はあるのに、放置したままは座りが悪い。温存し続ける必要もねえじゃん? 長編といかなくとも短編ぐらいなら、軽く、全部書けるが、優に三十万文字を超えるモノを創ってもねえ……」
「? 何を云っている?」
エージェントは怪訝そうに真中に詰め寄るが、彼は何も答えなかった。黙秘ではない。無視である。
「しかし、いずれにしてもこの世界の俺が無様に追い詰められ、無残にも追い立てられていることには変わりないんだよな。随分鎬と命を削ってきたが、残念だぜ。無念だよ」
「財団として、確保・収容・保護の理念を持つ財団員として……個人としても、総員としてもあなたの狂信と盲信は、否定します」
「いいね。確固たる意思での全否定。好きだぜ、俺ァそういうの。どうやら俺は、すげえマゾらしいな。はん……抵抗する奴に興味をそそられる」
真中は笑う。
「てめえの熱い意思が、白熱した魂魄が自身の目的のために努力し、這い上がりそして達成する。打ち震えるようじゃないか。武者奮えるぜ。どうだ、お前……俺の仲間にならないか? 世界の半分をくれてやろう」
「……あなたはこの状況がわかっているのですか? 生殺与奪を握られているのですよ? 死刑執行の前なんですよ」
エージェントは警戒しながら一歩踏み出した。真中はエージェントを玩具でも見るような目付きで、眺めるのみである。
「生き死にを握られようが、些細で粗末な問題だ。……ところでお前、末期(まつご)だと思って聞いてくれねえか? 質問したいことがあるんだよ」
「…………何でしょう」
「やっぱり俺は狂っていたのか?」
沈黙。
それは返答に躊躇したのではない。真中の口から出た言葉に戸惑ったのである。この二点は些細な問題のようであるが、エージェントにしてみれば大きな違いであった。
「ハッキリ申し上げれば、極端過ぎるんですよ」
「そうか。でも、オブジェクトがなけりゃ人は死なないぜ?」
「だからといって、全世界を破壊するような真似は許容を超えています。宇宙と人類を滅亡させる可能性があるんですよ? 死ぬと絶滅、どちらが大事なのか天秤に図るまでもなく理解できますよね?」
「そうか? 俺にとって世界は三日後に死ぬものでありながら、猛毒投与の如く六日後に死ぬ激薬を投与し、延命処置を測っているような感慨しか沸かなかったぜ?」
「だからといって、絶命に危機にさらすことは容認できません。あなたは狂人です」
「そうかい。でも俺はよ――」真中はそこで刀剣を握って自分の額へ引き寄せた。「――砂上の城じゃなく、延命された姿に憐憫を憶えるんだ」
――血飛沫。
真中央は現在財団が確認可能などの平行世界でも、自身の目的を達成したことはありません。しかし複数の並行世界が不自然な消失を――
人里離れた研究所内で発生した密室バラバラ殺人を解決した三善は、玄関口から外に出、キセルで紫煙を味わうか、事後報告をすべく財団へ報告するか否かについて迷っていると、不意に声が掛かった。
「密室前に設けられた指紋認証による解除キー、その施錠を解除してみると密室内に解体された遺骸があった。普通に考えて、何故死体を解体する必要があったのか思考すれば、おのずと密室の謎が解明できるよな」
三善は懐手していた腕の動きを止め、声のする方向へとゆっくり身体を向ける。見れば、俄かに隆起した丘の上に設置されたベンチに和装の男が悠々と過ごしていた。長椅子の傍には憩いと日陰を催すために木々が生えており、ベンチ全てを占領するような形で足を伸ばしていた。どうやら男は、居眠りをしていたらしい。
「お前は……」
三善に声をかけた人物は、研究所内で一度たりとも目撃したことのない人間であった。首にはチョーカー、兵児帯に着流しといった簡素な姿をしており、顔立ちは精悍で凛々しい。男はニヤニヤと笑いながら姿勢を正す。ベンチの真ん中に居座る形は変わらなかったが、他者に応じるためいくらか態度を改めた。
「俺の名前は、真中央という。財団で働いているてめえは、多少聞き覚えのある名前じゃねえかな。裏切り者、離反者、反逆者……まぁ、どうとでも呼べ。どのような呼称であっても、俺が俺であることにゃ変わりねえんだからよぉ」
「真中……」
三善は予てから後を追い、影を踏み、尻尾を掴むため追跡していたその本人が、直々に姿を現したことに対する驚きを、やや強引に飲み込みながら、財団支給品である緊急連絡用の小型通信機を押すが、それは発動しなかった。
不発を認めた三善は怪訝さを憶えるが、真中は見透かしたように手の平サイズの黒い機体を取り出した。ともすれば異常物にカテゴリされる物質かもしれないが、どうやら救命を求めることが出来ない状況へ陥ったらしい。
「密室殺人といやぁ、大きく分けて二つの殺害法があるよな。ひとつ、中にいる人間をぶち殺して部屋を閉ざす。二つ、密室構築後、室内に存在している人間が死ぬ、あるいは死体を投げ込む。ケースバイケースというか、その状況に応じて幾らかの例外があるが、大体はこんな感じだ」
三善の戸惑いを他所に真中は御託……薀蓄を並べる。
「んでよぉ、今回の場合――過去、生類総研の施設であった研究所で発生した密室殺人は、実に簡単だ。中にいる人間を殺害し、解体して、部屋を閉ざした。死体つっても一分、二分程度なら生体反応は有しているからな。普通に部屋を出、鍵としての役割を辛うじて持っている死者の生手首で鍵を閉ざし、それから後日何気ない顔で密室を開いた。今回の犯人は、第一発見者が犯人だったというわけだ」
「まるで見て来たかのように喋りになさる。何だ……あっしの行動を監視でもしておりましたんで?」
三善は素であるべらんめえ口調を出しながら、キセルを取り出し煙草を吸う。煙を呑み味わい、白煙を薄く吐き出す視界の中、奴は「いいや」と首を振る。
「お前が来る前に、超個人的な私物を回収に来ただけだ」真中は上品な布で覆った包みを見せる。推測するに書類のような物が入っているらしい。「こんな事件、素人程度の知識でも解決できる事案だ。三善……お前じゃなくても犯人を指摘するのは簡単だったろうに、ご苦労様だ」
「おめぇさん……あっしの名前を知ってんで? 俺ぁ、どちらかと云うとマイナーなもんでねえ。認識している奴と云やぁ、数は限られていらぁ」
「マイナーと云えば俺もマイナーだよ。お互い無名同士仲良くしようぜ? そんなことより――普通、素人でも解決可能な事件に、名探偵……どうしてお前のような存在が関与しているんだろうな? 疑問に思わないかい?」
「……生類総研、それに関わりのある場所だったからでしょう?」
「おいおいおい。関わりがあったとしても、それは過去の話だ。財団が洗い……じゃないな、荒い攫いすっかり調べつくしている場所だぜ。たとえ密室が発生し、人が死んでバラバラになろうとも、わざわざ部外者が解決する余地がねえってことだ。財団が介入する必要性はない、何があったのかだけを認識していれば良い。そんな状況下で“警察に偽装した職員”でなく、“名探偵”を入り混(こ)ませるものだろうか?」
「……。おめぇさんが持っているソレ」三善は四角い包みを見、指差した。「それが関係しているんじゃねえですかい?」
何せ、元財団職員、現敵対者の真中が直々に物質を回収に来た状況だ。財団直下の警察以外の関与があっても、不思議ではない。三善は自称「名探偵」であるが、財団上の業務内容はエージェントと変わりなかった。
上層部は真中の存在を察知し、三善が未解決事件に携わるよう指示したのかと判断したが……。
「あぁ、こいつか。別にこれは俺や生類にとって、重要な役割を示す物証じゃねえよ。ただの絶版色物のエロ本だ。研究所家主の死亡通知を聞いたとき、忘れ物をふと思い出してな……他人に、俺の性癖が一度ならず二度も露見するのは我慢がならねえ。恥ずかしくってたまらねえから、取りに来ただけだ。てめえだって、他人に貸したパソコン内のエロ画像を消し忘れたら回収するよな? そんな低度だよ」
「本の詳しい内容……いや、んなこたぁどうでも良い。おめぇさんは、あっしがこの事件に関わりを持ったことに、どういった疑問を抱いているんで?」
「え? なに、エロ本の内容に興味あるの?」真中は口に手を当て、笑った。「えっちだな~、お前。貸してやろうか?」
「結構だ。話を戻すぞ。真中、どうしてお前は、やつがれがこの事件に関わったことに疑問を抱いている」
「一言で述べるなら、お前の性質というのかな。確率操作による大物の引き当てのことだよ。海老で鯛を釣る、漁夫の利……言葉による表現は何でもかまわねえ。異様なまでの発生と遭遇率について、とにかくやいのやいの論いたい」
確率操作――名探偵――死神兼貧乏と疫病神を含蓄した能力。
真中は愉快そうに笑う。
「財団から見れば高々エロ本を回収する、くだらない理由のために俺が直々に来るだなんて予想だにしていなかっただろうぜ。だが、俺は来た。しかしそれ以前に、密室バラバラ殺人事件が発生したこと事態が、確率操作による賜物だって云いたいんだ」
「…………」
「そもそも考えてみろよ。施設内で――しかもここは人里離れた研究所だ。容疑者が極端に限られた状況下で、殺人だなんて発生するものかね? 標的が外出したときに、サクっと殺した方がいくらかマシだ。しかも通り魔に偽装した方が、まだ安全だ」
しかも古来奥ゆかしい密室かよ。
真中は「クハハ」と吐き出すように嗤った。
「密室の元祖――というより、ミステリーの始祖的存在は、『モルグ街の殺人』だったけか? その当時は芸術的殺人法ではなく、ホラー作品として発表された……だったかな? 曖昧な知識で申し訳ねえ。一回読んだが、おぼろげな記憶だ。転生して、前世の記憶が大分薄れちまっているらしい」
「芸術的、殺人……」
「そう、芸術。犯人はよぉ、アリバイ工作のために、密室だの何だの構築しているわけじゃねえんだ。その殺害法にロマンや神秘性を感じたがゆえに、事故に見せかけることなく、他殺されたことを強調するような真似に出ていやがる。色々反論はあるだろうが俺の見解として現実性(リアル)ではなく、幻想性(ファンタジー)を追求したもんだと思っている」
難解なパズルやクイズを出題しているようなもんだ、と真中は云う。堅実と現実性はないと否定していた。
「三善悪様……ところで疑問なのだが、お前の確率操作――てめえが関与するから事件が発生するのか、事件が発生する場所にお前が惹きつけられたのか……卵が先か鶏が前(さき)か、俄然気になるところだね」
「やつがれが磁石なのか、砂鉄なのか……」
「前もって云っておくぜ。否定するような真似に出て申し訳ねえが、てめえは財団にゃ似合わねーよ」
いくらか気を取り直した三善に対して、真中は精神全体を揺さぶるような言動に出る。実際その否定は効果覿面で、深度に凄まじい威力を秘めていた。その言動は云われずとも、薄々ながら自覚していたことである。だからこそ、指摘されるように云われたくなかった。
「メタ的な話になるが、財団の根源はホラーであると俺は解釈している。ミステリーの根元もホラーであると述べたが、だからこそ名探偵は財団に相応しくねえよ。何せ財団は、魔王を封印――確保・収容・保護の三つの経営理念を軸にしている。財団が必要とされる世界を現状維持しているだけしかねえんだ。あれは正義なんかじゃねえ。以下の点にも例外はあるが、ホラーは未解決が推薦されるのに対して、ミステリーは解明が主だ」
「解明……」
「三善悪様よ、そもそも人間のみならず次元や平行世界にまで影響を及ぼすアーティファクトなんざ、無くなった方が良いと思わないか? ロバルトの『死ねるときに死ね、滅びるときに滅びろ』の遺志を引き継いだ俺としちゃ、世界や宇宙や地球が、無理矢理生き長らえている現状は異常であると思ってんだ。医師が殺人者に仕立て上げられたくない強迫性――もしくは自身が悪くないと思う潔白性がために、患者を植物人間やゾンビにする。この世界は不条理だと思わないか? 解明したくはないか?」
真中の声が熱意のあるものへ――ニヤニヤと嗤っていた表情が真剣なものへと変わった。前置きが終わった現在、本題に入ったのだろう。
「てめえのその力、確率操作――正しい使い方をしたくはねえか?」
「正しい、使い方……?」三善は眉をきつく寄せる。「事件を解決し貢献するやつがれを前に、使い方を誤っていると云いたいのか?」
「そうだ。お前の力は財団のためだけに消費されるのは惜しい。これ以上までなく口惜しい」
真中は熱烈な口調でくどきにかかった。真中のその態度は、複数の財団職員に対して幾度となく行われている勧誘である。敵対者ばかりが多く、さほど力の持っていない彼は引き抜きという形でレベルアップしたいのだろう。しかも、三善の確率操作だ。濃密に必要としていることが推測される。
三善は瞬時にそれを見抜き、唾棄するようにはき捨てた。
「くだらない。どうせお前の勧誘を引き受け、仲間になったとしても使い捨てにされる運命しか想像できない。ゴミを捨てるように路傍へ打ちやり、便利な道具であったと嘲笑う。財団は冷淡だが、残酷ではない。命を賭して、働いているのだ。対してお前は、狂信じみた思想をぶつけているだけしかない。個人的な妄執を実行させることに、時間を費やしているだけしかないではないか」
「俺は人材を切り捨てたとしても、財団のように冷淡にゃ振舞わねえよ」
怒鳴りこそしないものの、その声調には怒気が滲み出ていた。
「なるべく死なさねえようにするし、そいつに目標や復讐心があるなら、可能な限りその欲求を満たしてやる」
「満たす……」
「俺は頑張っている奴が好きなんだ。ちゅーしてやってもいい。逆に何もせず、あぁして欲しいこうなって欲しいと主張するだけの奴は、心底大嫌いだ。咽喉笛を噛み千切りたくなる。呪文のよう願望を口にしてそれが叶うだなんて、現実は魔法じゃねえ」
真中は云う。
「それに、俺のために犠牲になったのにどうも思わない? んなわけねえだろうが、拍手喝采もんだ。頭が狂っても美しいと思うし、俺が原因で傷が生じても賞賛する。存在を認識されなくなり亡霊のようになっても、俺はつぶさに見付け出す。裏切られても咎めはしねえ。利己目的のために踏み台にされても、俺のために働いてくれていたのなら責めはしない。重症を負ったら、懇々介護して面倒を看る。たとえ無残に潰えようとも、誰よりも美しいと、褒め称える」
「…………」
「俺が応えられることなら、何でもしてやりたいのさ。俺のためを思う、行動を起こしてくれただけでも性欲、食欲、嫉妬、憤怒、矜持、強欲の全てを憩う」
「……上から目線だな。不快だ」
「いいねえ、その否定。てめえには強靭で確固たる意思があるらしい。ますます欲しくなってきた。おい、あんた、怠慢以外は何でもしてやるから、俺の仲間になれよ。三善、お前の周囲に渦巻いている地獄のような不運を、俺ならいくらか緩和することができるかもしれねえぞ?」
「お生憎様。やつがれは幼少のころ、ある玩具が欲しくなってね。その玩具は一点物だった。欲しい欲しいと祈った願望が叶ったのだが、現実はそれほど良いものではなかった。何せその玩具がやつがれの手に入るまで、呪いの人形ように人から人へと災厄を振り巻き、転々としていたのだからな。全ての事件において、『その日に限って』、『偶然』、『たまたま』……確率操作による作用が働いていたんだ。それ以来、何も欲さないことを心に決めている」
三善は嫌悪感たっぷりの視線を向け、真中を拒絶した。真中は勧誘が失敗したことを悟り、これ以上言葉を重ねることはしなかった。
「……ふん。それにしても、力の使い方を間違っている? 真中央、お前は探偵に対する認識に、ひとつ、疎漏がある。探偵は確かに事件に引き寄せるものであるが、単なるトラブルメーカー、不幸のスケープゴートでもない。絶対的な役割として――」
「――名探偵は必ず“正解”へ辿り着く特性を持っている」
やつがれは、お前が目的を達成してもそれが『間違い』なら『正解』へ、変換する。
三善は悠々とキセルを吸いながら、真中に敵対した。
「あたしってさぁ、三善と似て非なる幸運な体質を持っている故、アイツとはすご~く相性が悪く、これまで長年あんたに付き添っていたけどさぁ、なんで『世界を滅ぼそう』だなんて発想を会得したのか、常日頃常々常から疑問だったのよ。これが最後っぽいし、もし良ければ話してもらいたいんだけど?」
有良悪無(ありよしあくむ)は、少々のんびりした口調で目の前に存在する真中へと質問をした。真中は眼下で繰り広げられている死闘から目を反らし、有良を省みた。
「誰が世界を滅ぼしてるんだよ、誰が。俺は終わりをみたいだけで、滅するだなんことはしねえよ」
「いやいや、冗談じゃなく。あんたはこれまで平行世界? 別次元の世界とやらに無数から多数へ股にかけてきたけど、どう考えても、終焉じゃなく滅亡を促しているようにしか思えないのよねぇ」
「平行世界、か。三善の奴もついてきたがよ……その終焉と云うは、あの名探偵の確率操作……ひいては正解へ辿り着く、その特性が発揮されたことによる結果なんじゃねえのか?」
真中は「クハハ」と笑う。彼の眼前には強化ガラスが設置されているのだが、その硝子の表面上に投影された有良の姿と、自身が長年かけて集めてきた同士たちと、機動部隊-“[削除済]”が、ぶつかる様子を見てこれ以上ない満足感を覚えていた。
真中の態度は、いかにも有利に立っているように思えるが、実際は正反対であり、財産も資材も人脈も転生体も手持ちも何もかも、無に等しい状況であった。真中と有良は表面上仲間(ビジネス上の付き合い。有良は真中の情報を横流している)ではあるが、彼女は自分を助けてくれることはないと確信していた。
「正解へ辿り着く探偵の特性ねえ。どういうことか全然分からない。説明してくれないかしら?」
「いいぜ。最後だからな」
この世界における真中の命は風前の灯、死刑執行前の囚人と同等である。しかし、その態度、表情、心境には全くといって良いほど焦燥や後悔、そして悲愴といった気配は露ほどもなかった。真中は別世界に存在しているであろう平行世界の自分に、これまで蒐集してきた情報を転送しており、敗北の数がひとつ重ね増える程度の認識しか持っていない。いや寧ろ、敗北の1パターンを学んだとさえ思っていた。
彼は機会が整い準備さえ揃えば、性懲りもなく異常物の全消失――財団世界の終わりのため、活動を開始することだろう。
「多数平行世界における俺の活動と、三善の正解へ正す特性。まず前提から認識を改めておきたいのだが、間違いを正解へ変換する特性は、別に最善状態を呈するってわけじゃねえんだぜ」
「最善ではない……?」
「あぁ、そうさ。正解は最善ではない。そして無論、最良でもねえ。たとえばよぉ、悪人がゴロツキを殺害した嫌疑にかけられたとするよな。でもその疑いは濡れ衣なんだ。正義心……近代国家を有する司法裁判としちゃ、捨てておけねえ案件だ」
「まぁ、確かに。財団でも冤罪者の疑いがある人間は、Dクラスにさせないようにしているみたいだし……」
「殊勝な事だな。……しかし、名探偵の活躍で真犯人が発覚するとしよう。真犯人は善人といって差し支えない人物で、殺人事件が発生した周辺では、その善人が防衛していたから、治安が保たれていた。その善人がいなくなる――ボディーガードである抑止力が消失したら、該当地区周辺は荒廃した状態へ戻っちまうわけだ。だが、真犯人が公然と発覚した現在、その善人を万人がそうするように檻の中へぶち込めなくちゃならねえ。さて……前置きが随分長くなったが、そういった――後々のことを考えれば積む必要のない小悪を採取し、状況を深刻悪化させる呼び水的性質というのかな……三善の持つ正解への変換は、時と場合によっちゃ災厄を齎す特性を持っているんだ」
まぁ、分かり易く云えば白ひげ海賊団の船長が死んで、占領していた村々が暴漢たる海賊に襲われるようなもんだ、と真中は補足する。
「間違いを正解へと変換する力――正しい姿を暴露することは、本来あるべき姿へ戻すってことなんだよ。そんでよ、今回その抑止力になるのが、財団がこれまで行って来たオブジェクトの影響を隠匿するための記憶処理、または現実改変等が挙げられる。時には有益なSCP群を占領独自保有は正しい姿なのか……オブジェクトの悪影響であることを隠して無辜の人々の認識を誤魔化す――真犯人が隠匿された状態は、探偵が推理力を発揮するには好条件なんだ。小悪を摘み取り、衆目に真実を暴く。だからそれゆえ――三善のやっていることは『最善策ではない』」
「ふうん。回りくどい説明だったけど、なんとなぁく分かったわよ。なるほどねー。確かにそれは、オブジェクトを破壊したがっているあんたの仕業ではないわね。つうか、前々から思ってたんだけど、やっぱ三善って収容した方が良く無く無くなぁい?」
「未収容は、確率操作が働いているんじゃねえのか? 徘徊系の伝説のポケモン並みに捕獲し辛いんだろうよ。または飼い慣らすそれ自体が、収容プロトコルって奴かもしれないがね。とはいっても、三善は別に世界を破滅へ促すだけの存在じゃないんだぜ」
真中は云う。
「例えば……俺がとある平行世界でオブジェクトの全消失を実行したとしよう。さながら、孤立した館で連続殺人収束後、事件を解決する探偵の如く颯爽と奴が現れる」
「九十九十九みたいなモノもいるのかもしれないけど、なぁんか財団と要注意団体のように、探偵と犯人は共犯者のようだわね」
「探偵は殺人事件を未然に防ぐことは殆どないからな、あながち間違っちゃいない」
有良は三善が聞けば怒りそうな話だと思った。彼女が浮かべた複雑な表情の中、真中は話を続ける。
「探偵の正解を齎す作用――異常物の全消失が正解であった場合、そのままの状態が維持される。間違いであれば、異常物が復活することもあるんだよ。ったく……折角俺が身を粉にして働いたと云うのに、元の状態に戻しやがって。オセロをやってるんじゃねえんだぞ、こっちは」
真中は窓辺から離れて、氷の入った小さなバケツの中に入っていたシャンパンを取り出した。コルクを外し、透明なグラスに黄金色の液体を注いで、ゆっくり味わう。
「まぁ、サイコロを転がせば同じ面が千回連続で出せる能力、確率操作(クリティカルダイス)。結果の“善”し“悪”しに関わらず奇跡を起こす特性……三“善悪”様の能力が手元にあれば、数倍数乗、動きやすかっただろうが、奇妙な縁か当然の摂理なのか、三善と俺はどの平行世界においても、敵対する因果を持っているらしい」
真中はグラスをことりと音を立て、真っ白いテーブルクロスが敷かれた机上へ置いた。
「対してお前――有良悪無は、どういった経緯か、必ず俺の手元に入り、そして最後に必ず裏切る」
話を振られた有良は、微笑むように口元を歪ませた。ともすれば挑発と取れる態度であったが、真中は怒ることはない。彼に取って裏切られることは、些細な問題でしかなかったのだ。
「俺が欲しい力は、人身御供(スケープゴート)じゃねえんだけどな」
「云ってくれるじゃない。あたしの幸運――他者に不運や悪いことを押し付ける能力、そのお陰で随分あんたの仕事が捗ったことがあるじゃん。労いはなし?」
「その点に関しちゃ感謝しているぜ。贅沢を云わせりゃ、お前だけに幸運が見舞い、周囲に災厄を齎すんじゃなく、その周辺人物にも恩恵が欲しかったんだがね。前々から思っていたんだが、お前、本当はオブジェクトなんじゃねえの?」
真中は半ば本気で尋ねるが、有良は質問に答えることなく「さてね」と肩を竦めた。
「くだらねえ質問だったな、酔いどころか興が醒めちまう。さて、冒頭で俺に訊きたいことがあると云っていたよな。何だったっけ……ド忘れしちまった。もう一回云ってくれねえか?」
「そもそも、どうしてあんたが全オブジェクトを消去したいのかその発想を得たって質問してんのよ。ボケてんのかしら?」
「ボケちゃいねえよ。単なるド忘れだ、ド忘れ。本物のボケは、忘れたことすら自覚がないらしいぜ」
真中は若い女性に虚仮にされることが嬉しいのか、少しの間ニヤニヤ笑っていた。
「それにしても何故俺がその発想を得たのか、ねえ……世界が無意味に生き永らえている様、延命処置は生き地獄だから殺してやりたいと前から云っているが、てめえが訊きたいのはそういったことではなく、もっと根っこ……根源的なことだよな」
「まあね」
「そうさねえ……」真中は迷うように天井を見上げた。自身の経歴において、どこから話したものか迷っているらしい。「すげえ長いし、昔の話になっちまうが、それでも構わねえよな」
真中はそう云い、シャンパンの近くに並べられていたつまみを手に取り、一口食べる。ごくりと咽喉が嚥下した後、真中は語りだした。
「幼少時代の頃にまで話が遡るのだが、その頃の俺はまぁ、何と云うか一言で表現するなら病弱だった」
「病弱? とてもじゃないけど、そうは見えないわね。主に肉体における外見上の話ではなく、内面的なもの……性格が。口調も荒々しいし、健康優良児って感じしかしないわ。ガキ大将の間違いじゃないの~?」
「この口調は、元々俺が持っている魂の色って奴だ。性格の方については、意外と感傷深いロマンチストなんだぜ? 嘘みてえだと思うだろ? だが『そうじゃなきゃ』、俺が世界に対して、死も絶え絶え生き永らえているだなんて発想すること自体なかっただろう。要は純粋無垢、清純清らかな心持ちを持っている。頭の中が、ふはふはして繊細微妙で夢のような、美しいものだけで頭が一杯な黒髪の乙女って奴だ。その証拠にいちご味の歯磨き粉しか使わないし、森のどうぶつさんたちと一緒にちぃさなおててどんぐりを食べ、就寝前には角砂糖をいれたホットミルクを飲まなきゃ眠れねえ。ベッドには大きなクマさんのぬいぐるみが置いてあるんだぜ?」
「嘘つくんじゃないわよ。昨晩のあんたの行動は酒池肉林そのものじゃない。まるでベルセルクの蝕みたいだったわ。あんたほど耽溺堕落しきった生活を送ってる奴は、見たことがないわね。あたしから云わせりゃ、狂信者って云うか、ヤンデレっつうか……まじりっけ無しの汚濁で出来ているわ」
なんで下らない嘘ばっかりつくのかしら。
有良は溜息と一緒に呟いた。
「サービス旺盛なんだよ、俺ァ」真中はグラスを手に取り、酒を呷る。「……それで、まぁ病弱だった俺は、床や布団から碌に出られねえし、深窓の窓辺から見える木に願掛けし、枝から葉っぱが落ちりゃ悲観的になっていた……とは云っても、桜の木なんぞ縁起が悪いから常緑樹に移植し直して、体力をつけるため、ありったけの憎しみを込めて斧を片手にメッタ打ちにしていたがな」
「まずその時点でロマンチストじゃない」
捻くれ者、もしくはパワフル系キチガイという言葉が思い浮かんだ。
「そんでまぁ、植え直した木が傷だらけになる頃、そこそこ体力がついたのか、成長に伴い基礎代謝が良くなったのか分からねえが、最低限人並みの生活を過ごせるようになった。島……そうだ、蒐集院お抱えのちっせぇ田舎島で生活していたんだが、戦争時、とある事情で島内を出てな、日本軍で働くことになった。働くと云っても、俺の記憶にあるのは三川の飯を横取りするばっかで、ニート当然だったな」
それにしてもと、真中は笑う。
それにしても――、一度も袖を通してなかった特別製の軍服を息子が着ているとはな、と真中は笑った。
「終戦後、俺は財団で働くことになった……戦時中、詳細は省くが、歪みやひずみ、ただならねえものを見た。そん時の俺は……財団の方針、確保・収容・保護――金城鉄壁の三ヶ条に理解があったな。寧ろ、そうすべきだと思っていた。異常物を保持し続けることに、一般的な疑惑を憶えてはいたが、まだ底迄(そこまで)極端な思考回路は会得していなかった」
真中は云う。
「財団時代で、転生法を会得してからのことになる。この転生法ってのはな、日本支部理事会の重鎮共がいざというときの延命手段として、提供するはずだった技術だ。留意点として、俺が趣味で作っていた延命法に理事会が目を光らせたと云った方が正確か……」
「転生法を作ろうと思ったきっかけは?」
「長生きしたかっただけだ。あとは……倅に俺の病弱さが遺伝して欲しくなかった。何とかして、撤去したかったんだよ」
「ふうん。ところで、転生法は生類総研で習得したものではないの?」
「違うぜ。生類はどちらかと云うと、食費を稼ぐための就職先だな。食費以外に生類所属時代、後々の計画のため、色んな連中にちょっかいかけていた。一番共感できたのは世界オカルト連合だが、アレとオレは厳密には違っているんだよな……」
真中は首を捻る。
「まぁ、とにかく生類へ行く前――財団を出るに至ったキッカケとその要因……いや、何てこたぁねえんだ。嫌なことがあったとか、仕事が辛いとか、人間関係に悩む、恋人愛人が死んだ、同僚や仲間が可哀相だとか、そういったモンじゃねえ。不意に、何気なく思った。彷彿するように閃き、天啓を受けるように、ある一声が浮上した」
「何の言葉が浮かんだの?」
「この世は不浄理だってな」
その一声で片付けるには、あまりにも簡素過ぎるように思われた。真中もその自覚があったのか、軽くグラスを回しながら、話を続ける。
「不浄。汚ねえと思った。魔が差したようにも感じた。その思考は……浮かんできたと云うより、降って来たような感慨があった。もしかすると、別世界の俺が死亡時に情報を投げたことによる作用だったのかもしれねえ。というか、多分、そうじゃねえのか」
「別世界のあんたの思考を受けたと云いたいのね。抵抗感はなかったのかしら?」
「いやぁ、別に。お前だってよ」真中は“こちら側”を見る。「てめえらだってよ、不意に面白そうな小説のアイデアが思い浮かんだら、すぐさま文字に起し形にしようと躍起になるよな。そういったモンだよ」
「……。それで魔が差したと云っていたけど、詳しくはどんなことを思ったの?」
「これはちとヤバめの思想なんで、云うのが憚れる話であるがな……お前、そもそもどうして、人間が生まれたのか考えたことはないか?」
「どうして人間が生まれたのか……永遠の謎よね。人によって回答が異なる哲学的な振りで、反応に困るわ」
「俺は個人のアイデンティティに言及したいわけじゃねえよ」
真中は仕切り直すように、暫し沈黙した。
「何故、人間は生まれて来るのか……もしかすると、地球を滅ぼすために誕生して来たんじゃねえのかな。人間に限らず全ての生命体は自然淘汰され、時間経過と共に千変万化の限りを尽くしている。ハリウッド映画なんかよく地球滅亡モンを作っているが、それはいざ実行する時の予行練習、古代文明における滅亡の予言は、ただの宣誓なんじゃねえの? というか地球上で人間が独自発展、進化変異を重ねた高度知性を持つ唯一の生命体だと云う思考そのものが、傲慢じゃねえか」
「……進化というものは、死滅すまいと環境に逆らったことによる結果よ? あなたは何を云っているのかしら? 気が触れているとしか思えない」
「環境ねえ。質問だが、周辺環境を――自然そのものを創造し、提供しているのは何だ?」
「そりゃ、自然の提供者は、地球……広域な観点から見れば、太陽系惑星諸々になるんじゃないかしら?」
「まぁ、そうなるよな。地球にしても、自然にしても、人間にしても、無か有は生まれることはない。人間が生まれるに至った原因とプロセスには何らかの理由がある。人間が野菜を育てるように、畑に種を植え発芽させ生育し、食料という形でその恩恵を得る。それと同様に、地球がサルという種を植えて、人間へ発育させたのではあるまいか……」
人間は食物連鎖の頂点に立ち、更に上の上位捕食者が存在しないことが気にかかる。
真中は云う。
「端的に云えば、地球は自殺するために人間という毒種を植えて、自害しようとしている最中なんじゃないのかと云いてえわけだ」
「地球が自殺?」有良は驚愕の声を出した。「地球が自殺するわけないじゃない」
「何故だ? 地球だって一個生命体、命を持っているんだ。魂を持っていたら、自害する可能性だってあるだろう。特に不幸を強いられているわけでもねえのに、人間一度だって死にたいと考えたことがあるはずだ。どうしてそれが、星全体に該当しないと断言できるんだ」
「仮に生命があったとしても、意思なんて……」
「あん? 樹木や建造物、引いては日常品に九十九神の概念はあるのに、何故地球に魂はないと不自然な考え方が出来るんだよ、てめえは」
「…………」
「話を戻すぞ。現に人間は、星を壊滅させようと躍起になって、繁栄しているじゃねえか。異常物がなくとも、核弾頭を連射すりゃ地球は壊滅する。俺ら人類は、自殺用に投与された猛毒そのものなんだよ。だから絶えず戦争は発生し、住み心地を優先して下位の物を一方的に搾取する。上記を踏まえて、死にたいなら死ねというのが俺の始点だ。尤も、平行世界を幾らか束ねた今となっちゃ、色々考え方が変わって来ているがね」
「……理解できないわ。っていうか、あんたは人間が好きなのよね。それだのに破壊願望による自殺幇助の始点と、人類賛歌の救済義務は矛盾してないかしら?」
有良は言葉の通じらない狂人を眺めるように真中を見た。彼はその視線が鬱陶しかったのか、虫や埃を払いのけるように腕を動かす。
「今では考え方が変わっていると云っただろう? 今の俺の活動理由は、異常性質を持ったオブジェクトの消失だけだ。お前が云った通り、俺は人間が大好きなんだ。いなくなってもらっちゃ困る」
「複数の世界を過ごしたつっても、人間の考え方って変わるものかしら~? 九天九地、乾坤一擲のるかそるか、あたしがどれだけ狂っていると諭し、他者から無数に後ろ指を指されても、狂気の沙汰を保ち続けている。あんたは、ちょっとやそっとの事で心変わりするようには思えないのよね~」
「俺の考え方ではなく、事情が変わったんだよ。これと云う確信と確証のある話じゃねえが、地球は一度自死に成功し、二回目に構築されたものなんじゃねえのかと思っている。そうじゃなきゃ、俺の考え方は変わることはないだろう」
もしくは、俺の考え方が『間違っている』と悟っただけかもしれねえが。
真中は云う。
「考え方が変容するに至った特異点は分からねえが、もしかしたら『正解』へただす三善の作用が働いただけかもしれない。だが、屈強にして強靭、鬱屈にして狂信な意思は微塵も変わらねえ。人類に脅威を齎すオブジェクトの消失は、鉄則鉄条だ。俄かに……どうしても星が自害したいと云うのなら、俺はそっちの方に動く腹積りでいるがね……」
「あなたが本当に三善の名探偵の特性――正解へ変換する能力を欲しているのは、自分の考え方に多少、疑いがあるからなのかしら~? 多少なりとも迷いがある事に驚きを覚えるけど、どうしても――異常物の消失だけは譲れないのね」
「あぁ、そうだ。間違っていると承知していても、俺は動き続けることだろう」
「狂っているわ」
真中の返答に有良は吐き捨てるように上記の言葉を云い、早足で室内から立ち去って行った。彼女は二度と、この部屋に戻ることはないだろう。
「ふん……探偵の正解へ修正する特性ねえ。その効力が発揮されているのなら、俺の活動理由『全オブジェクトの消失』は正しい――『正解』ってことになるんだぜ、有良よ」
真中はグラスをテーブルに放置し笑った時、有良が出て行ったドアが開く音がする。見れば財団エージェントが、拳銃を片手に直立していた。
「真中央、あなたは失敗しました」
エージェント・ルコは目を見開いた。
付近から、潮騒のさざめきが聞こえて来る。彼女はぼんやりとした意識の中、明瞭に意思を覚醒させながら、ここが一体どこであるのか、自身は死んだのか、あの“箱”のオブジェクトによって別次元に転移してしまったのか、それとも自身が目覚める前まで就いていた任務は夢や幻であったのか等、色々なことを考えていた。
「よう。目が覚めたようだな」
男性の声。
ルコは――左目に眼帯を装着しているため、非常にぎこちなさそうに右目を右顧左眄、彷徨わせた。
声の持ち主は、ルコの近辺に存在していた。詳らかに事実を記載するなら、彼女の眼帯、左側に椅子が置かれているのだが、座の上には、首元にチョーカー、着流しと兵児帯を締めた男性が腕組をしながら腰掛けている。
「真中央――!」
ルコはその男性の姿を視認して、電流を浴びたように上半身を起き上がらせた。しかし、突発的に肉体を動かした所為で、鈍く熱く鋭い痛みが腹部を襲う。見れば、いつものシスター服ではなく、医術処置と包帯の入れ替えが行い易い患者衣を着用していた。
ルコは強い貧血を覚えたように汗をびっしょり流し、背部をシーツの上に沈めさせた。先ほどの激痛による疲労ではなく、任務中に大怪我を負ったことによる急激な体力の衰えを自覚する。
「ここは、どこ……ですか。私の傍に何故あなたがいる。仕事――任務は、みんなは……!」
「怪我人が、あんまりベラベラ喋るもんじゃねえ。キチンと状況を説明してやっから、とりあえず落ち着けよ」
真中は組んでいた腕を解き、姿勢を正してルコへ向き直った。ルコは泣きそうな顔……と云うよりも、ほとんど焦燥に駆られており、明らかに冷静さを失っている。真中は彼女を落ち着かせる為、鉄パイプが貫通した腹部を殴って刺激させようか迷ったが、相手は重傷を負った患者である。手心と手加減を加えて、撫でる程度に収めた。
「つっ――!」
「まずは状況説明だな。よく聞け。お前が不安がっているように、別世界へ飛ばされた、実は夢や幻であった――だなんてことはねえ。別次元へ人間を転送するエレベーター型のオブジェクトの収容中、突如現れたGOCと衝突。紛争の際、収容対象物であったエレベーターは破壊され、財団は任務に失敗した。オブジェクトは安直に破壊すると、危険性が悪化する場合がある。今回はそのケースに見舞われ、GOC諸共てめえらは物理的な驚異を受けたってわけだ。相手は次元系オブジェクトなのに、空間的な影響を受けないで良かったな。運が良い」
「な……なるほど。そう、ですか」
真中に患部を刺激されたことにより、再度痛みが襲う中、ルコは夢でないことを知る。冷汗と生汗を拭う中、真中は更なる説明を付け加えた。
「そんで次の質問。何故俺がここにいるのか……一言で片付けよう。俺は実は、お前らが狙った収集物を無力化するつもりで来訪したんだが、おいおい何だ、来てみりゃ屍山血河の有様じゃねえか。まぁ、ぶっちゃけ出遅れちまっただけなんだけどよ、状況を把握するため、転がった首やぶっ飛んだ内臓、滅茶苦茶になったオブジェクトの残骸やらを調査していた。そん時に生き残りがいたってんで、回収し治療してんだよ」
感謝しろよな。
真中はそう云い、ニヤニヤと笑った。
対してルコは真中に対して態度を柔らかくすることなく、いっそ警戒心を強く張り詰めながら片目で睨みつける。彼女の疑問としては、どうして自分を助けてくれたのか、それが分からなかったのである。不審――ひいては、疑惑のみが募るばかりだ。
「どうして、私を助けたのですか?」
「あん? 大した理由はない。怪我人は放っとけねえから救助を――「私を拷問して、財団の情報を得ろうとしている。もしくは、人質としての価値を見出したから助けたのでしょう?」
刃物のように一閃する鋭い言葉。ルコは警戒心から敵対心へ態度を改めながら、二の腕に突き刺さった点滴の管を睨み付けた。彼女は投与される透明の紐を引き抜こうとしたが、それよりも先に真中が制する。手首を強く握り締め、呆れ顔をしながら以下の言葉を放った。
「……いや、おい。勝手に盛り上がるなよ……人の話は最後まで聞くもんだぜ?」
溜息と嘆息。
ルコは一旦行動を停止させ、真中の言葉を待った。
「前々から何度も何遍も云っているが、俺は頑張っている奴が好きなんだよ。そんな俺がだぜ、人類博愛を掲げてやまねえこの俺が、相反する理念と哲学とは云えども懸命に戦ったと思しき人間が倒れている。ついつい余計な助力って奴をしちまうんだ。尤も、恩を売る打算的意味合いもあるがね」
真中はそう云いながら、彼女の右側を指差した。指に誘われ首を動かすと、隣にベッドが安置されており、その臥所の上には見慣れない顔、GOCの一員と推測される全身に包帯を巻いた男が、呻き声を出しながら眠っていた。激痛による苛みと、オブジェクトが暴走したことによる悪夢の魘されであろう。額には玉のような汗をかいている。
真中は「敵側がいるが、喧嘩すんなよ。面倒だからな」と云う。
「……分かりました。とりあえずここは大人しくなり、信用しておきましょう。ですが、私は財団職員。確保し、収容し、保護するあちら側の人間です。信用はしても信頼はしない。感謝しても恩赦はしない。私を助けたからといって、財団世界の終わりを目指す貴方側へ、寝返ることはないでしょう」
「ふん。てめえだって元は財団の邪魔をする徒の一名だったじゃねえか。当たりがあると思って助けたが中々どうして。シスター服を着ていたしよ、宗教の鞍替えでもしたのか? 酔狂な狂信だねえ」
「あなたも狂った信仰を持っているでしょう。他人のことを兎や角云えますか」
「信仰を持つ奴ほど、俺にとっちゃ崩し易いんだよな」
真中はルコの言葉を無視して、憮然と云い放つ。ルコは無言真顔になり、真中を見詰めた。
「目的、目標、信仰、真望……そう云った確固たる意思、純然たる目標、強烈な意思を掲げている奴ほど、その野望や希望に揺さぶりをかけると、意外にもあっさり落ちる。逆にちゃらんぽらんで無計画な奴、のらりくらりとし達成すべき目標が無い奴ほどやり辛い。要は、ツンデレほどちょろいってわけだ。老婆心を発揮して、親切お節介にも教えてやるが、お前、本当に財団を裏切りたくなかったら、やり甲斐や生き様、理想や夢想を悟らせないように多少、偽っておく方が無難だぜ?」
「……私は……」
「思想や価値観の揺さぶりだけに限らず、俺がその気になりゃマインドコントロールすることも出来る。俺が過去、財団で記憶を弄る分野にいたってことぐらい、勿論知っているよな?」
「――っ!」
「具体的なやり方を教えてやろうか? 記憶の改竄をしなくとも、思想を一変させることはできる。お前に少しでも、オブジェクトを破壊した方が良い――俺と同等の価値観を持っているなら、十分だ。多少なりとも共感があれば、条件は満たされている。顕在意識と潜在意識をゴッチャにし、死ぬまで解けないようにしてやろうか?」
ルコは、ほぼ反射的に身動ぎをした。彼女の警戒緊迫した様子を見て、真中はおどけるように笑い、非常に優しい口調で嗜めるように云う。
「安心しろ。んなこたぁしねえよ。俺は本心で裏切ってもらわなきゃ意味がねえと思っている。さて、くだらねえ話をしてないで、そろそろ飯の時間にでもするか。腹、減ってるだろ。柔らかく消化に良い飯を提供してやんよ」
真中はそう云いながら、袂をゴソゴソと探る。ルコはゼリー食か何かを取り出すものと思っていたが、それは違っていた。
真中が袂から取り出したのは哺乳瓶だった。
赤子が使う、目盛の付けられた入れ物である。ルコの口元へ哺乳瓶を近付ける彼は、非常に楽しそうであった。
「ぶっ殺すぞてめえ!」
ルコは怒鳴り声を上げ、後頭部に置かれていた枕を渾身の力を込めて投げつける。真中は「冗談だ」と云いながら投擲される枕を避け、足早に退室する。ルコは真中が戻るまでのその間、このネタのためにわざわざ哺乳瓶を用意したのだろうかと思ったが、実際は違っていた。よく耳を澄ませれば、潮騒の音に混じって赤子の鳴き声が聞こえる。おむつとご飯のどちらを求めているのか分からないが、真中の新たな転生体候補がいることが知れた。
「飯はミルク粥で良いよな。何度も何度も作っているから、腕はかなり上達している。大人でも食べられるように味を調節しているから、安心して食え」
数分後真中は、粥の入った大皿と木製のスプーンにコップ、りんごジュースの入った大きめの瓶を手に戻ってきた。真中はルコの足元あたりにある簡易性のテーブルを設置し、音も立てずそれぞれの品々を置く。彼は再びルコの隣に座って、窓辺に視線を向ける。外は夜だった。
「この料理はあなたが作ったのですか?」
「あぁ、そうだ。子供の世話を見れる奴なんて、ここには誰もいねえからな。ったく、赤子は面倒で仕方ねえ。睡眠不足で目に隈ができそうだ」
「……。そうですか」
ルコは正直なところ、財団の敵対者兼薬剤師である真中が作った料理に、何らかの薬物が入っていないか疑惑を覚えた。食べるべきか拒否すべきか迷ったものの、恐る恐る一口運ぶ。味はまあまあだったが、ミルクと粥の組み合わせは食べ慣れていない所為だろう、塩の味付けと梅干の乗った普通のお粥の方が良かった。
「前々からの疑問なんですけど、貴方はどうやってオブジェクトを破壊することができるんですか? いえ……破壊ではなく、無力化のやり方ですかね」
真中の目的は全オブジェクトのNeutralize化を狙っている。それゆえGOCの活動方針とは厳密には異なり、財団の経営理念とは敵対せざる得ない。要注意団体にも満たない小規模組織だが、危険視するのに十分な資格を兼ね備えていた。
「造り方を学んでいるから、壊し方を知っているだけだ」
「仕組みを把握することで分解することが出来るということですか? それじゃあまりにも簡単過ぎます。納得できませんね。それにオブジェクトはそう簡単なものではありません。たとえば鍵の施錠システムを理解していても金庫の扉を開けることができないように、楽に成功できるようなものじゃない。パソコンのキーボード入力が出来れば、ハッカー行為が可能と云っているようなものですよ」
「と云われても、そうとしか云い様がないから仕方ねえし、財団職員であるお前には云えないな。俺のやり方が封鎖されちまう。……あぁ、でも、概念ぐらいなら説明できるぜ。大体この番外編を書いたのは文字数が余っていることと、大まかなやり方を書いておかなきゃ我慢がならねえ作者の性分って奴だよ。全てにおいて設定作り、最低限書く性質……何かの病気なんじゃねえかな」
「概念?」
作者や設定に関して質問することなく、ルコは話を進めた。真中は疑問に対して、説明を行う。
「えーっと、そうだな。箱。お前たちが収集するはずだった、エレベーター型のオブジェクトを説明の例としてあげよう。あれの性質は一階でも二階でもどこでも良い、ボタンを押して上下移動すれば、別の世界に囚われるって奴だ。エレベーターに限らず、扉や蓋を有した物体というのは、ある種の独自空間を持っている」
「空間……」
「建物にしても飲食店に入れば店主の空間だし、牢屋、病室、私室、押入れ、犬小屋、井戸、電車、海中、地球……列挙すれば切りがねえが、円形四角不定形を問わず何れにせよ、どの物体にも箱としての役割、入れ物としての機能がある。ガキの頃、経験したことがあるかもしれねえが、他の教室へ行くと自分のクラスの雰囲気と露骨に違うよな。ああいった気配そのものが、独自空間を形成しているんだ」
宝石箱には宝石を。骨壷には故人の骨を。
確かに役割とその領域と思わしき区切りがあるかもしれなかった。
「それでエレベーターの方に話を戻すが、飛行機やロケット、階段等の例外はあれども、人間は基本的に横移動が主だよな。クルマに乗車する、バスや電車に乗って目的地へ向かう、徒歩駆け足車椅子……実に地を這っている」
「人間は跳べても、自力では高所へ飛べませんからね」
「あぁ。本来できないはずの上下移動……出来ない、未知……ところで、円形に構造されたものもあるが、エレベーターの多くは四角い形状をしている。四角四隅で人が入り、ボタンを押して、蓋が閉ざされる。まるで――棺みたいだと思わないか? 棺桶だって最終的にボタンが押され、ドアが閉ざされるんだぜ」
「特徴的点ではそうですが、エレベーターは死体が入るべきものではありませんよ」
「そうだ。死体ではなく、基本的に生体が入室する。翅が生え翼を所持しているわけでもねえのに、本来未知の領域――上階へと移動する。とはいっても生体は生体だからな、いきなり死後の世界へ行くわけがねえ。それゆえエレベーターが偶然、異界や別次元へ繋がっちまうのは、ある意味納得できねえか?」
「本来できなかった上下移動……人間は、親しみ慣れていないものに恐怖心を覚えるということですか。たとえば深海なんかが恐怖の対象であることは理解できます。宇宙なんて云わずもがな、ですね」
「そう、親しみや慣れ。あぁ、これはメタ的な話になるがな、今ではボタンの変わった押し方で異次元へいけるなんてつっても、その恐怖は受けやしねえだろ? 何せ、慣れてしまっているからだ。『そういったものも有る』程度の親しみに、零落しているからだ。恐怖っつうのは、貞子しかり、八尺様しかり、恐怖やホラー的存在は可愛がりの対象になっている。人間が無意識意図的に関わらず、そうしているからだ。近年で云えば、エボラ出血熱の病原菌を擬人化したことが、記憶に新しい」
「人間が……」
「色々反論があるようだが、萌え化や擬人化というのは、人間がその恐怖を克服しようとしている作用そのものだぜ。現に『ねこですよろしくおねがいします』、『あかしけ やなげ 緋色の鳥よ』なんつうおどろおどろしい物のは、その手の界隈じゃ立派な愛らしいキャラクターになっているじゃねえか。……いや、別に苦言を呈したいわけじゃねえんだ、誤解しないでくれ。楽しませてもらってるよ、ありがとう。もっと描いてくれ」
真中は”こちら側”を見て、ぺこりと頭を下げる。
「未知のものが既知となり、親しみを覚え怖くなくなる。いや、分かっていても怖いというのもあるが、根源的にホラー、原点にして頂点たる彫刻オリジナルが意味不明な恐怖であった財団としちゃ、これ以上ないNeutralize化――といっても過言じゃねえんじゃないかな? 長々と話したが、俺がオブジェクトの無力化を図る概念というのは、上記の点が当てはまる。作り方を知ることで仕組みを解剖する。こんなところだ。まぁ、端的に纏めるなら闇子ちゃんの収容プロトコルに近いんだろうぜ」
真中はルコが食した食器を片付けながら、まとめに入った。
「概念上の終了について説明したが、実際の物理的破壊については、俺の仲間に入ったら教えてやるよ。それじゃ、じゃあな、シスターよ。一方的に観客にして悪かった。お前、いいや、お前達の活躍、楽しみにしているぜ」
真中は食器類を手に部屋を出て行く。
ルコは額に手を当てながら、しばし沈黙していた。その際に、漣の音に混じってヘリの飛行音が聞こえてきた。どうやら、機動部隊の乗ったお迎えのヘリが来たらしい。
劈頭第一に申し訳なく、いきなりの話でございますが、私が物心付く以前から身の回りだけじゃ飽き足らず、赤の他人である周囲の人間まで悉く死に絶え、まるで必然の如く人が死ぬ有様を見て得る感慨は『人が殺されて死ぬのは当然のことである』という価値観でございます。
有体て申し上げれば、自分の周囲や環境において『老死』はおろか『病死』なんぞは夢物語と云っても差し支えない出来事でございまして、殺されていないのに何故死ぬのかしらんと、一種の怪訝さ……ひいては奇妙な感覚さえ抱いておりました。
たとえば祖父が食生活や習慣がよろしくなく、それが原因で死んだ際には、
「人間は殺されることで、死の条件を達成できるのでは無かったのか」
と、白い救急車が祖父の家を往来し、しばらく時間が経過すれば真っ黒い霊柩車に乗せられ、火葬場の柔らかいクッションを有した椅子に腰掛けながら、ちびちびとジュースや甘ったるい菓子類なんぞを食しながら、ぼんやりと自己認識を改めました。
断っておきますが、私は別段病床に臥した祖父とはこれと云って良いほど悪感情や好感を抱いておらず、暖かい温もりも冷徹な冷ややかさもない他人染みた関係性しかありませんでした。率直な意見を云わせてもらえるならば、テレビ上の芸能人や雑誌上の著作者が死んだような感想しか抱けなかったのでございます。
……これは非常に余計なお言葉かもしれませぬが、火葬場の帰りに送迎バスに乗せられぼんやり車窓を眺める最中、私と然程年頃の変わらない母親と手を繋いだ小さな子供が、猛スピードで突っ込んでくる普通乗用車に轢き殺される様を見て、ようやくやっと夢物語や怪異譚から現実へ帰還したと思っておりました。
自身の周りで人が死ぬ。
刃物で、鈍器で、糸鋸で、金槌で、沈められ、焼かれ、圧死され、縊死され、嬲られ、バラバラに、隠され、見立てられ、身代わられ、入れ替わり、誤魔化される……。
殺害、隠蔽方法など様々な……えぇ、それこそ色数多多数、玉石混交とありましたけれど……私の周囲で人が死ぬ度に、いずれにせよ犯人が白日の下露呈するわけですから、そのパターン、ひいては法則性なんぞ本能以上の把握をしてございまして、中学生になるかならないかの頃には、殺人事件を話半分に訊いただけでも、ある程度、大まかな推測と犯人の断定が可能なほどになっていたのでございます。
断っておきますが、これは別段私の頭が類稀なる頭脳を有しているだとか、奇抜奇想天外を極めた価値観により真相を看破出来ただとかそういったものではなく、血生臭い体験と血みどろの経験値によって、瓦解させるように真犯人と真実を解き解すことが可能になったのでございます。嫌らしい話ですけれども、財団で長らく働いている研究員がDクラス職員なんぞを一見一瞥しただけで『あぁ、こいつは生き残るな』といった予感を覚えるような、そういった予期予感を極自然に彷彿としていたのです。
意図的な殺人事件が発生する最中、事件の解剖だけではなく、同時に虚言や嘘を見破るのも巧くなりました。単に見破るだけでなく、初見の方が嘘や誤魔化しの言葉を吐いた時、どの程度の割合で虚実と真実が入り混じっているのか、目分量で測量することさえ出来たのです。
鎧袖一触するか如く事件を暴く最中……密室、見立て、ドミノ殺人等を快刀乱麻に断ち切る狭間、私はフと……ある異様な……そして致命的な弱点……いいえ、弱いだとか盲目だとかそういった点ではなく、悪といって差し支えない異質な面を自覚するようになりました。
勿体振らず一口で申し上げるならば……そうです……私は度々、宿泊した施設や逗留先、遊楽の繁華街などで連続殺人が発生し、事の渦に巻き込まれる中、本当に不思議なことですけれども、どうしても……どうやって足掻いても、犯人の目標が完遂するか、もしくは最後の殺人を阻止するぐらいしか、主催者の行いを妨げられないのです。寧ろ、私が関わることで却って事態を悪化させているようでした。
私は高校卒業と同時に進学や就職に就くこともなく、許可書を申請して正式に探偵として生活費を稼ぐべく働き始めたのですが、例えば個人の浮気調査のため宿泊したホテルなどで連続殺人が例の如く勃発するのですけれど、私は探偵業を営む前から、多少名のある探偵として世間一般に認知されており、事件を悉く紐解く名探偵がいるのにも関わらず、何故挙って事件が発生するのか、それが一番の不可解でした。
確率操作による作用と云えばそれまでですが、その一言で片付けるにはあまりにも不可解です。事件に引かれるといっても、その場に犯行を見破る人間がいれば、未遂のうちに片付けるじゃありませんか。精密な計画と、疎漏なき行動を行う犯人です。そのような人物が、万が一を考えて中断しないのはおかしいじゃありませんか。全員が全員、探偵に挑戦しようと躍起になるのは、あまりにも不自然じゃありませんか。
……と、前述の疑問と不思議を長年抱いていたのですけれど、その謎は直に氷解しました。結論だけ申し上げれば『探偵は犯行を阻止する存在ではない』、ということです。その役割は警察の仕事であって、探偵は静かにパイプを燻らせ、安楽椅子に座り、すべてが終わった後に持ち前の特性を発揮することが出来るのです。
どのミステリー小説、漫画であっても、現在進行形の犯罪において探偵はひどく無能です。最早……いっそのこと静観などせず、下手に動いた方が上手く回るのではないかと思えるほど、愚鈍の極みです。結論的に、探偵が存在する施設や区域内で犯人が犯罪を行うのは返り討ちにされる可能性はありつつも、最低でも七割、うまく行けば屠るべき対象を全て抹殺できるからです。要は『事件を解決する探偵の特性』を利用されていた、ということですね(話が脱線して恐縮ですが、おそらく真中も私の悪い性質を利用しているのかもしれません)。
私はこの事実に気付いた時、自ら積極的に外界との関わりを持つまいと心に決めました。受動的かつ土竜のように振舞おうと、我が振りを直すべく不動を維持しました。どうせ一連の事件が終わらなければ、何もできない存在です。無駄に引っかき回すよりはマシでしょう。
仕事の依頼が来ない限り何もしない。
傲慢なようですけれど、周囲や私にとってそれが一番平穏な選択肢ではないでしょうか。私がその場にいなければ、実行犯というのは存外、素人目では容易く打ち破られてしまう存在ではないだろうかと、淡い期待と仄かな思いを抱いておりました。
受動的になってからの生活は暇になれば幾分救われる話ですけれども、そのような対策で物事が好転し置換するほど、現実は甘く柔らかく美しいものではないようです。むしろ所在地が固定化したことによって、多忙になりました。
……いいえ、私を中心に物事が激化しただとか、急激に人間関係が拗れただとかそういったことではなく、今まで日本各地をふらふら動き回っていたお陰なのでしょう……これまで一ヶ月に数度の来訪と依頼を行っていた警察の方が、頻繁に訪れるようになったのです。
私は自身の持つ『悪い性質』について言葉を暈しながら説明したお陰で、未解決事件のみを回すようにしてくださいましたが、その依頼内容の中で、奇妙な……人間業とは云い難いものが数点混じるようになりました。私はその時分、全ての殺人事件には人間か、自然か、偶発か、動物かの要因によって発生するものだと信じていました。
しかし、奇妙な未解決事件は人間・自然・偶発・動物のどれにも当てはまらないもので、全力かつ現実的に事件の真相を暴きながらも、『超常的な力により死亡した』という結論しか出ないのです。左記の調査報告をする際、警察の方々に嘲弄、失笑、冷笑、爆笑を覚悟して、渋々ながら苦々しく推理内容を告白したのですが、彼らは一切笑うことなく、より表情を険しく硬く凍らせて、
「そうですか。ありがとうございます」
と云い、約束の依頼金を置き、出て行くのです。私は事務所を出て行く彼らの後姿を見ながら、むしろこっちが唖然とし、呆気に取られたものでございました。
奇妙な事件に関する警察の態度に、正直なところ好奇心と興味はありました。しかし、私は常に不吉を身に纏った死神のような男です。どれだけ強い好奇心はあっても、ウズウズした武者震いを覚えながら、我慢為い為い強いて、ぷかりぷかりと煙管の煙を呑んで、石のようにじっとすることに努めました。
そのように石像のように自制し、地蔵のように黙然と過ごす中、私の探偵事務所に珍しい客が訪れました。その方は警察でもなければ、浮気調査や行方不明者を探し出そうとしている一般市民でもない、雰囲気が慄然とし、統制鍛錬されたような並々ならぬ気配を有する軍人か、または刺客のような方達が訪問したのでございます。私は一目見ただけで何らかの組織に属する機密部隊といった印象を抱きながら、彼らの自己紹介を耳にします。
一人は吹上真、もう残りの方はユーリィと名乗りました。
「実は先月……バラバラ事件を解決した貴方に、折り入って話がありまして……」
吹上さんの話を要約し掻い摘んで記載すると、以下の通りになります。
私は犯人の殺人行為が終了した事件のみ引き受けることを警察に明言し、事件を解決しています。その仕事の中に、異常物――率直な記載が許されるのならば、財団はSCPオブジェクトが関与の可否を黒白明瞭化すべくエージェントを送り込んでいるのですが、その調査内でオブジェクトの仕業であるのか何とも判然しない『四人家族バラバラ殺人事件』を解決した私に、興味を示したという話でございます。
バラバラ殺人事件の概要をざっくり纏めますと、手足のそれぞれに二つの人格を持つ老婆が三度に渡って殺されたというものです。私は依頼を受け数分で解決したのですが、財団職員である彼らはその腕を買い、財団の経営方針、そして存在意義について説明し、我が組織の一員にならないかとの勧誘を行っているのです。しかし私から云わせて貰えるならば、謙遜でも何でもなく、余計な知識とでも云いましょうか……財団は認識障害や現実改変やら、余分な情報を持っているがゆえ真相に辿り着くことが出来なかったのではないかしらんと、思わなくはありませんでした。
しかしそれでも正直なところ、財団での仕事は私にとって、非常に魅力的でした。何せ相手が人間ではなく化け物といって差し支えないものなんですから。これまで私は二桁……否、三桁に及ぶほど殺人事件に関与して来ましたが、人間が人間を殺すソレ自体に飽き飽きしていたのでございます。死生観に関して常人ならざる歪みが生じ、『金目当てで人を殺すよりも、食べるつもりで他者を殺害した方が、まだまだ正当で理解できる』とさえ、漠然と思っておりました。
6と4ぐらいの割合で気分と気持ちが傾く中、その天秤に錘を乗せるように吹上さんはこう仰いました。
「正直なところ、[本名 削除済]さんを正式にSCPオブジェクトとして保護すべきではないかとの意見が出ているんですよ」
「あっしを、ですかい?」
「ええ。何せあなたは“名探偵”であらせられる。行く先々で悉く殺人事件が発生するそれは、正しく異常物そのものではありませんか。SCP-841-JPの例もありますしね……」
「へえ。密室を開く側を密室にね……とても面白いが、そいつはならんよ。というよりも分かってござんしょう? あっしの周囲にゃ常に人が死ぬ。そんな奴を財団が手中に収める――『事件前に探偵を招くなんざ、如何にも事件の発生を望んでいる』ものでい」
本来、収容違反初期で沈静化されるべきオブジェクトが最低でも七割、目的を達成可能になる。
暗にその性質について語り掛けると、吹上さんは重々承知しているように頷きました。
「これも収容プロトコルの一環とでも云いましょうか。財団としては野放しにしておくよりも、手持ちに加えコントロールしておきたいんですよ。あなたの正しい使い方は、事件終了後に向かわせるのが吉。改変事象やら、認識障害を持つオブジェクトによる猛威が振るわれたとしても、探偵の特性『必ず正解に辿り着く』能力はこの上なき貢献となりうるのです」
……まぁ、財団職員の中には殺しても死なないような人間がいますし、あなたの性質について多少お目こぼしはありえるでしょうと、吹上さんは続けます。
それから、細々とした話し合い(給料や休日等の確認です)が為されました。結論だけ述べれば、自営業たる探偵を続けるよりも、財団側で働いた方が明らかに有益で特であることは明白でございましたので、了承の返事を出したのです。その返事は快諾といって差し支えございません。
それから月日が飛んで、[削除済]月後のことです。私はまぁ……名探偵を自称していますが、財団の書類上では、役職はエージェントとなります。前原博士の通過儀礼(というよりも、最早形式美ではないかしらん?)を受け、エージェント海野の格闘技による模擬試合でボコボコにされた後、室内の一角で休んでいると、不意に声が掛かりました。
「きみ、俺より弱いなぁ」
そう仰るのは、エージェント・セントラルです。彼は私と似たような体質、トラブルメーカーといって差し支えない特性を持っており、非常に身勝手な話でございますが、親近感と云うべきでしょうか……同属に対する仲間意識のようなものを抱いておりました。
「そう云いなさるが、やつがれは元来頭脳派でね。推理をするのが仕事だ」
顔を背けながら、煙管の吸い口を咥え煙を堪能していると、セントラルは私の真横に座り「確率操作だっけ」と云います。
「俺の要注意団体との遭遇率も中々のもんだが、あんたも大概だな」
「色々大変だが、嫌な物ばっかりってわけでもない。たとえば、ほら……」
私は顎で指すように、訓練場の出入り口を示すと彼はその方向を見ました。ドア付近には串間保育士がいたのですが、育ちに育ったたわわな胸にシャツが耐え切れず、胸部付近のボタンが四方八方に弾け飛んでいるところでした。彼女の異変に気づいた堀田博士が、白衣を脱ぎながら駆け寄ろうとしましたが、それよりも先にエージェント差前が上着を脱ぎ、串間さんの肩に羽織らせています。
「良くも悪くもラッキースケベにゃ事欠けんよ。眼福眼福」
「……あんた、常時目ぇ閉じてるけど見えてんのか?」
「見える見える。視力は2.0」
「ふうん。どんな時に開眼するの?」
「寝ている時」
セントラルさんは「本当かよ」と、小言のような呟きを出しました。誤解を訂正するため述べておきますが、寝ている時に眼を開くそれは、嘘です。
「ところで、ホレ……急で悪いがあんたに仕事だ」
彼はそう云い、私に封筒を手渡しました。白い紙面に財団マークの描かれたそれは、云うまでもなく財団独自の指令書です。私は煙管をぷかぷか吹かしながら受け取り、封筒の中身をガサゴソと開いていきました。
「あぁ。良かった。ようやく仕事か。やつがれに仕事が回って来るということは、殺人事件なんだろう。ここ二十日間、誰も死んでいなかったからな……やっと安心できる。殺人以上の悪いことは起きない」
別段、他人の死を希っているわけではありませんが、常にまわりで人が死に続けた影響なのでしょう。私は最低でも一ヶ月に一件殺人事件に関与、または一人死なないと精神的安定感を失うようになっていたのです。
この悪癖について、分かりやすい比喩表現を用いるなら、不幸だった人が突如幸福になって日常に不安を抱くようなものなのでしょう。しかし私は別段、人間が死ぬことに関して、不幸だとは思ったことはありません。何せ日常茶飯事なんですもの。食卓に目玉焼きが並んだとき礼儀作用に倣って手を合わせても、一々ひよこの死を悼まないように、いっそ清清しいほどの無関心さを持っていました。そもそも赤の他人ですし、真相を暴く面倒さの方がよっぽど印象深いのです。
セントラルさんは、どこか喜色満面の私に複雑そうな表情を浮かべながら、足早に立ち去っていきましたが一切構うことなく、渡された書類の内容を明かしていきます。書類に印刷された文章を見て、「今回は密室か」と呟きました。
「過去、生類総研の施設だったところか……真中関連は久しぶりだな」
私は奴と直接的な関わりを持つ以前から、仕事中にちょくちょくその名前を耳にしていました。真中に関する事件で最も印象深かったのは、収容対象である改変能力者が自己消滅したものです(どうやら真中は改変能力者に、明晰夢を見ているのではないかと揺さぶりをかけて消滅させたようでした)。
私はそのとき、漠然とした予感ですけれども、そう遠くないうちに彼に出会うのではないだろうかと思っていました。良くも悪くもその“予勘”があたってしまうわけなのですが、当時の私はそうとは知らず、指示された該当地へ赴く前に一風呂浴びて、目元に軽く化粧をし、意気揚々能天気にその場へ赴いたのでした。
東京都[削除済]のとあるバー。酒場の店内は薄暗く、しかし辛気臭い印象が全くない店内の目立たない一角にて、財団の保護対象である現実改変能力を持つ男は、丸い氷の入った透明なグラスをグルリと回しながら、物憂げに存在していた。
彼の顔には、幾ら強いエチルアルコールを飲酒しても、酔うに酔い切れないような陰鬱さを含んでいる。実際彼は一生涯において、何もかもが上手く運んでいるため、人生に対して退屈さを覚えていた。彼には自覚がなく、財団が把握している事実を特記するならば、彼は“自覚のない”現実改変能力者であり、願い祈るだけで物事全て森羅万象が思い通りに進むのであった。
以下に列挙するのは、改変者の身の上話である。非常に退屈な内容であるが、現実改変者である彼は、勉学において十分過ぎる成績を収め、運動神経は抜群で、女性関係引いては同性の友人関係において快挙と暇なく、上司や同輩にも可愛がられ、後輩には信望されるという――正しく等しく絵に描いた夢のような日々を過ごしていた。
それゆえ……こうして誰も知り合いのいないこの場において、味気なく素っ気無い世の中に無味乾燥を覚え、斯様に無愛想な表情を浮かべるのは当然のことであろう。仕事仲間や恋人友人にさえも見せたことのない、仮面のような……死体のような表情を浮かべながら、くるくるグラスを傾け、時には口に運び、溜息を出す。何もかも出来、巧くこなせる自分に共感を覚える人間はいないと自覚しながら、自嘲的な笑みを浮かべたところで、彼の目の前の横長の椅子に腰掛ける人物が現れた。
「……?」
このバーは、そこそこ繁盛している店である。しかし今の時間帯と曜日(月曜日の23時32分。通常ならば大学生社会人を問わず、会社や学校の事を考えて寝入ってもおかしくはなかろう)を考慮すれば、人気のない時間帯であることは否定できない。相席が発生するほど店内は混んでいないにも関わらず、なにゆえ自分の近くに座ったのだろうと思いながら、真正面を見据える。
目の前には精悍な顔付きをした男性が当然のように腰掛けていた。洒落た……高級ブランド品のスーツを着用した男が、頬杖を付きながら彼の顔を眺めている。
「あの……」
男は「あなたは一体誰なんですか」と、もしかすれば、仕事の関係者なのではなかろうかと一種の危惧を覚えながら話しかけた。しかし結果から云えば、その予想は異なっている。結論から云わせてもらえれば、目の前の見知らぬ男は、自身とは縁ゆかりのない、無関係の人物であった。
「はじめまして、[抹消済]さん。俺の名前は真中央ってんだ。職業は……まぁ、何というか、霊媒師のようなモンをしている」
「……霊媒師」
彼は訝しげというよりも、酔いゆえ聞き間違いをしたのではないだろうかと思いながら、真中の言葉を反芻する。「失礼ながらアルコールに少々酩酊が生じているようです。職業は霊媒師と云っておりましたが、それは本当でしょうか」と尋ねると、男は笑いながら――しかし目は機械や氷のように無感情だ――鷹揚に頷いて見せた。
「あぁ、霊媒師だ。自己紹介を兼ねて云わせてもらうが、俺は四国出身のものでね。殺生石ってぇのは知っているか? 玉藻御前……すげえ分かり易く云うなら、九尾の狐が持っていた石を玄翁で砕いたら四方八方バラバラになって、四魂の欠片の如く、イヅナやら狐憑きやらの伝承が広がったというアレだ。俺の家系はよ、管狐やお稲荷さんのソレじゃねえが、犬神筋の人間だ……心霊・霊能に関しちゃプロフェッショナルだぜ?」
「犬神……?」
彼が不思議そうな表情を浮かべると、彼は犬神について一般的な説明をした。犬の首だけ地中から出して飢え死にをさせるだとか、散々苛め殺した犬の死骸に生じた蛆虫を売り捌く……等、怨嗟な話をさらりと述べる。場合が場合なら吐き気を催す“実感”を有した生々しい話であったが、酔いの所為でそれほど聞き苦しい話ではなかった。
「ふん。俺の出自の根底、犬神ねえ。それにチロ警備犬か……本来なら『図南の翼』の続編で九尾の珠や、峠のことも未熟な記憶処理ではなく、心理遺伝……要は俺が親戚筋に『転生法』の臨床実験を施したことについて述べるつもりだったんだがな……随分後回しになっちまった。殊に犬神云々については、舞台装置上の設定で使う予定だったんだがな……まぁ、こうやって簡易的ながらも複線回収したんだ、我慢してくれ」
「ん? えーっと、それは一体どういうことなんですか?」
「いや、すまねえ。外野であるお前にゃ関係のない話だよ。“あちら側”に云っているだけだ」
真中はそう云い、適当な酒を頼んだ。目の覚めるようなコバルトブルー色をした、アルコール濃度の少ないカクテルが運ばれる。真中は一口含み、ごくりと飲む。味の感想に関しては、美味いも不味いもない平坦な表情であった。
真中は一切音を立てずグラスをテーブルに置き、彼をマジマジと見据えた。男はほろ酔いの最中、「もしかしたら性質の悪い酔っ払いに絡まれたのではあるまいか」と思っていたが、見逃さないように凝視する三白眼に晒されるにつれて、その感想が変わっていく。彼は酔漢などではなく、何らかの意思と目的を持って男に接していることが分かった。
そして――予感した。
こいつに関わってはいけないと、直感した。
我が身の破滅……ひいては、何かとんでもない、後悔しても仕切れない、取り返しと修繕不可能な事態を発生させるのではないかと思った。
彼は率直なところ、適当な云い訳を切り出し、この場から立ち去ろうとしたが、それよりも前に、まるで真中が彼の先の行動を予測していたかのような言動を出す。それは怪しい人物から逃れようと、自己保身による危機予感を鈍らせるには十分な発言であった。真中は見透かしたような顔をして、以下の言葉を放ったのである。
「お前さぁ……この世の中がつまらねえと考えているだろう?」
「――――」
図星であった。いや、それはわざわざ図星と称す間でもなく、的を射た言葉である。持ち上げかけた腰をクッションに落ち着かせ、ぐずぐずと沈め、頷くようにこうべを垂れた。彼は世の中や全ての事象が全て万事巧く行き過ぎるがゆえ、退屈さと、それこそつまらなさを自覚していたが、その事に関して誰にも話したことはない。そして悟らせたこともないと、断言できる。
それだのに初見である真中に看破されたことは、驚きを覚えずにはいられない。優越さを覚え他人を見下していると陰口で云われたことはあっても、真の感情について分析されたことはなかったのだ。それゆえ、その場から逃げるように立ち去ることなく、真正面から向き直った。
彼は苦笑を滲ませながら「誰であっても世間は退屈ですよ」と否定とも肯定とも取れない、当たり障りのない返事を出したのであるが、真中は一切合切、態度や言葉の曖昧模糊を許すことはなかった。
「違うな。そうじゃない。それじゃねえ。世の中に蔓延っている善良面をした世論や、邪悪顔の犯罪者、つまらねえ芸能、音楽、演技……取り柄も杵柄もねえ上司、同僚、後輩に感ずるような普通一般が抱く、傲慢のような退屈さではない」
それは断言であった。見逃すことも聞き逃すことも立ち去ることも許されない、圧倒的な真実を突きつける宣言である。
「全てが思い通り、自由自在に事が運ぶ味気なさとでも云おうか……お前が思ったり願ったり祈ったりするだけで、すべて実現可能だ。玩具が欲しい……金持ちでもねえにも関わらず、数時間後、その物質が手に入る。体育やプールにおける授業を放棄したいと思えば、記録的な大雨が生じる。電車やバスに乗り遅れ、間に合ってくれと思えば事故が発生し、事なきを得る。一々つぶさに、つまびらかに挙げれば切りがねえから、これぐらいにしておくが……普通の人間はよ、それほどうまく、帳尻合わせのように事が運ぶようなものじゃないんだぜ?」
それゆえ――世の中の全てが、退屈でつまらなく、味気なくて素っ気無いんだろう。
真中はそう云った。
「お前、人生において大小関わらずしくじったことはないだろう? 忸怩たる思いを抱いたことはねえだろう?」
お菓子にしても、玩具にしても、人間関係にしても、受験においても、何もかも……道端で転んだことも、小学生時、教師に問題や意見を発表するように指名されたことも、満員電車に遭遇したことも、何もない。
一度たりともだ。
それら全ては、彼が優秀だったからでは説明できない事項である。有体て記載すれば、異常と云って差し支えないだろう。
「優秀だからつまらないんじゃない。思った通りに世の中が運ぶ。だから、お前は退屈なんだ」
「……確かにそうです。私の人生は嫌な事を予期したり、こうなりたいと願えば、そうなります。実際に今からパイロットになりたい、アイドルになりたい、金持ちになりたい、石油王になりたい、作家になりたい、スポーツ選手になりたい……何でもいい、今とは違った姿を望めば、まるで本のページをめくるように……努力や下積みをすることなく、願望さえ抱けばそうなってしまうんだ。退屈、ですよ。つまらないです。本当、あなたの云う通りですね」
彼は自嘲的な笑みを浮かべ、独白というより自虐的になりながら、項垂れるように云う。真中は同調するように、頷きながら猫背のように突っ伏した彼の背中をなでた。
「もしもその退屈さが紛らうとしたら、おめえはどうするよ?」
「どうする……?」
「思い出せ。俺は自己紹介時、霊媒師だと云ったよな? てめえ自身が退屈でそれを解消すること以外は叶わない……その悩みを燃焼するために、俺はてめえの前に顕現しているんだぜ? いや、憑依かな?」
訪れたではなく顕現や憑依だと、真中は云った。その異様なキーワードに、当惑した。明らかに混乱と狼狽を有した彼ではあるが、真中は全く構うことなく話を続ける。
「ハッキリ云おう。てめえは――何でもかんでも実現してしまうお前は、明晰夢を見ている状態なんだ」
「――は――」
男はポカンと口を開け、まじまじと真中を見た。冗談や法螺を吹いているのではなかろうかと思っていたが、目の前にいる男性は至って真面目である。緊張を帯びた、真剣で真摯そうな表情を浮かべている。
「明晰夢……?」
「明晰夢とは、睡眠時の半覚醒って奴だ。人間一度は経験するらしいが、具体的な症状として金縛りや幽体離脱が上げられる。半端な覚醒ゆえ明晰夢の途中は、てめえの思った通りに夢の内容を自由自在に変えられることができるんだ。試しに金縛りに合ったとき、悪霊や化け物じゃなく意中の相手や、好きなキャラクターを思い浮かべてみな。悪夢から快眠に様変わりするぜ?」
まぁ、そん時に余裕があればの話であるがな。
真中はそう締めくくりながら、青いカクテルを飲み干した。
「明晰夢と云われても、お前は納得できないだろう? 人間の睡眠の摂取時間なんざ、短くて三時間、長くて八時間といったところだ。だがよ、中には例外……つうより番外的なレアケースはあるもんでね……本体のお前は、大型トラックに轢かれて、今は植物状態だ。白い臥所の、消毒液臭いナースや医者まみれの一部屋で、点滴に繋がれ、昏々と眠りながら、辛うじて生き永らえている」
「……馬鹿な、そんな訳があるか! 夢を見ているだと!? いくら何でも出鱈目にも、ほどがある!」
「出鱈目ねえ」真中は愉快そうに意味深に笑った。「荒唐無稽と否定するがお前、最古の記憶はどのあたりだ?」
「え?」
「だから、自分が記憶している古い記憶はどの辺りなのかって聞いてんだよ。答えなよ、ホラ」
「い、一番古い記憶といっても」男は目を左右に泳がせながら、片手で額を押さえてしどろもどろに云う。「中学一年生が一番古い……それ以前となると、もう……」
「中学生、13歳ぐらいか。お前、中学生時代の記憶について、何か記憶しているか? あったとしても、おぼろげだろう? 部分、一部分的な記憶しかないはずだ。夢の場面が唐突に変転するが如く、刹那刹那の記憶しかねえ」
「そんなもの――誰だって、そうだろうが! 皆が皆、緻密繊細に過去の思い出を彷彿できるわけじゃない! 長生きすればするほど、そうなる! 殊に私は世の中が味気なくつまらないと思っていた! 退屈な映画や本を鑑賞すれば、二、三日経てば忘却の彼方だ! それと同様に、記憶していないのは当たり前だろう!」
「そりゃそうだ。俺だってつまんねえ人間や出来事は、意図的かつ積極的に忘れるようにしている。だが、人生におけるキーポイントの記憶は最低限あるぜ。いわゆる分岐点という奴だが……それほど大仰な云い方はしなくとも、どこの学校へ受験するか、部活は何に入ろうと決めるか、就職先の選択や結婚相手の選別などが該当する。それを踏まえての質問だが……てめえは人生の分かれ道における、選択の記憶は持っているか?」
「選択……」
男は血の気を引かせて、生汗をびっしょりかきながら、椅子に深々と腰掛けた。真中の言葉を否定しようと、過去の経歴を振り返るが、どれだけ必死かつ決死に海馬を動かし漁ってみても、全ての思い出は霞と靄が掛かったように曖昧である。何故自分は名門校に入学できたのか分からないし、どうして有名大学と会社に籍を置くことが出来たのか不明だった。
客観的に見て、真中の問いは三文以下の言葉でしかない。普通の人間ならば、鼻で笑いながら片手間で追い払うことが出来るような、稚拙な問いかけである。しかし、目の前にいる男はそうではない。大小のそれぞれに関係なく、転んだこともなく、教師に指摘されたことも、電車に乗り遅れる、職業難に陥ったことも、嫌はことが一切ない。
万事上手く運ぶ……願うだけで叶えられる彼にとって、夢を見ているのではないかという揺さぶりは非常に有効なものであった。
明晰夢の指摘を内心認め、落ち込んでいる男を見て、真中は笑った。それは冷笑と嘲笑の入り混じった笑い方であったが、器用なことに暖か味にコーティングされた仮面を被っている。真中の、よくよく観察しなければ真実味を見出せない莞爾に中てられた男は、縋るような声を出した。
「どう……どうすれば良いのですか……私が事故で眠っているというのなら――現実世界へ戻るには、どうすれば良いのですか……嫌です嫌です……背中が焼かれていることにも気付かず一家団欒をしているような……自分の頭が狂気に飲まれているのに、当たり障りなく生活していると思い込んでいるような……この仮初から逃れるには、真実の私に出会うには、どうしたら良いのです……!?」
「消えろって念じてみな。この世界、宇宙、平行世界から消えるように願って祈れば、それだけで良いんだ。お前はたったそれだけの願掛けで、意識を覚醒することが出来る。夢から現へ帰還できるぜ」
「本当ですね?」
「あぁ、本当だ。この場において嘘なんかつくものかよ」
彼は額からじっとり滲み出てくる冷や汗を拭いながら、一心一丸にこの世界や現実から消えるよう願った。両手を握り締め、手の平同士を握り合わせ、「消えろ」と呪詛のような祝詞を何度もつぶやき、やがて――
――目の前の男は、はじめから存在しなかったかの如く消え失せた。
現実改変能力を有した彼は現実と、すべての平行世界から消失のである。男が飲んでいた丸い氷の入ったグラスと、茶色い液体がテーブル上に名残のようにありながらも、気配は勿論、残り香を一切残すことなく消えたのだ。おそらく戸籍上の情報すらも、改竄されていることであろう。
消滅というより、消去。滅却というより滅亡。
しかもその事象は真中が促したとは云え、結果的に見れば自己破滅である。外側から破壊行為を実行するよりも、手っ取り早い手法だった。しかし、危険な賭け――もしくは綱渡りであることには違いない。
改変能力者の危険性について認知している真中は、一仕事終えた労働者のように「ふう」と息を漏らし、ネクタイをゆるゆると外し、緊張の糸を解す。やおら立ち上がり、カウンターで待機していた店員に「冷たい水をくれ」と云い近付き、ど真ん中の席に座った。
「お疲れ様です」
カウンターバーの男性……いいや、このような他人行儀な記載は止めよう。真中のボディーガード兼秘書である、左右(あてら)は丁寧にお辞儀をして、あらかじめ用意していた細長いグラスに、冷たい水を注いで提供する。
「いざという時の保険として待機していましたが、見ていてハラハラしましたよ。思うのですが、そういった雑務はチームのリーダである貴方が行うのではなく、下っ端などに任せた方が宜しいのではないでしょうか?」
「仲間が少ないし、仕様がねえだろう。あまり責めてくれるな。うまくいったから良かったじゃねーか。つうか失敗したときのために、対改変能力者の抵抗力を持つお前がいるんだし、構わねえだろう」
「そう申されましても……」左右は眉を顰める。「白眉とは云い難い過程であったのは確かです。なお、ここから先の言葉は秘書としてのわたくしではなく、あなたの後ろ盾のひとつである資金提供者――パトロンとしての苦言となりますが、よろしいですか?」
「遠慮なく云えよ。くどい奴だな」
真中はグラスを手に取り、一口水を飲む。水分が咽喉元を下った瞬間を見計らって、左右は云う。
「なんでしたっけ……明晰夢がどうのこうの云っておりましたが、その理屈はお粗末でしたよ。相手が凡庸型かつさほど賢くない改変者……率直に云わせてもらえるなら、雑魚が相手だったから良かったものの、下手をすればあなたが消滅していたことでしょう。あまりハラハラさせないで下さい」
「いや、俺にだって初めてっつうもんはあるんだぜ? 色々云ってくれるなよ……しかし、一か八かの賭けであったことは確かだ。肝に命じておく」
しかし明晰夢は良い線いっているんだと思うんだがな。次は世界五分前説を織り交ぜてやってみようかと、真中はぶつぶつと独り言を呟く。
次の策について考案し始めた真中に対して、左右はパトロンのそれから秘書のものへと態度を改めた。左右は真中の目の前から離れて、カウンターの内側に設計された戸棚に近付く。本来ならば、酒やグラスが置かれるその一角に似つかわしくない茶色の封筒が入っていたのだが、左右は少々分厚いそれを手に真中の正面へと戻って、「こちらが離反者リストになります」と云い、差し伸べた。
「真中さん。不躾ながら申し上げれば、わたくしたちが最優先にやるべきことは異常物の消滅や破壊ではなく、協力者や有志を集めることが先決だと思われます。そちらの書類には財団を筆頭に、GOC、負号部隊、蒐集院、無所属を含めた方々の情報が記載されております。是非、ご一読くださいませ」
「ふうん」
左右の言葉に誘われ、真中は封筒を開き書類をパラパラと捲っていく。一通り読み終わったところで、気になっている数名の書類をピックアップした。
「こいつは、良いな。御先稲荷。AOアイテムを含めたオブジェクトの効果消失。特技が良い。製作者の情報を入手する清聴という能力のメカニズムはよく分からねえが、管理と破壊が可能ってのは俺にとっちゃありがてえ。手に入れたのは良いものの、破壊し損なったアイテムがいくつかあっただろう? GOCに破壊依頼をしようと考えていたが、あんまり頼り過ぎるのも何だしな。うん、仲間になってくれたら任せてみよう」
真中は書類を封筒の中に納め、椅子から立ち上がる。
「それじゃ秘書、後片付けよろしくお願いしとくぜ。お前の忠告と苦言を受けて、仲間集めとやらに没頭する。しばらくは会わんだろう。それじゃ、息災で」
彼は書類を片手にカウンターから、呼び鈴の設けられたドアへと近付いた。しかしドアノブに触れる数秒前に、はたと立ち止まり首だけ振り返って、秘書を省みた。
「なぁ、前々から聞きたかったことがあるんだけどよぉ……お前は何で俺の目的も、危険思想も承知してなお、俺の仲間に入ったんだ? 大半……つうか、九割のパトロン様は、金持ち特有の暇潰しと遊び半分、駄賃感覚で資金提供してくれるっつうのに、少々お前は奇異だぜ? 異端とさえ云って良い」
「理屈は単純ですよ」左右はコップを片付けながら、見向きもせず答える。「やがてむかえるだろう異常物の暴走――制御不能に陥り、全世界が消滅してしまうよりも、異常物の全消失が原因で、宇宙が滅んだ方が幾分マシだからです。借金ではなく清算によって消えた方が、好ましいからですよ」
「同感だぜ」
真中は笑いながら、店を後にした。
財団の機動部隊[削除済]と、真中のチームが正面衝突する数日前、三川はとある施設のとある一角の一室にて待機していた。三川の目の前には横に細長い四角い形状をしたテーブルがでんと構えてある。病院の印象を与える真っ白く、そして特徴のない清潔さだけが取り柄の机上であった。無機質なテーブルとは相反して、室内の様相は絢爛である。天蓋に設けられたステントグラス、聖母を模した石像、ふかふかの絨毯……この建物は、かつて聖堂として存在していた場所であり、それら装飾品が設置し設計されているのは当たり前のことであろう。ただテーブルだけが似つかわしくないのであった。
「それで、わざわざ手紙を書いて私を呼び出した理由について、知りたいのだが」
三川はそう云い、真正面に居座っている真中に向けて話しかけた。真中は西洋の建物と内装とは正反対の和装の服装をしている。テーブルのそれとは違って和洋折衷の如くある種の趣があったが、真中の右隣に控えているものは、宗教的な意味合いも含め、その場において相応しくないものであった。
一言で佇んでいるものを記載するならば、真っ白な体毛を有した動物だ。犬とは決して形容できない、おすわりをしている状態であるにも関わらず小さな子供以上の大きさを持つ『狼』が、椅子の手摺に腕を休めた真中の腕の上に顎を休めさせている。
真っ白な狼を注視すれば分かることだが、時折、犬の鼻や耳がピクピクと動いていた。察するに、認識障害に類した異常性を持つ三川に対する防護策なのだろう。用心棒として人間を配置するより、真っ当な対策であるように思われた。
ちなみに、ドアの反対方向には着流しに小太刀、金打(しのぎ)を携えた総髪の男性が胡座をかいた姿勢で待機していた。用心棒と云う奴であろう。
三川は……警戒……通常時ならば、独断行動を好む真中にしては珍しい――それこそ初めてなのではないかと思えるほど、厳重にして神経質な警備体制に物珍しさを覚えた。真中の態度について三川は、「余裕がないのか?」と疑惑を抱きながら、目の前の彼が直筆で書いて寄越した手紙を懐から取り出した。
手紙の蓋部に蝋燭の一滴と刻印の成された手紙を取り出したのだが、その些細な動きに対して、狼はジロリと視線を向ける。首を向けない眼球だけの動きであるが、鼻に皺を寄せ、牙を剥き出しにする寸前の態度だ。下手な動きをすれば、噛み付かれる――否、咽喉笛に喰いつかれるかもしれなかった。
真中が嗜めるように狼の後頭部を撫でながら、「用も何もその手紙に書いた通りだぜ」と静かに答えた。三川はテーブルの上に叩き付けるように手紙を放り出した後、足を組む。にわかに首を傾げながら、手紙に記載されていた内容を反芻し、真相について問い質した。
「紙面には、力を貸してくれと――財団との衝突に備えて武力の貸し出しに関して記載されていた。しかし私が知りたいのは、そういった前提条件ではなく内部事情に関する情報だ。お前の境遇、そして状況について認知しておきたい。漁夫の利……とまではいかないが、真中と財団が衝突した混乱に乗じて、こちらも動くことができる。お前の協力要請は渡りに船ではあるが、だからといって容易に力を貸すことができない。泥船には乗れんのだよ」
生憎私はお前ほどギャンブルをしないのでなと、三川は言葉を付け加えた。
「底意地の悪い野郎だな。本当はてめえ、こっちの状況についてある程度知っているんだろう?」
不機嫌そうに真中は「ハン」と鼻を鳴らす。真中が手遊びするように、硬質さを有した狼の体毛をクシャクシャと撫でたとき、部屋の入り口のドアが開いた。扉付近には真中の秘書である、左右(あてら)が直立している。秘書は静かな動作と挙動を持って二人側へ近づき、三川へ対して会釈するように頭を下げた。
「お飲み物はコーヒー、紅茶、日本茶等ございますが、いかがいたしましょう」
「……何でも構わん」
「俺はコーヒーが飲みたい。種類を問わないなら、三川にもおんなじ物を出してやれ。あ……そうそう……」真中は秘書をチョイチョイと手招きして、屈むよう指示する。真中は口に手を当てて、内緒話をするように左右に云った。「なんかムカつくから、三川のコーヒーには鼻クソでも入れておけ」
「畏まりました」
「畏まりましたじゃねえんだよてめえら。聞こえているからな?」
三川は俄かに怒気を含ませた抵抗の声を出す。秘書が離れ退出する中、真中はすっとぼけた態度で肩を竦めた。真中側のチームの事態は切迫し困憊しているにも関わらず、相変わらずの態度を見せている。昔変わらずと云う奴だ。ともすれば、余裕がないのを悟らせないためのポーズであると推測できるが、嫌がらせをしているだけに違いないと三川は判を下した。
「ところで……その狼、はじめて見るな。よく懐いているじゃないか。相変わらず、犬の扱いだけは巧い」
三川の言葉は皮肉……と云うよりも探りを入れた返答であったが、真中は問いかけを一蹴するかの如く「可愛いだろう? 赤ちゃんの頃から面倒を見ているんだぜ」と――誤謬極まりないが――愛犬家のような返答を出すのみである。
どうもはぐらかされた感じがあり、ただ単純に躾の成された猛獣なのか、ある種の異常性を有した動物なのか判然としない。どうやら真中はその“大犬”に関して、あまり情報を漏らしたくないようだ。
三川は真中にバレないように異常性を発揮し、目を険しくすがめさせ狼の観察を行っていたが、その観察途中ガチャリと扉が開く音が響き、監視を中断させた。入り口近辺にはコーヒーの用意を済ませた秘書が立っており、非常に良い香りを漂わせるコーヒーを2カップ分持ってきた。ひとつを三川に、もう残りのひとつを真中の目の前に置いた後、洒落た陶器の砂糖壷を置いて、話し合いの邪魔にならない内に退散する。
三川は……少し前に行われたやり取り……黒い液体のいずこかに不純物が混じっていないか、疑惑の視線を向けた。茶番を抜きにしても、真中は毒物のスペシャリストである。とてもではないが、コーヒーを飲む気にはなれなかった。
「さて。くだらねーことをくちゃべってないで、そろそろ本題に入ろうか。三川……前置きしておくが、俺は交渉や商談の際、絶対に嘘をつかないことを信条にしている。病病連携……ってわけじゃないが、こういったことは一方的に搾取し恩恵を得るようなものじゃねえしな。それに、騙し化かし合いで状況が錯綜するのは好ましくねえ。シンプルにいきてえわけだが……」
そこで真中は不意に言葉を止めて、ふうと溜息を出す。表情は如何にも遣る瀬無く、虚実を交えないことをポリシーにしていても、誤魔化しておきたい心境であることが易々と察せられた。
「俺のチームの状態はな、ハッキリ云って芳しくない。孤軍奮闘つうより、背水の陣だ。近しい内に勃発するであろう財団との衝突……最低限の抵抗しか出来ないだろう。金も人も策もねえ。三川……お前、昔三千機関の機長だったんだろう? その武力を、一時的に貸してもらえないだろうか? 勿論、礼の方は弾むぜ。今すぐ用意できるってわけじゃねえが、金やオブジェクトを回してやっても良い」
「後払いか先払いか否かについては構わんがね……しかし、真中、お前の仲間の具体的な数……構成員の現在数について述べろ。何も聞かずに力を貸せるもんじゃない」
「ざっと三十人ってところだ。プラスアルファの“アレ”を合わせると、六十近くになるかな?」
「プラスアルファ?」
三川が疑問を呈した声を出すと、真中は狼の頭を撫でた。彼はその仕草だけで、得心いったように「あぁ」と呟く。
「人間の数が少ないな」
「元から少ない。つうか元々、チームの構成人数は百もいねえんだよ。それに俺は扇動することは得意だが、指南指揮に関しちゃ苦手の分類だ。これぐらいの数、最低限にして最大数である百人程度が丁度良いのさ」
その言葉は、負け惜しみからくる虚栄や強がりではない。実際真中は、事実のみを独白する態度であり、そこには黒い淀みや白い濁りは皆無である。
「財団の性格というべきか、節約を求める性分ゆえ少数人数で立ち振る舞うことが出来たんだろうが、お前はもう少し……管理外になるにしても仲間を増やしておくべきだったな。何せ少人数は、圧倒的な数の暴力には弱いのだから」
三川は含みをたっぷり含めて揶揄するように云う。顔には残忍な笑みを浮かべてあった。
真中は彼について何か云いたいことがありそうな沈黙を続けていたが、意図的に嘲弄的な態度を無視して話を続ける。所持しているアイテム、構成員の情報、飼育動物の数(爆弾を括りつけられた犬)、パトロン先、所持金などについて真中が洗い浚い腹の中をぶちまけたところで、三川は嘆息するように浅く息を吐いた。
「結論から云おう。私はお前に手を貸せない。いや、貸せないのではなく、貸さないと訂正した方が正確だろう。私はお前の協力するに達する条件、約束、メリット等が悉く皆無だ。お前の状況は泥舟ではなく、辛うじて残った船の骨組み……流木に縋って、荒波をもがいているような……船にすら乗っていない状態だ。良くて笹の葉だろうよ。小さな波でも溜まりなく転覆し、沈没することだろう」
三川は云う。
「それに異常物のアイテムや金についても、お前が財団に潰された後、墓泥棒の如く勝手に押収すれば良いだけの話だ。私の部下と武力をお前に貸すのは、余計な徒労と無駄な浪費でしかない。だが――それ以前に……私の心情的な問題として、潰れ掛けのお前なんぞに力添えなどしたくないのだよ」
そこで――不意に三川は忍び笑いを洩らした。敵意と悪意が渾然一体とした笑い声である。姿態の豹変……もしくは、素性を暴露した三川に応じて、今まで大人しく頭を撫でられていた狼が首を正面に向け、犬歯を剥き出しにして唸り出した。そこにいるのが狼ではなく犬であれば、捲くし立てる様に吼えていたことだろう。小太刀を持った着流しの男は姿勢こそ変わらないものの、鞘に手を触れ、いつでも切り込みが出来るよう身構えられていた。
「心情的な問題? おいおいおい、ふざけんなよ。お前の怨敵である葦船が協力要請を願っているわけでもねえのに、逆恨みのような小言を云われてもなぁ……」
真中は狼が飛び掛るのを制止するように、背部をぽんぽんと軽く叩いた。しかし真中の気が変わり、攻撃の合図を貰えば賺さず食い掛かりに挑むことだろう。三川は自身の置かれた状況を理解しているにも関わらず、相手を挑発し、真中を拒絶した物云いを止めることはなかった。
「真中……確かに貴様はあの守宮とは違って、祖国を陥れるような真似はしていない。敵対行動はおろか、離反や違反さえもしていない。だがお前は、徹底的かつ徹頭徹尾に何もしなかった。その当時のお前の怠慢さは、お荷物というより足枷だ。鎖というより、重石(おもし)だった」
真中は戦時中、支給された軍服をただの一度も袖を通さず――
戦場に赴いた兵士の外科および精神面の治療をすることもなく――
上層部に命じられ、会議に出席してものらりくらりとやり過ごし――
終戦後、一切流れに逆らうことなく財団へと就任した。
「葦船が売国奴ならば、お前は非国民だ。誰が――エェ――そんな奴に力を貸すものか」
「帝國の亡霊め」
真中は失笑しながら、三川を批評した。しかし「亡霊」といった表現は比喩や悪評ではなく、挨拶代わりの詰りとして云われ慣れているのか、無反応に程近い反応を示すのみである。
「私が亡霊ならば、お前は生霊だ。轆轤首や飛頭蛮のように魂を……いいや、危険に首を突っ込んでいる。犬は首を切り落としても死なないと聞くからな、憑物筋のお前には適切過ぎる表現だろう」
「心理遺伝による転生……輪廻転生している俺に離魂病とは。随分洒落が効いてるぜ」
真中の軽口に対し、三川は話を打ち切るように立ち上がって椅子に腰掛け座ったままの真中を見下ろした。それは俯瞰する目線ではなく、道端に這う虫や野原をうろつく汚い野良犬を見る硝子玉のような視線である。
見下ろすではなく見下す視線に晒された真中は、些細な嫌がらせと悪戯心として掌の内側にある狼を嗾けようか迷った。考えるように沈黙している内に、三川はある疑問を尋ねた。
「お前は交渉や商談の際、嘘をつかないと云っていたが、多少誇張虚栄でもすれば、破滅的な窮地に陥ることもなかっただろう。そして、私の協力を得ることも簡単だったろうに、どうしてお前は誤魔化しや虚飾を飾らない? 私から見れば……いいや、私でなくとも誰から見ても不可思議を超えた無量大数の疑問だ。何故、お前は偽らない? 嘘や誤魔化しを嫌うなどといった善良で脅迫じみた思考など、そもそも持っていないだろう? お前の潔白を装った態度は白々しいし、いっそ不気味だ」
気持ち悪いんだよと、三川は掃き捨てる。真中は明らかな悪口を云われているにも関わらず、怒るどころか愉快そうに「クハハ」と楽しんだ。
「俺が嘘をつかない理由か? まぁぶっちゃけ信用第一ってぇのがあるが、嘘を暴かれる事がなく相手側の虚実を見破るのに特化できること……そして、交渉先もそうそう馬鹿じゃねえからな、俺が何時嘘をつくのか牽制できるってのがあるんだ」
真中は云う。
「記憶処理の件もそうだが、『嘘』は俺にとって切り札なんだ。記憶処理術を持っているのにも関わらず、それを使用しない……嘘を一切つかず、正直にのべつ幕無しに語る。正直者が嘘をついた時の威力は抜群で、そして何より予測のつけられないものだぜ? 最終奥義や伝家の宝刀、必殺技ってえのはここぞという時にしか使用しちゃいけねえ。“切り札は先に見せるな、見せるなら更に奥の手を持て”を地でいっているだけだ。というよりも、真正面から不意打ちかます……或いは、正直さを持って全力で騙すのが得意なんだよ、俺は」
「まるで、狼が来たと吹聴して回る羊飼い――という比喩表現では、あまりにも羊頭狗肉で不適切だな。そうだな……犯行予告を宣誓せずにはいられない二十面相みたい、とでも揶揄しておこう。では質問なのだが、お前はどのタイミングで、嘘や記憶処理の術を使うのだ? 伝家の宝刀はあまり温存し過ぎると、宝の持ち腐れだぞ。腐るだけならまだ良いが、錆びて鈍らへと成り下がれば、切り札としての存在意義が消失する」
「俺が嘘をつく時? はん、云わずと知れてら。すべての敗北パターンを把握し勝ちに行く時、だ」
真中の返答を受けた三川は「本気で挑んでも、お前では財団に一生勝てないぞ」と親切心を持って、ぼそりと呟いた。真中はわざわざ指摘され、云われるまでもなく承知しているのだろう。三川が亡霊と云われた時のように、黙認するように目を閉ざした。
「死ね。死ね、死ね。死ねば良いのに」
私の隣に座って、運転席でハンドルを握りクルマの操作をしていた男は、突如ポツリと事も無げにそう云った。まるで独り言のような発言の仕方と、そして突拍子もない話題の振り方ゆえ返答に窮していると、再度男はさなぎだに「死ねば良いのにな」と楽しそうに口の両端を上げながら、平然と劈頭第一に発せられた言葉を繰り返す。
世界や世論や世間、近隣の隣人や周囲の人間を恨んでいるような言葉とは異なった表情に私は困惑と、そして――そう……これは不安だ――を覚えた。具体的にその不安要素を口にするならば、次にこの男が何を発し、その言葉が、呪縛や呪詛の如き言霊が自身にどのような影響と精神的余波を与えるのか危惧したのである。
私が隣席の人間が運転する六代目のクアトロポルテに乗車する以前、財団と敵対行動をしているこの男――異常物オブジェクトの無力化を積極的に行っている真中央は、フィールドワーク中の私に接触を謀って来た。
奴――真中が、財団職員の引き抜きを行っていることは前々から認知していたが、正直なところ、彼の姿を目撃し、内心とても驚いた。噂の人物が自身の目の前に出現したことに驚いたのではない。根拠となるべき記憶こそないが、心理的な憶測として、本来ならば財団を恨む立場にあるのではないかと、その猜疑心が強くなり初めた頃合を見計らったかの如く、財団を裏切る離反の勧誘の言葉を投げかけて来たそのタイミングに、驚いたのである。
真中の姿を見て、若干硬直している私を他所に真中は財団の離反を催促して来たのだが、それはとても魅力的なものだったように思える。言葉が、ではない。財団を裏切るに足る条件を提供するそれが、非常に魅力的だったのだ。
『エージェント・ヤマトモ……お前、過去の記憶を思い出したくはないか?』
後頭部を刺激すれば数時間前の記憶がポロリと落ち抜けていく事象と、家族をはじめとした財団に就職する以前の過去、そして義肢が四つも取り付けられた身体面の謎が上層部に握られ隠匿されている私にとって、過去の記憶を習得すると云うことはこれとない提案であろう。
いや……むしろ、好条件を満たしたというよりも、いっそ弱味に付け込んでいるかのようなジャストとベストを満たすそれに、私は臆した。今思えば、戸惑い面喰らい、どこか正常な判断が出来ていなかったように思える。
立ち話も何だからと車内に案内され、勧誘の言葉を受ける中、真中は私の心情を認知していながらも無視し、積極的かつ熱意のこもった言葉を喋々喃々、熱意と真摯さが垣間見える態度で話し続けて来たのだが、最終的に私は彼の離反の言葉を承認しなかった。肯定首肯し、過去の記憶を取り戻すことに承諾の返事を出さなかったのである。
承認しなかった理由のひとつとして、私はこの男に対して咫尺千里の如く、妙な隔たりを覚えた。その隔たりは壁ではない。高みへと届いて乗り越えらえるような段差ではなく、どちらかと云えば穴であった。より詳細に云うならば、線引きの如く敷かれた溝と表現した方が正しいのだろう。
壁ではなく窪み。外壁ではなく汚泥。心情的な表現を用いるならば『落とし穴』と云う奴かもしれない……。
少々遠回しで回りくどい説明になったが、有り体てハッキリ明言するならば、こいつはヤバイと思った。そのヤバさは危機感ではなく、不安定さに対する磐石の無さだ。真中の活動内容を耳に聞く限りにおいて、奴は『敗北を前提に動いている』ような気配があったのである。敗戦を認めながらも実行するそれは、負け戦と云うよりも負けるが勝ちなどといった戦略的なものだったかもしれないが、私はそのようなやり方を実行する彼の方針に反発を抱いた。
結果的に、私は一蹴するが如く真中の勧誘をキッパリ断った。ハッキリ拒絶した返事を私が発してから、真中は「そうか」と云って数分間、双方が黙りこくった。
無言中私は、本来財団のエージェントとして真中を捕えるべく活動しなければならなかったが、『記憶を取り戻す手段を持つ』奴を、可能なことならば野放しにして――否、秘密裏にこちら側から別の条件を出し、過去の経歴の再習得をしたいと考えていた為、見逃すというわけではないが、保留と云う形で放任したのだ。
沈黙の最中、真中は勧誘を拒否後、私が保留することを計算考慮し、あの条件を出したのだろうと自覚しはじめた頃、沈黙を打ち破るように突如「死ね」と云い出した。私は、死の願望を向ける対象として見られているのだろうと思いながら、「死ねば良いのにとは、何のことを指しているだ?」と訊ね返した。
「無理矢理、生き永らえるくらいなら死んでしまえば良いのになと、俺は云ってるんだよ」
要領を得ない返答であったと思う。私はその返事に対して、先ほどの沈黙とは異なった無言体制を維持する。物云わぬ詳細の問い掛けは効果があったようで、真中は赤信号前ゆえ速度を緩めながら、詳細を語った。
「財団職員として働いているてめえなら、無論頭の中にあるだろうが、この世界を含めたありとあらゆる並行世界もろとも、死んでしまえば良いのになと俺は云っているんだよ。財団側のお前としちゃ許容できねえ話かもしれねえが、この世界は実に凄惨だ。酷いしムゴいし黒い。とっとと、早急になくなっちまえばいいのによ。どうして財団が世界を保ち続けるのかさっぱり疑問だぜ。なにゆえ、超常的な異常物をそれこそ財産の如く保管し続けているのか、まったく分からねえ」
「無くなって然るべき物があることは否定できないが、オブジェクトを破壊すればその効果が恒久的に――」
私が云い出した中、真中は鼻を鳴らして小馬鹿にするように笑った。冷笑や嘲弄のようなものでこそないものの、どこか厭きれを有した嫌な笑い方である。
私はむっとしながら言葉を強引に切り上げ、正面を見る。車窓から見える風景は、今の時間帯は真夜中ということもあり景は暗く、道路の端々に人工的な灯りが点されている程度の光量が、ポツポツ点々とあった。月明かりがないことから、空模様は曇りであることが予想された。
「ぶっ壊したら、周囲にただならねえ影響が出るから現状維持するってか? おいおいおい、勘弁してくれよ。だからといって、全部が全部そうしなきゃならねえ理由ってもんはない。そうなるからといって、後生大事にし続ける根拠にゃならねえよ」
要するに――と真中は、バックミラーに一瞥を寄越した。背後にいる追っ手、もしくは自身が連れ率いる仲間の状態を確認しているのだろう。
「要するにさ――異常物を集め、解明し、しまい込む財団は、体の良い云いわけと都合の良い理由付けをして、自身の世界が保てる心地好い世界を創造し捏造するためだけに、働いているんじゃないかと、俺は思っているんだ」
悪意に満ちた云い方であるように思った。
財団の方針……特にProtect、保護的観点を、極端かつ対極の彼方にいる真中としては、当然の思想なのかもしれないと思うが、それにしても言葉の端々に悪質なものを感じるのは、決して気の所為ではないだろう。
「これはどこかで云ったことがあるように思えるが……財団は『組織の役割が維持でき、機能している世界を保つ』ために日進月歩しているんじゃねえのか。そのためならば、どのような横暴が許されると思っているんじゃないかと、考えている」
「横暴……」
「たとえばの話」真中は目を細めた。「財団にとって最も致命的な状態というのは、ひとつの並行世界がオブジェクトによって壊滅し崩壊することよりも、一般的な科学力が飛躍し、異常が異常ではなくなる現状……SCPオブジェクトの全てが科学のメスによって数値化し、時には映像化し、または分析化され、怪奇的な収集品がただの迷信に成り下がることの方が避けるべき議題であろうよ。総合的に財団はこれっぽち、ただの一度だって世界の滅亡を阻止しちゃいないんだ。財団という組織そのものが維持できる世界を模索しているだけに過ぎねえよ」
地球の崩壊や現実世界の瓦解は云わば、財団組織を設立するために必要な土台でしかないんだろうなと、真中は云った。
「これは終戦後の話になるんだがな、俺の生まれ故郷はどうでも良いから省くとしてよ……肉体労働ができなかった俺は、勉学の方に勤しんでいたわけだ。今でこそ医者――薬剤師兼脳科学者としてその技術や技能を会得したが、本来俺が学びたかった分野はそういったもんじゃなかった。科学の中の科学とでも称するべきか……時間の研究がしたかったんだぜ」
「時間の研究……」
「分野としちゃ、天文学というより現代宇宙論かな? そいつを学びたかった。俺の最終目標は地球の時間を宇宙の時間に適合することだ。何を云っているのかわからねえと思うから解釈するが、人間が地球内でカウントしている時間と、宇宙がビックバンにより誕生した時間というのは、致命的なズレがある。比較して大幅な間隔が生じていると云うわけだ」
真中は云う。
「ご存知の通り、宇宙は光速で自身の領域を拡大させている。宇宙の誕生と同時に、副次的に時間や空間が生まれたのであれば、宇宙の時間を解明することによって、タイムマシンをはじめとした時間操作や異空間の創造ができるのではないかと考察していたわけだ。より詳しく述べるならば、1~9が生まれたあとに、無の象徴たる0の数字が遅れながら使用され、数の領域が飛躍的に発展するように、さながら宇宙時間の解明は多大な影響を与えたかもしれねえ」
真中は笑う。
「なぁ、知っているか? 人間というのは時間に対して極端な話、足し算や引き算ぐらいしかできていないんだぜ? もしも、時間をカウントしタイミングを合わせるだけの単純計算から、複雑さを有した時間の算術が出来たらどうするよ? 爆発的に科学力が進化していたことだろうよ」
真中の最後の口振りは憂いとまではいかないが、どこか口惜しさを含んだものであった。
「時間操作、空間創造……俺が宇宙時間の研究を初めて、時間停止の理論を研究し出した時期のことだ。財団がそれはダメだと、科学力の過剰な発展は看過できないと主張し、無数の貴重なデータや、有数の稀有な書類が隠匿されちまった。隠すとは云っても、一般にその技術が流出していなければ良いように思えるが、財団のお偉いさんが最も危惧していたのは、オブジェクトの収容が簡単に実行可能な点を注目視していた。たとえポーズでも、世界最高峰の科学や頭脳が集積し、資材を投資することによって箱の中に留めている……財団内で努力さえすれば、安全に保護することが可能だというその均衡の維持したかったわけだな。何せ財団はひとつの組織で成り立っているわけではない。時には、世界首脳を筆頭に、あらゆる団体へ対するステマ的なアピールが必要なんだろうよ」
もしも俺が時間停止の術を見付け、冷凍保存するが如くオブジェクトの時間を止め箱にしまえば、全部とまではいかなくともほとんどの収容品がセーフクラスになっていたことだろうよ、と真中は云う。
「ベラベラ長いこと述べたが、我が身に体感した一例として、俺から云わせてもらえるならば、財団はエゴ丸出しだったぜ。当然、当時の俺は納得できなかったが……しかし、自分で云うのも何だが、時間や空間に対する領域の踏み込みは行き過ぎたものであると、どうにかこうにか自分の中でムリクリ納得させた。時間や空間を弄り回すなんざ、ロクなことが起きねえよな。イカロスのような禁断って奴だ」
だが――と、真中は言葉を区切る。
「時間のそれのように、たとえ将来的な危険性のないものであれ、財団は全オブジェクトがEX化する可能性のあると推測判断された技術や技能は、たとえどんな無害かつ最良の結果をもたらすものであっても、奴らはてめえ勝手な理由で隠す。俺が耳聞した中でも有数の技術が消去され、時にはロストテクノロジーとして都市伝説入りしたものだってあった。ところで――話題を戻すが、そんなことをしている奴らが世界を守っていると、果たして断言できると思うか?」
「だからといって、それが全てではないだろう」
私は答えた。真中に対する反対意見を覚えながら、続けて否定の言葉を出すのだ。
「財団が世界に必要とされるため、有益な技術を隠蔽する。それはたしかに認められないものかもしれないが、財団が存続し解体される負の芽を摘んでいるものならば仕方ないだろうよ。もしもオブジェクトが異常物でなくなり、ただの迷信や逸話へと降格零落し、財団の規模が縮小小規模化したあとに、高レベルに達した一般的な科学でも解明対応できないようなSCPが出現したら、どうする? 確保収容保護の経験の浅い烏合の衆が集まって返り討ちにされ手を拱く惨憺たる終末に至るかもしれないとなれば、どうするのだ? 財団は何も別に自身の利益を算出するために動いちゃいない。世界を守るために、みんなが集い、考え、究明しているんだ――」
「――お前の方こそ、エゴで主観的だ」
自己中心的とさえ云って良いだろう。
私は言葉尻をそう締めくくった。
その拒絶の言葉は、財団への離反の誘いを断るよりも強い意思と強固な感情によって出されたものである。実際私の感情の中には、怒りではなく憤りの心持ちがふつふつと沸いて来た。
「財団が世界をコントロールしているからといって、あまねく無数の並行世界が死んでしまえなどと、云って良いものじゃない。たとえ財団が自らオブジェクトを作り、自演的に収容していたとしても、そのやり方が手段であり続ける限り、目的と化さない以上、お前のことは否定する」
「…………ふん」
ややあって、真中は鼻で笑った。以前も私に対し同じように鼻を鳴らした動作と同じものであったが、以前の小馬鹿にするものと比較して、威圧的な威力は弱々しいものへとなっていた。彼は決してヤマトモの言葉に圧されたわけではないが、相手の意を尊重したような態度へと変更を改めたように思われる。真中はヤマトモの嘘偽り虚栄なく、本心と本気をもって主張するその言葉に、好意的な感情を抱いたのかもしれない。
「いやさか、確固たる意思で否定するじゃねえか。いいぜ、好きだぜ俺ァそういうの。だがしかしよ、俺が死ねという理由について財団のそういった側面だけじゃねえんだよ。たとえ確保収容保護する組織がなくとも、滅びるときに亡びろと強固たる意思で主張するがね」
真中は右側にハンドルを切る。見れば、車窓から見えるその風景は一度見たものにへと変貌していた。おそらく、真中は私をクルマに乗せて一周グルリと接触を図った地点へと戻って来ているのではないかと思われた。
「連鎖というよりも、収斂的作用と云うべきか……異常物オブジェクトが存在しない世界があれども結局のところそれは未だ超常的な存在の侵略がないだけと解釈することが可能だし、ほとんど世界線においてオブジェクトは誕生している。存在が許されている――さすがに話が長くなったゆえ端的に述べるが、SCPオブジェクトは人間を滅ぼすために存在することが許された強制的処置なんじゃねえのかな?」
「強制的な死――」
「約四十数億年前から誕生した地球にとって、人類というものは自身の存在意義を保つほど重要視していないもの……もっと云えば、むしろ害悪と称して間違いないものではないかと云うことだ。オゾン層の破壊、森林伐採、環境汚染……狭義で云うならばホモサピエンス同士の戦争か……とにかく、人類が自身にとって心地好い環境を維持し続けている以上、進化の発展を妨げるかの如く覇者のようにふんぞり返っている異常、なくさなければならない要素ではないかな。てめえの畑に雑草が生えていたら、除草剤を撒いて除去するだろう。そんなもんなんだ」
人類が雑草。
そして除草剤たる――SCPオブジェクト。
私が何らかの返答をしようとしたところで、クルマは急停止をした。
「火星……水の流れの痕跡があり、生命が存在した可能性のある惑星。多かれ少なかれその星は死の星と揶揄されているが、てめえが――人類が移住できなくなった程度の問題で終わったものだと定義づけている。だがしかし、その考え方こそ傲慢で厚顔で何より主観的だ。ご母堂たる地球が人間の存在を必要していないのであれば、大人しく素直にそこで滅びているのが妥当なんだよ。恐竜が滅びたように死ねと……人間なんか死んで終えと、俺は云ってんだ」
真中はそこで、急に私を小突いた。
「そら降りろ。いつまで乗っているつもりだ、てめえは」
見れば、真中にクルマに乗せられる以前の、元いた場所へと戻っていたことに気が付く。私は何も答えられない中、クルマのドアを開き、地に降り立った。
「じゃあな、エージェント・ヤマトモ。次の再会を楽しみに待っているぜ。記憶を取り戻したいのであれば……俺の思想に多少の共感があれば、仲間に加わってもらいてえもんだ。一年に一回ぐらいの割合で会いに来るからよ、承諾の返事があれば、敵対行動を一切取らず、返答を出してくれ」
私が降り立った側のドアが、真中の言葉と終わりと同時に閉ざされる。背後を振り向く僅かな時間帯でさえ、余韻を許さぬように白のクアトロポルテが走り去って行った。
走行音を発する夜道に消える走行音を聞く私は――どこか心中に空虚な気持ちを抱きながらも、真中に対する強い気持ちを抱いていた。
人間が自身の存在意義を保つため、行動することの何がいけないのか。
もしも次に遭遇したとき、ハッキリとした返事を聞かすべく、義肢の五指を握り拳の形へと強く強く変形させた。
……奴の口車に乗ってはいけないと思いつつ……。
真中央、19██年生まれ。徳島県のとある田舎村にて、誕生する。真中央は幼少期から青年期までの歳月、肉体が健康且つ健全な状態に回復するまでの間、自室で籠りきりの生活を強いられていた。楽しみと云えば、時折見舞いに来る姉とその女友達との談笑……そして手慰めに与えられる、種類やジャンルを問わないあらゆる本を読書することが日課となっていた。
肉体や健康状態が多少、通常普通人に近しい――けれども、虚弱であることは否定できないながらも、外で遊べるようになった彼は、忌まわしい犬神筋の家系であるにも拘わらず、広い交際関係と幅広い人脈を得るようになった。このコミュニケーションの高さは、自身の姉・真中真央(まなかまお)から引き継いだ……もしくは、処世術として習得したものであると推測されている。
真中の交友関係は生まれ故郷の村人だけに留まらず、蒐集院の関係者にまでネットワークを構築・増殖していた。央独自の口先八寸を持っていたが、真中家は単なる劇薬や猛毒を取り扱う一介の医者であることから、蒐集院内の重要人等には歯牙にもかけられることなく、眼中に入ることさえ無かったが、蒐集院の下っ端からそれなりの人望はあったらしい。
尤も『人望』とはいっても、真中に対する扱いはコバンザメや太鼓持ちに近いところがあり、お役人や上人と下っ端の雑談の中で、丁度良い八つ当たり兼ストレス会処法のスケープゴートとして、それなりに重宝していただけである。真中央が左記の扱いをその当時、察知し認知していたか不明だが、彼にとって誣い語られることや悪口を云われることは些細な問題でしかなく、彼の目的は別のところにあった。
財団の存在である。
蒐集院の内部に潜り込んで、彼がどれほど財団の存在を知り得たのか不明だが、第二次世界大戦の終焉の発端となった――長崎と広島に投下された原爆により、玉音が放送されるまでの間、真中央には幾つかの事件が発生し、時には自ら勃発させていた。
第一の事件は、彼の友人の死である。
友人の死は実に平凡なもので、その当時流行していた病に不運ながらにも罹り、一時期回復の見込みはあったものの、病状が悪化して死去した。真中央は病床に伏す友人に同情心と同調を覚えていたのか、最新の医学書を取り寄せ病気を治そうと、薬剤師として働いていたが、竟には友人を救えることはできなかった。
病死した友人の葬儀の中、友には奥方がいたのだが、夫の遺影を傍らに抱きながら喪に服した悲愴の婀娜姿に慰めの言葉をかけていく内に、この女性を自分の細君にしてやろうと決意を硬め、数年の交際の後、婚約。
彼女との間に子供が数人生誕したが、どの嬰児も早産や死産、奇形ばかりが生まれ、子供を一人も得ることはできなかった。繰り返され度重なる腹の子の死に、彼女の心は壊れたのか、それとも仏の極致に至った狂気だったのか、赤ん坊の死骸を純白のお包に包み、抱き抱えながら「あの人(真中の友人)の呪いですね」と和やかに笑いながら、完全に腐敗するまで手元から一切離さない様子は、真中にとって母親……『一人の妻』のように見えたらしい。
四人目の子供を授かって臨月の間際、彼女は生まれてくる子供がどういった顛末を迎えるのか十分すぎるほどに知っていたのか、それを回避するためだろう。大きく膨らんだ腹の子供諸共、自死を図る。
自殺について幾分の否定感を持っていた真中ではあったが、特別彼女を責めるような心境を一切抱くことなく自害を首肯的に肯定し、20██年現在、各地各所に様々な愛人を作れども、妻と認める女は真中の中で彼女だけに限られている。その理由は深い愛情からくるものではなく、腐っていく嬰児を抱きながら微笑する姿に『ときめいた』からだと証言していた。
友人と妻の死後から間もなく、真中の父親が事故死することになる。犬神筋の家系として、犬を穴の中に埋め、目の前に食料を置き、餓死寸前の間際に首を跳ね飛ばすという方法を用いた呪物の創造を、真中の父親が執り行っていたのだが、刀で斬首したタイリクオオカミの首が、火事場のクソ力か――それとも憤怒を糧にした最後の力なのか、父親の喉笛に食らい付いた。
真中は事件の渦中と、その様子をまざまざと見ながら、父親が死に絶える様子を誰の助けを呼ぶことなく絶命するまで見殺しにする。
父親が犬神によって殺されてから時待たずして、犬の首を撥ねた日本刀を手に、母親の首を突如背後から切り落とす。両親の首を入手した彼は、家の玄関先に打ち首獄門のように頭部を晒した。阿吽の狛犬のように右と左一つずつの灯篭の中に入れらえた首は、怨嗟の表情を浮かべており、早朝、真中家に新聞配達をしに来た民間人によって、警察に通報される。
後に語られた真中の動機は「これほどまでに残虐な行為をしていれば、末代まで祟られるでしょう。末代ということは、要するに子孫繁栄を意味しているのだ。これから、長生きしなくてはいけない」と、殺害理由を語った。
真中の動機に警察は理解不能の難色を――蒐集院からの対応は今後勃発される戦争の協力者として彼の力を必要としていたので、島流しという形で処罰を受け、両親殺しの晒し首の件は幕を閉じた。
徳島県から疎開した孤島に流された真中とその姉は、秘密裏に蒐集院から人体実験用の人間を貰いながら、記憶処理に関する研究を開始する。その当時、蒐集院が持つ記憶処理の技術は実に原始的なもので、すべての記憶を忘却させるという、効率の悪いものだった。孤島に流されてから、一年前の記憶を消したいのであれば一年分の記憶を消すという改良まで真中は漕ぎつけることが出来たものの、理想的といえる――記憶の改竄とでも称すべきだろうか……一部分の記憶の操作まで、その技術を発展させることはできなかった。
記憶処理の研究の中、真中は第二次世界大戦前に世間を賑わせた事件、通称『阿部定事件』の核心にして張本人である阿部定氏に、婚約心願の意を込めた手紙を送付している。しかし実際のところ婚約届はただのカモフラージュでしかなく、実際に送り届けられた人物は財団の関係者であった。後に手紙をもらい受けた人物は、真中央の姉と結婚することとなる。彼は恐らく、日本の敗戦と蒐集院の敗北を予期して、保険として姉を匿って貰おうとした算段だったのだろう。因みに姉の孫子は、エージェント・ヨコシマと名乗る人物が直系となっている。
手紙を貰った財団の関係者に姉の身柄を任せた後、真中は自身の住んでいた島を意図的に燃やして、一時的に姿をくらませる。三か月後の間もなくして、未来予知ができるという少女と一緒に三川や日本軍から逃亡してたが、遂には捕縛されることになる。
ようやく……改めて、日本軍で軍医として働く運びとなった真中ではあるが、彼はその軍事生活中、一切合切何もしなかった。いや……何もできなかったといった方がより適切で、正確であろう。何故なら彼は、蒐集院や負号部隊をはじめとした悪鬼羅刹蠢く有象無象から、徹底的かつ絶対的に搾り滓、残滓成り果て、金・道具・人脈・土地・手段といったものが搾取されたからである。
この一方的な採取にはとある理由があり、真中は日本軍の中で上の立場にのぼろうと暗躍していたものの、嘘偽り交じりの口先八寸が災いして、反感を買った。戦争があとひと月でも長引けば、実験用の道具か、もしくは暗殺されていた可能性は濃厚だ。
幸いにも命からがら一命を取り留めた真中は、終戦直後の日本軍の混乱中、どさくさにまぎれて逃亡。このまま誰にも姿を見られることなく、フェードアウトしたものと蒐集院関係者から思われたが、財団へ保護してもらっていた姉の助力により、財団職員として復帰することになる。
蒐集院から財団へ働くようになった真中は、外宇宙に関する調査を申請したものの却下され、医者として……記憶処理の管理と発明としてその職務に携わることになる。記憶処理のほかに、心理遺伝の作用を利用した転生法を発明し、日本支部理事会にその技術と情報を提供する最中、彼は突如自死し、財団から逃亡を図るだけでなく、敵対的な活動を行うようになった。
彼曰くその動機は「魔が差した」ようなものであるらしい。
真中央が財団から消失後、彼は自分の子供の体と意識を乗っ取り、渡米する。日本から外国へ渡った理由は、財産や人脈、道具のない彼にとってあらゆるものを補充することが目的であった。
その旅の中で真中央は、とある奇妙な人物と出会うことになる。真中はその人物の助手として働いていたが、彼にその相手の名前を訊くとこう答える。
「シャーロック・ホームズ」
……これは比喩、もしくは暗喩なのか分からない。
ただ『その人物が正真正銘の名探偵』であったことは、疑いようのない事実である。
真中と名探偵との旅は、難事件を解決する平凡なミステリー小説のような冒険譚だと、一言で纏めることが出来る。
『ただし……本来、Safe・Euclid・keterといった区分する必要のあるアーティファクト、本来ならばSCPオブジェクトとして登録されるべきものが、悉くNeutralized化している異常性』を除けばの話であるが。
これは推論になるが、名探偵はオカルトや超常的なものを否定する存在であり、財団にとって、ある種の天敵とさえ云える特性を持った存在だ。
すべての事件、怪事件、迷宮入りなどが微量と云えども異常性を持っていたとしても、犯人という黒幕、人為的な作用であると否定し、理屈を論い、証明終了(QED)させる……その名探偵の元で働いていた真中が、明智小五郎の右腕たる助手の小林少年のように全く影響を受けなかったとは断言し辛い。
真中が全ての平行世界、全宇宙が滅んだとしてもSCPオブジェクトを例外なく無力化させる動機というものは名探偵の他にあるのだが、ある種の盲目的な熱情を持っていたことだろう。
……さて、その名探偵――名前を明かすなら、アルベルトと真中の旅は突如終わりを告げたらしい。
その事の発端は、晩餐を終え酒席で語り合っていた時の事であった。
「名探偵は――時にはその優秀な頭脳がゆえに国に保護されているものもあるという。それほど膨大な明瞭さを持ちながら、どうして名探偵という輩は現在進行形、過去形のいずれにも関わらず事件に巻き込まれると、途端に頭の良さが下がるのはどうしてなんだ?」
「それは、私に対する侮辱かね?」
「ちげえよ。ただ回りくどいというか、他にやりようがあるのに犯人の目的が達成するま、情報収集しかできないことに疑問を持っているんだ。間違った犯人を断定するわけにはいかない……以前、お前はそう言っていたが、それはただの詭弁でしかないんじゃないのか?」
「我々は、ストーリーが進行する上ではただの狂言回しになり下がるしかないからさ」
そこでアルベルトは、トリックを見破られた犯人のように笑った。大いに朗らかに笑い、「そうだとも。我々は未だストーリーの中で情報を開示させるだけの、矮小な存在なのだ」と云う。
「思うに、私が解決している事件は物語のサイドストーリーだ。取るに足らない流し読みで十分な文字の羅列でしかない。名探偵は英雄だの、時には神だの賛美されることがあるが、これほど意味の取り間違えた称賛はあるだろうか。いやさ、ないさね」
そこでアルベルトは立ち上がり、「失せたまえよ」と穏和な口調で真中に告げる。
「好い加減――君は君の物語を進めるために、祖国に戻りたまえ。実のところ、私はもう長くない。私のそばに存在し続けることは、足踏みして立ち止まっているだけしかないのだから」
「長くないって……まだまだ若く健康だろうがよ」
「そうとも。肉体は健全健康そのものだ。だけど――私はもうこれ以上、物語を進めることが出来ない。私は、私に与えられたストーリーをすべて攻略してしまっているんだ。ここは終焉だよ。最果て――とまではいかないが、行き詰った行き止まりだ。物事は進展しない」
「……あんたがそこまで云うなら、早朝発つ。俺は俺の物語を終わらせてくれる狂言回したる名探偵でも探してみるぜ」
「健闘を祈る、ご武運を」
「おう。じゃあな」
数年共にしていた間柄にしては、随分そっけない挨拶だったと思う。何とも不愛想であまりにも無関心な言葉の応酬であった。現にそっけないのは言葉だけでなく感情の方もその通りで、双方が双方、互いが互いに路傍の人を見るような無関心さを抱いていた。
それから真中はアルベルトに闡明した言葉の通り、早朝出立し、祖国へ戻った。久しぶりの日本は欧州にいた彼にとって、非常に懐かしいものであり、余計な回り道と寄り道をしながら、遂に――真中は狂言回しの存在を見つけるこちが出来た。
三善悪様である。
真中央の率いる小規模団体『野晒し』が屯する本拠地に、上層部の指令を受けた三名のエージェント数名が乗り込んだ。彼らが襲撃した建物は、オフィスビル街から少し離れた場所にある、どこにでもありそうな雑貨ビルだ。
襲撃部隊に配属されたエージェント・育良は、夜陰の中でもアリアリと目立つ赤色のシャツの上から防弾チョッキをはじめとした基本的な装備を身に付け、コンバットマグナムを両手に握り締めながら、足音を立てず階段を駆け上がり、問題の部屋の前に到着した。建物には当然のことながら監視カメラが設置されていたが、突撃隊が突入前にすべての映像はダミーに差し替えられている。
ここまで無事乗り込んできた育良であったが、死の恐怖と闘争の緊張によりブルブルと震える肉体を、叱咤するように深く深く、繰り返し繰り返し深呼吸する。彼の視線の先――廊下の曲がり角先には、袴姿に短髪の男が太刀『片手持(かなう)ち』を腰に携え、胡坐をかいてドアの前を陣取っていた。いかにも武士然とした男は、真中の率いる『野晒し』の一員であることなぞ、わざわざ指摘されずとも理解できよう。
育良はごくりと生唾を飲み込みながら、通信先の司令官に突撃の意図を通達した後、自身の背後に控えた突撃員をチラリと見遣る。エージェント・ヤマトモと五月蠅は何時でも突撃可能かつ準備万端であることを表示するように、コクリと頷いた。
育良は指を三本立て「1・2・3」とカウントし、きっちり三秒後、大きく一歩を踏み出して狭い廊下を疾走した。階段から着流しの男までの距離は、5メートル弱。先手必勝と云わんばかりに、着流しの男へ向けて発砲しようと銃口を合わせた、その瞬間――
「危ない!」
育良の赤シャツの襟口を背後から、ぐいっと掴む腕。見れば、ヤマトモが機械仕掛けの腕を伸ばして、布地を強く掴んでいた。育良がヤマトモの声を聴覚を感受し、瞬きする間もない刹那後、ふわりとした浮遊感を覚える。俄かに目を見開きかけ、背後に連れ戻される最中、育良の眼前と視界の左右隅にある両側の壁にピシリと一閃が迸った。
「ぐぅ!」
育良はヤマトモの手によって後ろに戻され、強打するよう尻を打ち付けた。ジンジンと感じる痛みを強引に無視しながら、膝立ちになりながら姿勢を正し正面を見ると、袴と太刀を携えた男は胡坐を掻いたまま、ドアに背を付け座っていた。奴の姿勢はほとんど変わりないが、育良の突進前、組まれていた二本の腕は解かれ、右の手は刀の柄を掴んでいる。そして、廊下の両壁のそれぞれに鋭い切り瑕――刀傷が生じていた。
「い、居合い切り……?」
一番後ろで様子を観察していた五月蠅が、驚いたような声を上げる。ガスマスクの構造上、少々視界が遮られているが、五月蠅の目には育良が突っ込んで、袴の男の射程距離……斬撃の有効範囲内に足を踏み入れようとしたまさにその時、銀色の光がきらめきがしかと見えた。
その小さい閃光は、鞘から出された抜き身の日本刀が廊下の天井に設置された蛍光灯により輝いただけであるが、太刀を所持した男が刀を抜き身にしたその瞬間、凄まじい殺気を放っていた。両目を見開き、黒目が縮こまる修羅の如き気迫である。真中率いる『野晒し』と、財団組織は敵対関係であるが、見知らぬ相手に向けるには少々不可解さと不自然を覚えるほどの凄まじさがあった。
キン――と、刀を鞘に納めたことによる甲高い金打ちの音が鳴る。袴の男は残念そうな顔のまま、「しくじったか」と云いながら立ち上がり、ドアから背を離して、一歩二歩と近寄った。三人は刃物が届く範囲内まで接近して来ると思ったが、皆の想像に反して、袴の男は必要以上に近付くことはなかった。
「その矢印が中央に集まる白と黒のマーク」男は人差し指で、育良の防弾チョッキに設けられた例の円形の印を指差す。「お前ら、財団の人間か……」
「そ、そうだ……財団の人間だ。お前たちを制圧するため、来たんだよっ」
育良は見栄ではなく、虚栄といって差し支えない啖呵を発しながら云う。恐怖に震え威圧に臆された声調だったが、袴の男は一切笑うことなく、絶無の無表情でまじまじと財団のマークを凝視した。それは見詰める……もしくは観察するだとか、生易しく生温いものではない、親の仇を藪睨みするようなソレである。
「空地寄道(あけちよりみち)」
「……?」
「名前だよ。俺の名前」彼は云う。「この名前に聞き覚えはないか?」
「さ、さぁ……?」
「そうか」空地は最初から期待などしていなかったのか、落胆したような表情を表すことなく、次の質問を行う。「それじゃ、SCP-███-JPと、ソイツが収容される前に発生させた、通称[削除済]事故は知っているか?」
育良は空地の質問の意図と真意が分からぬまま、眉根を寄せた。銃口の標準を合わせたままの状態で、無言で接する。空地はその対応と態度で、SCP-███-JPに関する情報に関して無知であることを承知したのか、「それじゃぁ……」と柄を強く握り直しながら、怒気を孕んだ……しかし凍えるほど不気味で静かな声で、最後の質問をする。
「もしも――クソったれで不条理そのものたるオブジェクトとやらに、家族を皆殺しにされるだけでなく、財団特有の秘匿主義により、てめえ勝手な理由で偽の記憶を植えつけられ、事件の真相と真犯人を忘却したまま、自分は暢気にも天涯孤独の身の上になったと思い込み、兄妹がいなくなって清々したと考え、何も知らずのうのうと生きることを強制されていた人間の気持ちは、分かるか?」
「……お前、まさか……SCP-███-JPの被害者……」
五月蠅の呟きに育良は、ハッと息を呑んだ。ヤマトモは無言のまま直立し、般若のような恨みと怒りに支配された空地の顔を見る。表情にも出さず声にも心境を出していなかったが、ヤマトモは多少『彼の気持ちに理解を示したような』心理変化を発生させていた。
「あぁ、そうだ。てめえらがSCP-███-JPと呼称するソイツの被害者だよ。……ンなことよりも俺の質問に答えろよ。財団のカバーストーリーか何なのか分からんが、オブジェクトに関する知識を一切合切消すため事実を捻じ曲げ、兄や妹が最後に残した……やっと分かり合って……険悪の仲が改善できると思った矢先、兄妹が死ぬ前に示してくれた恭順の姿勢や、大切な思い出たる遺言すら……五体満足で俺が生きていたことに本心から安堵し、事切れた今際の際の記憶を、十把一絡げ纏めて忘却された人間のことを、どう思う!?」
「…………」
「手前勝手な理由と自分勝手な都合で、財団の偽善で記憶を消された後、死に際の温かい涙ながらの言葉を無くして、兄妹に関する記憶を勘違いが固定されたまま、数年心中で唾棄し、腹の中で笑い、嘲弄罵倒冷罵してきた人間のことをどう思う!? 自身の記憶に若干の違和を感じながらも誣い語り慙愧を知らず、厚顔に生きていた人間をどう思う!? 悪鬼羅刹の罵詈荘厳を並べて、家族に向けてあらゆる罵りやあらん限りの侮蔑を繰り返して来た人間をどう思う!? 真中に出会って本当の記憶を取り戻さなければ、そのままの状態だった俺をどう思う!? あいつらの思い出は俺のモンだ! 取り上げるな! みだりに他人の想いを踏み躙るな!」
「……」
「偽善面が気に食わねえ! 現状維持に温く甘えやがって! てめえらが諸悪の根源で邪悪の温床だ! 云い訳を良しとし、甘えに妥協しやがって! 自惚れるな! 財団が維持できるための現状を作り上げることにしか興味を示さない! その利己精神に疑問を持たない! 隠したり消したりする事を当然のように受け止める! 考えている! 他者に強いる! 犠牲が生じるのは仕方ないと納得できる云い訳を無理矢理作って微温湯に浸っているだけじゃねえか! 正義面すんじゃねえよ! 気持ち悪い!」
「…………」
「否定する! 俺は財団を徹頭徹尾、全身全霊を持って拒絶する! 俺の家族を隠した財団を、徹底的に拒否する! 否定と拒絶と拒否の牽強姿勢を微塵も揺ぎ無く緩めない! 憎んで恨んで呪うことを、狂って終わって呆け痴れるまで続けてやる!」
死んでしまえ。
と、空地が叫んだ瞬間、彼は廊下を跳躍していた。腰に携えた鉛色のきらめきが迸った刹那、育良はマグナムの弾丸を発射する。弾丸のひとつは刀身に切り捨てられ、二発目の鉛球は空地の頬を掠めた。育良が最後に放った三発目の弾丸は空振りに終わり、
「二ノ太刀――斬」
上半身を極限まで屈ませた空地は育良の傍まで近寄ったかと思うと、壁を蹴り三角飛びを発揮し、皆の背後に回った。三人の一番後ろにいるのは五月蠅であったが、空地は彼の背中を斬り付けようと上段の構えを取る。五月蠅は可能な限り俊敏な反射神経を見せ、よけようとしたが間に合いそうになかった。狙いを付け、研ぎ澄まされた空地の刀身が迫り、風切り音が発生する丁度その時――
「うぉっと!」
――ヤマトモの妨害が、その一太刀を防いだ。三本目の伸ばされた腕が、刀身を掴み取ったのである。
ヤマトモの四肢は全て義肢である。機械仕掛けの両腕両足は伸縮する以上に、通常の人間ではありえない稼動範囲を有しており、云うなれば蜘蛛の肉体に近しい。
ヤマトモが今回保有している義肢の数は合計で六本だ。余分な腕は洋服の裏に隠されており、彼の外見は少しずんぐりむっくりとした見た目をしているが、まさか腕が隠されているとは誰も想像だにしないだろう。
ヤマトモは面妖極まる気色悪い満面の笑みを浮かべながら、コートの裏側に覆われていた腕を伸ばし、日本刀を強固に掴んで、柄を両手で掴んだままの空地を壁に叩き付けるよう真横に渾身の力を込めて動かす。空地は咄嗟の判断で手を放し得物を手放したが、五月蠅はその大きな隙を見逃すわけがなかった。彼は空地の腹部へ、スタンプするように足の裏を叩き込んだ。水月を的確に狙った急所突きである。
ヤマトモは太刀を空地がいる方向とは反対方向に投げ、奇怪千万な動きを見せながら、捕縛しようと躍起になった。背中に設置された二本の腕を勢いを付けて伸ばしたのだが、空地は懐に隠し持っていた刀子『剃刀(うすがたな)』を取り出し、層状になったヤマトモの義肢の隙間に刀を投擲する。クナイのように放たれた剃刀は、義肢に生じる僅かな隙間に入り込み、不純物が混ざる形でその動きを阻害した。
空地は拳法の構えを取り、半歩踏み出した後ヤマトモの心臓部に拳底を叩き込んだ。本来、指を丸めて殴りつける正拳突きとは異なり、拳底は威力が低いにも関わらず、成人男性の二倍以上の重量を有するヤマトモの体が浮き上がるほどの攻撃力を秘めていた。驚きに目を見開く育良の前で、床から足が浮いたヤマトモに投げ技を使用して、背中を強打させた。
「日本刀持っている状態より、素手の方が強いじゃないか」
キィイ! と、五月蠅が悔しそうな声を出す中、空地はふんと鼻で笑う。
「武士イコール片手剣使いと思われちゃ困るな。さすがに馬術や弓術やら習得してないが、最低限、棒・薙刀・柔道・日本拳法・抜刀居合い術はマスターしている」
「……こりゃ流石に捕縛だとか悠長なこと云ってられませんかも……」
小声で上記の独り言を呟いたのは、育良である。
なんかもうあきちゃった。あとは前原博士の無双がはじまる予定だったのよあなた。
ドッカーンドッカーンドッコーンよ、アライヤダ。
一般人に対する財団の記憶処理って、そらぁ消した方が良いのもあるだろうが全部が全部そうとは限らなくない? つまり、そういうことがいいたかっただけ。
0
密室殺人事件。
ミステリー小説における定番かつ花形の密室を説明するならば、『密閉された部屋で発生した殺人事件』のことを指す。抜け穴抜け道隠し扉等、様々な手法があれども大雑把な括りとして、密室殺人は大きく分けて二種類の相違が存在する。
ひとつは、殺してから密室を構築したか
残るは、殺す前から密室が構築されていたか――であろう。
密室の定義を根底から覆すような、『地球そのものが密室である』と定義づけた偉大な小――否、大説家が実際に存在するが、それは密室の前提からあまりにも例外であるため除外する。
ただこのお話は、被害者と加害者は同一人物でありながらも明確には異なり、ミステリーというより、ミステイクだ。
本格派の心構えであるノックス十戒を無視した、二束三文というより鐚一文以下の泡銭の如き駄文になるが、これから書き記すのは、明らかな他殺でありながらも単純明快な自殺である。
内容が悪筆な理由として、云い訳になるかもしれない……と云うよりも単純にそうなるのだが、不思議や謎や恐怖がそのままであることが推薦される……『現状維持』を理念としている財団において、ミステリーは非常に相性が悪い。率直なところ最低限の現実味が求められる推理小説において、魔法のような改変能力や、未知の技術や薬毒が普遍的に認められているSCPとは相容れないのだ。
仮に認識障害や精神汚染ならばミステリーは構築可能だろうかと想像を伸ばせど、異常物に接した瞬間、急速に思想変異が発生するソレを端的に纏めるならば、超常的――魔法の一種であると解釈できようよ。
蛸壺に人間を犇かせたわけでもないのに、物質に接するだけで人間の思考や思想が変わってはならぬのだ。どれだけ素晴らしいトリックであったとしても、ホワイダニット――犯行動機が稚拙であれば、すぐさま駄作となる。
しかし……ノックスの十戒を抜きにしても、さなぎだにSCP内のtale作品として、この話は根本的に評価されないものであることを十二分に承知している。仮に十戒の内容を改変して「SCPの十戒」なるものを作るとすれば、以下の通りになろう。
1. 物理的に屈強で、危険なだけのSCPは評価されない。
2. 財団はピエロであってはならない。
3. Dクラス職員をはじめとしたあらゆる資材は、必要最低限に収めるべきである。
4. 財団職員は自身の好奇心を満たす為に過剰な実験をしてはならない。財団は残忍ではなくドライであるべきだ。
5. 使い古されたネタは避けるべきだが、回避するのではなく相違点やオリジナル性を付与することが重要視される。
6. 報告書やtale内の登場人物は“我が子”のように可愛がってはならない。
7. 物語である以上、報告書やtaleは客観的であるべきだ。
8. 著作権を有する他作品を、そのままSCPに変換した作品は評価されない。
9. その作品を評価する/された際、威圧的なコメントは忌避し、真摯で真面目な態度で臨むべきである。
10. 自演投票は禁止されるべきである。
……私が特に懸念しているのは、6番目の箇条だ。そして次点に2番目の注意喚起である。
ご存知の通り探偵物において「警察は靴をすり減らすのが好き」といった冷罵があるように、あたらくも警察は愚かであることが強いられる。それと同等に財団が馬鹿回しになっていないか、不安で不安で仕方がないのだ。
などと……長々と益体のないことをつらつら述べてきたが、これはただの『小』というより『微々』たるミクロ説である。ただ人が死んだだけの物語だ。本格派は期待しないでくれ。
1
イトクリ外科医は、エージェント・ヤマトモのことが大嫌いである。主な理由を尋ねれば「視界に入ったら殴りたくなるし、視界に入らなくても殴る」のだと、常日頃から公言している。ヤマトモ本人が、どうじて自分のことが気に入らないのかと直接的に聞けば「串間保育士の胸を殊の外いやらしい目付きで見ていたし、長夜博士の胸部を特に嫌らしくない目線で眺めていた」と、非常にどうでも良さそうに答えた。
ヤマトモはがっくり項垂れるように機械仕掛けの両腕をだらりと垂れ、閉口しながら軍服の上に白衣を着用した男をマジマジと見下ろしながら、更に突っ込んで、今後の人生において殴打されないために改善出来るものなら改善しようと、淡い期待を寄せ追求しようとしたが、遣る瀬無く無意味さが察知されたため、その行動は行われることはなかった。
エージェント・ヤマトモは「明日も殴られるのだろうな」と思いながら、トボトボとその場を後にしながら「どこが嫌いなのか」ではなく、「どこが好きじゃないのか」と尋ねるべきだろうかと思ったが、その質疑応答が行われることはなかった。
未来永劫になかった。
オダマキ納棺師は、大和博士のことを煩わしく思っている。他職員のストレス解消で殺害されその後始末と殺人現場の掃除をするのが自分であり、下手をすれば一日の職務時間を肥満化した亡骸を焼却炉に突っ込むだけで終わることがあった
可能ならば、あんだら男を自分の手で殺してやりたいと度々常々考えていたが、自分の首を絞めるような真似でしかないことを……自身の業務が嵩むだけしかないことを、容易に予測していたため、殺害行為が実行されることはなかた。
オダマキは大和博士に対する嫌がらせと自棄食いなのだろう……彼のふくよかな腹を満たすディナーや食後のデザートを無断かつ独断で食し、「それならば」と博士が直々に容易したあらゆる食べ物は、毒物を避ける警戒心の強い猫のようにやり過ごし、決して口にすることはない。積極的かつ意図的に大和博士が食べようとしたものだけを食すようにしていた。
オダマキ納棺師の稚拙じみた嫌がらせに、大和博士はかつて財団職員として働いていた、ある男を彷彿としていた。「流石、親子だな」と思いながらも、その感想は口に出されることはなかった。博士が率直に口に出していれば、彼は喜んだことだろう。
そんな細々小さい嫌がらせを受ける最中、大和博士は「年末年始だけは殺されないであげよう」と思い、日々の調整を行って来たが、その気遣いは結局無駄に終わる。それは博士自身がサプライズを失敗しただとかそういったものではなく、当の本人――もしくは両方が居なくなってしまったからだ。
三善の手によって密室事件が収束し、沈静化した現在でも「あれが黒で、白なのか」判然としていないが、財団の総論としては、【黒】でも『白』でも[灰色]でもなく――「透明」になったと考えられている。混ざったのではなく対極化していた二種の色が抜け、細胞分裂の如く比翼連理に枝分かれしていた双翼が合致し、ひとつの個人となったのだ。
捻じ曲げられていたものが元に戻り、本来の自分へと変える――それがゆえの透明だ。
無であると表することも出来よう。
しかし、殻となったそれは虚無ではない。
【彼】と『彼』は、明らかに「彼」の中で夢現ながらに生きている。
【彼】の懊悩と『彼』の苦悩は蛤の夢のようになくなったが、「それで良かったね」と問題を片付けるには、少々内情が複雑であった。
一人になった「彼」らに、お前は誰だと尋ねてはならない。しかし、誰がお前になったのだと聞きたくはなる。しかし……自身の区別をする必要がなくなった「彼」らに上記の質問をしても、困ったようにドス黒い感情を抑え寡黙になり、白痴のように愛想良く笑うだけだろう。
黒の区別と白の区切りが無くなった事件のはじまりは唐突だった。予兆など何もなく、突然勃発したのである。
2
20██年、█月██日、早朝6時37分。
場所はイトマキ兄弟の個人ルーム。財団職員は一般的な会社員と同じく、通勤し出社している人間も多くいるが、彼らは住み込みでサイト内に屯っている。財団は例の如く節約を重んじる傾向にあり、不仲という表現では追いつかないほど険悪な仲であるにも関わらず、上層部のやや強引な手法により、オダマキとイトクリは同じ区域内の同部屋にて生活していた。
室内は最新鋭の機材と設備投資が成された財団では、少々珍しい和室である。八畳半の個人ルーム内は男の“一人暮らし”のそれの如く、混雑としていた。生ごみや空き容器など散乱していないものの、全体的にごちゃごちゃしている。まず特筆すべき乱雑の例として、机上に広がっているのは負傷したエージェントの個人カルテに、ゲーム等の嗜好品が挙げられるだろう。透かし彫りの和テーブルの中央には少し肉厚な座椅子とふかふかな座布団があり、四つ角の足元にはインスタントコーヒーの粉が半分ほど残った青い半透明の瓶と、ブランド物の時計に、安物の筆記用具が粗雑に置かれていた。
和机から少し離れた壁際には、チロ警備犬の檻があった。格子網の上には使い古された散歩用の紐が放置されている。檻内の犬は顎を床につけスヤスヤと眠っていたのであるが、不意にぴくんと両耳を立て、俊敏良く肉体を起こした。その機敏な反応は、起床時における活力的な反応ではなく、不審な気配を感じ取ったがゆえの対応である。
警備犬は不思議そうな目付きで、犬よりも一本多い爪を有した前足でカシカシと檻を引っ搔いた。猫のように器用に前足を操れない、突くというよりも肉球そのもので叩き付けるような所作であるが、若干金属製を有した耳障りな音が室内に響く。その奇妙に甲高く、絶妙に癪に障る音は、檻と和テーブルから少し離れた位置にある、半開きになった襖の向こうに敷かれた二人の人間に十分な威力を有している。
襖内の布団は、左右に並べられているのではなく、布団は横向きで上下に並べられていた。上と下の臥所はどちらがどちらの物といった区分はなく、その日まちまちに寝る人間が変わる。以前は、厳密かつ厳粛に定位置が定められていたのであるが、イトクリとオダマキの記憶が混濁し始めてから、無意味でなあなあなものとなってしまっていた。
それゆえ、今回……上と下のどちらに黒いあの人か白いあいつが寝ているのか判然としないが、チロ警備犬の硬質な爪の音に反応するように最初に起き上がったのは、下の方……手前に敷かれた布団である。がばりと起き上がり布を捲ったその人物は、黒でも白でもない人物であった。
「ん~……どこだ、ここ?」
精悍な顔付き。今しがた“目覚めた”と云わんばかりの眠気眼に、少し乱れた真っ黒い頭髪と、病弱さの名残を有した青白い肌。
彼は――奴は、真中央は、じろじろと室内を観察為い為い、視線をうろつかせる最中、「あ」と少しだけ驚きの声を上げた。布団を蹴り飛ばすような乱暴な所作で退かし、襖の外に放置された喪服と白衣の入り混じった着替えの中に混ざる、丁寧に畳まれた軍服に注意を向けたのだ。
「懐かしいな、これ。俺のじゃんかよ……」
しかし、どうして一度も袖を通していない制服がこの場にあるんだと、真中は小首を傾げながら、檻の中で佇む川上犬を見遣った。真中は、父親がオオカミに噛み殺される以前に散々見慣れた犬種に対して、若干の懐古意識を覚えながらイソイソと檻前へ近寄る。
見知らぬ人間の接近は警戒心を丸出しにして吠え立てるのには十分に条件は揃っていたが、チロ警備犬は当惑したような態度で――それこそ困り果て泣きそうな表情で目の前の人物を見上げた。チロ警備犬の心情を擬人化し汲むならば、「知らないといえば知らない人がいる」といったものであろう。
狼狽の末、彼女は混乱の余り尻尾を内股に納め、うろうろと檻の中を回り始めた。微かに、鼻から空気を漏らすような「きゅぅん」と甘えた泣き声を出し始めるが、真中は犬をあやすことなく真中は得心云ったような声を出した。
「あぁ……ここは、財団か」
法則性を意図的に解明していなかったとは云え、厄介なところに転生してしまったとぶつくさ呟きながら、真中は襖内の奥側で、未だ睡眠を摂取している“片割れだったもの”を眺めた。そして疑問に思うのはそこで眠っているのは、全国各地にいるどの女性の子供なのだろうかと考えていると、個人ルームの戸口が勢い良く開いた。見れば金髪ハーフアップにパーカーを着用した、少年か青年なのか判別できない男が立っている。
「おっは~。ヨコシマだけど呼んだ~?」
誰も呼んでいない。
真中は戸口に突っ立ち、目元に横向きのピースサインを決めている奴の姿に対して、強烈な煩わしさを自覚し、舌打ちしたい衝動にかけられた。
3
ヨコシマの登場――というより乱入は、結果的に見ればジャストタイミングでそして何より、財団の離反者かつ者の逃亡を許さない絶妙なものであった。
真中の顔を二、三秒ほど眺めていたヨコシマだったが、腐っても彼は財団のエージェントである。驚きを意図的に沈め、パーカーのポケット内に常備携帯しているゴム製の手錠を掴んだ。次いで後ろ手に戸口を閉めた後、緩やかに真中ににじり寄る。ヨコシマがじりじり接近する中、真中は財団に捕まることは避けたいのか、室内に置かれている品々や物々に視線を向けた。
ヨコシマは、常に人の邪魔になる特性を有している。あらゆる言動や動作は勿論、何もしなくても人間の妨げとなる。その異常性の一例として、往来の人間を写真に収めようとすれば偶発的に被写体を被さるように写り込み、腹部に急激な痛みを自覚してトイレに駆け込み個室のドアを掴めば先に用を足しており、人に好感を抱かせる発言をすれば[編集済]と改変され何を発言していたのか分からない。ヨコシマの咫尺千里の煩わしさは、特性と云うより異常性に近しい特異体質を持っていた。
真中の推察としては、三善や有良が備え持つ『確率操作』にカテゴリーされるものだと考えているが、ところ憚ることなく有体て申し上げるならば、思いを馳せるだけでも正直かなりウザかったのでこれ以上の推測はしておらず、厳密な点や性質は不明であった。
邪魔の権化といって差し支えないヨコシマが真正面から対面する中、真中は脱出と脱獄の糸口を探るように室内を脇見で観察し、ゆらりと立ち上がる。檻の上にチロ警備犬の散歩用の縄が放置されていることに気付く。贅沢を云えば拳銃やナイフなどの銃器と刃物が欲しかったが、この部屋には得物となるべき物質は無いようだ。
真中は徒手空拳よりマシかと判断した矢先に、ヨコシマは迅速に動いた。まず飛び上がるように大股に一歩跳躍し、畳に手をついて逆立ちするような姿勢を作った後、真中に足払いをかけた。ヨコシマのスタン攻撃は、足の関節部位たる膝裏を狙っている。ご存知の通り、間接は曲がる方向に曲がり易い。ヨコシマの精密さを有した必要最低限の力で発揮される膝かっくんを受けた真中は、肉体をまろばせ床に伏せた。
相手の姿勢を崩すことに成功したヨコシマは、行動を一切休ませることなく真中の両腕を掴んで、ゴム製の手錠を掛けた。顎を強打し痛みの呻き声を出す真中を無視して、腹這いの姿勢を強制させるように、力と体重を伸しかけるように腰部に尻を落ち着かせる。次いでヨコシマは緊急連絡を用いて不審者侵入と捕縛の事実を伝え、機動部隊が機動部隊が個人ルームに到達するまでの数分間、強固な捕縛を一切緩めなかった。
やがて慌しい足音を立てながら機動部隊が到達するのを確認したヨコシマは、部隊員の一員であったエージェント・餅月に真中を横流しする。捕縛者を逃亡させることなく引き渡せた事実に安堵するように浅い溜息を出しながら周囲を観察すると、すでに現場検証が行われ、辺り一面は騒々しいものへと変容していた。
真中が機動部隊におちゃらけた態度で冗談を口にした調度その時、真っ白い白衣と真っ黒いスーツを着用した、上層部の人間と思わしき者が数人現れる。お偉いさんの一行の中には多少見知った顔があった。前原博士、大和博士、エージェント・カナヘビ、神山博士といった数名のメンバーである。
エージェント・カナヘビを肩に乗せた神山博士は真中の方へと近づいて行った。肩に乗せられた爬虫類の姿を視認した真中は「酔拳ゴリラの方がまだマシだぜ」と講義の声を出す。前原博士は白衣のポケットの中に手を突っ込んだまま、ジロリと真中を睨み付けたが、すぐさま視線を戻し、ヨコシマの傍へ寄った。
「ログ記録……個人ルーム前に設置されたセキュリティの記録を参照したところ、昨晩の21時にイトクリさんがログイン、22時にオダマキさん、そして今日の6時にヨコシマが入ったきりで、その他に誰かが入った形跡と、ログアウトした痕跡はないのよね」
財団のセキュリティシステムは室内の入退出の度に行われるものである。ヨコシマは「三人入って誰も部屋を出ていないのか」と、状況を判断する。
「三人入って誰も出ていないのに、一人余計な人間が混じって、一人減っている。兄と弟、どちらがいなくなったのか分からないのよ。確認のために、兄弟の判別可能なあんたに、あそこで寝ているのは誰なのか確かめて貰いたいんだけど、お願いしても構わないわね?」
前原博士はそう云い、襖奥の臥所で伏せている布団を指差した。これほど騒がしく、事件の渦中であるにも関わらず、彼は未だ眠っている。前原博士の指の先にいる布団の様子を見たヨコシマは、不振感を覚えた。機動部隊が乗り込んで辺りが騒々しくなっているのに、未だ眠り続けるのは異常であろう。
ヨコシマはよもや死んでいるのではないだろうかと思いながら、襖の奥側に横たわる人間一人分膨らんだ布団に駆け寄る。緊迫した顔で遠慮解釈もなく布団を捲ると……そこには髪をおろした状態の兄弟の片割れが眠っていた。ヨコシマは首筋に指をあてがい脈拍を確かめ肉体の状態を判別したが、ただ単純に眠っているようである。意識の方は、MRIなどで精密に検査しないと正確な健康状態は不明だが、一応は生きているようだと安心した矢先、その安堵は不安と不審で綺麗に消し飛んだ。
「誰だ……この人?」
ヨコシマは呆然としながら、思わず独り言を呟いた。
目の前で眠っている人物は、ヨコシマの知っている顔である。見知らぬ人間だとか、初めて見る人間だとかそういった状態ではないのにも関わらず、目前にいるのが誰であるのか――【彼】と『彼』のどちらなのか、区別することが出来なかった。
兄弟の記憶と認識が入り混じり始めたとき、繊細に注視しよく観察すればヨコシマは兄と弟の判別が可能であったが、今現在、どれだけ精密精微を極めた観察を持っても区別することが出来ない。
ヨコシマは呆然とした顔で「どっちなのか分かりません」と前原博士に報告すると、彼女はまるでそうなることを予想したような落ち着いた顔で、「そう」と頷くだけである。ヨコシマはいくら噛み砕いても消化しきれない疑問を抱きながら、「どういうことなんですか」と謎を解消するため、前原博士に質問した。
「どういうことって……別にこの件は謎といえる謎じゃないってことよ。仕組みは単純。トリックはなし。だが、仕掛けのみが発動しただけよ」
「……前原さん、仕掛けって何です?」
「あの兄弟に限らず真中の直系の子孫は、父親の意思で真中に変容するってことよ。肉体変貌のメカニズムは心理遺伝の応用らしいけど、まぁそこら辺は以前説明したはずだから、ばさっと省略するわよ。第一、文字数の無駄だし」
「はぁ……えーっと、状況を整理すると双子の片割れの一人が真中になった。密室で人間の入れ替わりが行われたが、中の人物が別人になったので、ログアウトの形跡がなかったってことなのかな?」
「簡潔に纏めるとそうなるわね。密室からの消失は中々ミステリーで面白いけど、真中の異常性がバレている現在、謎といえるほどの謎じゃあないわよね。三善が出るまでもない、凄く簡単な証明終了で片付いちゃった。今一番重要なのは、兄と弟のどちらが真中になったかってこと……になるのかしら」
元から区別が非常に曖昧だから、どちらにしても同じことなのかもしれないけれど。
前原博士はそう云い、医療班の要請を行った。搬送されるべき人間は云うまでもなく「彼」である。しかし誰であるのか正体の分からない、未知の身元不明人だと云うことを忘れてはいけない。
4
オダマキ納棺師かイトクリ外科医か判別出来ない「彼」の容態は、意外なことにそれほど重症ではなかった。軽症かと問われれば何とも否定し難いものではあるが具体的な症状は、とてもリラックスした状態で昏々深々と眠っているだけである。異常な点を挙げるならば、どれだけ外部刺激を加えても覚醒の兆しを見せないことであった。今後、睡眠状態が二、三日経過するのであれば、薬物療法による対処が予定された。
特筆すべき点として……財団内部者に対する体裁上、「彼」はオブジェクトの異常性を受け治療を施されているということになっている。しかし上層部の真意と治療班の心理では、決してそのような人道上に位置するものではない。正直なところ、真中の転生個体を入手出来たのは初の快挙であり、異常性解明の先駆けとして経過観察が行われていたのだ。
……場所は変わって、真中を移送した収容室内。
「何十年振りになるんやろうな、きみ。今でも覚えとるで。確か……日本支部理事にきみが持っとる『転生法』や云うの? その延命技術を開発して、いざ献上しようか云う正にその直前に、財団から逃亡。その当時はてんやわんや大暴れ、あっちもこっちも仰山大騒ぎ。その影響で長い間、業務はにっちもさっちもいかなかったんやで?」
そう恨みがましく云うのは、エージェント・カナヘビである。カナヘビは真中と対話するため、大きめの椅子の上に鎮座しながら真正面で肉体を拘束された真中を見据えた。爬虫類特有の瞳の先にいる真中は、両腕と胴体部は異常な硬さを有する拘束具に、足首には財団製合金の足枷が嵌められていた。まるで大犯罪人か重篤な精神病患者へ対する縛めのようであるが、真中の場合そのどちらも間違いではない。間違いの有無どころか、複合しているといって良いだろう。
カナヘビはちくちくネチネチと嫌味たらしい小言を呟くが、真中は関心を示すことなく室内をぐるりと見回す。カナヘビの左右には蛇を象った面で顔を隠した男と、収容スペシャリスト・小鈴谷博士が控えている。蛇面の男は尋問兼カナヘビの護衛であることが察せられるが、収用法を提案する小鈴谷の存在は場違いであまりにもそぐわないように思われた。
数秒かけて室内と入室者の観察を終えた真中は「よう。ところで……」と、未だクドクド続くカナヘビの愚痴を断ち切るように、声を出した。
「腹減ったんだけど?」
「……。きみな、今の状況わかっとる、逃がさんように拘束されとるんやで? 場合によっちゃ拷問をすることぐらい、お悧巧さんじゃなく馬鹿でも容易に想定できはるよな?」
「んなこと云われてもなぁ……」
真中はやる瀬なさそうな態度で困ったような表情で嘆息した。真中が物憂げな溜息を出すと同時に、腹の虫が唸りは自己主張された。どうやら空腹であるのは本当らしく、元気がないようだ。最も、この場と状況において元気溌剌であった方が異常ではあるが……。
「お前には色々聞きたいことあるけど、まず第一の質問として云わせてもらうわ。……何しにここに来てん?」
カナヘビは俄かに凄むような態度を醸し出した。真中は飢餓感と低血糖によりぼんやりとした思考の中、爬虫類の姿ではなく老いさらばえた人間の姿であったなら、多少気圧されていたことであろうと他人事のように考える。
カナヘビの威圧は真中にとって、人間の対話は人間でないと効力を持たないように、小動物が威張っているようにしか思えなかったのである。しかし、決して油断をしてはならないと同時に考えた。真中は表面上はニヤつきながらも、注意深くカナヘビの意思を読み取るべく、神経を鋭く研ぎ澄ませながら返答する。
「俺が何をしに来た――か。ハハ……いや、ぶっちゃけ大した理由じゃねえんだよ。いやな……有良のスケープゴートの効果が発揮され、俺がぶっ殺された。あいつの性質、嫌な出来事を他人に肩代わりさせ回避する能力であることは知っていたが、びびったぜ。あんな偶発的、それこそ天文学的な出来事って有り得るのかよ……空から亀が降って来て頭部を強打して死んだ死亡ケースに匹敵するレベルの事態だったぜ、全くよ」
「…………」
蛇面の男は真中の供述に嘘や虚偽が混じっていたら、すぐさま尋問を開始するつもりであった。しかし、彼の云っている言葉は虚実が一切ない、真実そのものであるように見受けられた。それゆえ蛇面は動くことなく、じっと佇む。
「きみがここに来るに至った経緯……死因のそれ自体はこの場において注して重要そうじゃないから省くけど……ぼくはてっきり、財団内部の諜報活動――要はスパイをしに来たんやと思うとるんやけど、実際どうなん?」
「馬鹿云うんじゃねえよ。敵の本拠地にいきなり大将が乗り込むだなんて、俺がいくら愚かでもやるもんか。意表を突き、奇を衒うには丁度良いかもしれねえが、それをやるにはメリットがねえ。そして、俺のチームはその愚策を実行するほど追い込まれちゃいない。俺がここに飛んだ理由を述べるなら、死亡後の転生先は完全ランダムなんでな。作り主である俺でもどこに飛ぶのか分からねんだよ。偶々、財団先に行き着いただけでしかねえんだ」
蛇面の男は動かない。
「随分アバウトやな。それにしても、きみのチームねえ……その本丸はどこにあるん? 今から機動部隊を送り込んで、纏めて一網打尽にしたいんやけど?」
「俺が死んだ時点で、占拠場所は転移しているだろう。今更乗り込んでも無駄無駄。蛻の殻って奴だ。骨折り損前提で行きたいってんなら、教えてやらないこともない」
真中は本拠地跡地の住所を告げる。
蛇面の男は動かない。
「ほんなら、次の占領先を教えてくれへんやろうか? そこにも刺客を送り込むさかい、白状してくれへんか?」
「残念な話だが、次の住居がどこに構えられるのか知らねえ。そういうことは全部秘書に任せている。俺の秘書は中々優秀な奴でね……安全が確保された時にしか、本拠地を教えてくれないんだ。最も転居先の事後通達は、俺がそうするように指示しているんだけどな」
蛇面の男は動かない。
「ほんならええわ。次の質問に行こうか……お前が仮に自害が成功するとする。ほんで、次の依り代はどこにあるん?」
「さぁ、分からねえ。前にも云ったけど、転生先は俺でも予測がつけられない完全ランダムなんだよ」
蛇面の男は動かない。
「……あ、そうそう。きみのチーム、名前は何て云うん? 前々から気になっとったんや。名称、俗称、総称のない集団を追うのは結構苦労しててな。ちくと教えてくれたら助かるんやけど」
「俺のチーム名? あぁ……そういや付けていなかったな。んー、そうだな……うん。空亡……いまいちだな。ウツロヰ……パッとしねえな。のざらし――うん、野晒し。よし……今、決めた。俺の団体名は、『野晒し』だ」
蛇面の男は動かない。
カナヘビは忌々しそうに舌打ちをした。
「……豪いけったいやな、君。何でもかんでもベラベラ正直に白状して、まぁ。以前――戦時中は、舌先八寸三枚舌、ペテン詐欺の如何様氏。咽喉元過ぎればどころか舌の根も渇かぬうちに虚言を撒き散らす、弩級で度合いのないレベルの嘘付きやったんに、どういった心境の心変わりや? 何かあったん?」
「ふん。どうもこうもねえよ。ただ俺はあんたらに学ばせて戴いただけだぜ。虚実を暴かれれば、行動を予測される。真意を看破されれば、対策を打たれてしまう。強味が減って、弱味が増す。自分の嘘が露見しないように神経を払いながら、相手の目的に気を使う。疲れる疲れる。ちっとも楽じゃねえし、嘘をつくと本当碌な事が起きないからなぁ。現に俺は葦船を筆頭に、三川、負号部隊、蒐集院のお偉いさん共々の魑魅魍魎や有象無象に根こそぎ搾取され、徹底的に搾り粕にされた。金も土地も人脈も道具も何もない状態へ零落転落したってわけだ。その痛い経験を元に苦境を発条にして、正直に生きているだけだ。一応断っておくが、俺は正直者になったが――根本的には嘘付きを辞めたってわけじゃねえぞ。……ただ俺は『正直に騙す』だけだ」
蛇面の男は動かない。
「嘘付きに対する最も有効的な決定打は、それを上回る嘘ではなく純然たる真に限る。虚言の反対が真言のように、虚実には真実を、虚構には真相を、幻術には現実を。秘匿・証拠隠滅主義の財団には信じられねえ話だろうが、俺はこのやり方で小規模ながら伸し上がって来た」
「ふん。きみがいくら正直者になったとしても、はいそうですか、おいそれとは信用できへんわ。そこまでお人好しちゃうわ」
「そりゃそうだ。俺は信頼を得るために正直者になっているわけじゃねえからな」
相手の目的を予測し察知するためだ。
真中は云った。
「……ふん。お前のことは一切信用しとらんが、馬脚を暴く前から出しとるきみには、これ以上の尋問は無意味やな。資源の消費と時間の無駄にしかならへんわ」
「嘘をついていないのに疑われるのは中々クるもんがあるが、そりゃありがたい。それで……用が終わったんなら、この拘束具外してくれねえかな? ギッチギチに締め上げられて適わん。血が詰まって四肢が腐るんじゃねえの。やばいって、これ」
「馬鹿か、外すわけあらへんやろう。きみは一生、この牢に繋がれるんやで」徐にカナヘビは蛇面の男に声をかける。「舌を噛み切って自害し、転生法で逃亡されないように口を封じたりや」
上司の言葉に従い、蛇面の男は猿轡を取り出して真中の口を封する。作業を終えた蛇面の男は拘束具の状態を全て、抜かりなくチェックし万全の状態を維持した。真中の状態は首を吊って縊死しないように工夫され、それ以外の部位は鞣革や帯で補強されている。指一本動かすことさえ困難だろう。
5
「……彼の云っていることは、本当に真実なのでしょうか?」
真中が監禁されている部屋を出、会議室に向かった小鈴谷博士は、飼育ケース内に戻ったカナヘビにおずおずと話しかけた。
「差し出かましいことを若輩たる自分が云うようですが、尋問用の薬品や武器を使わなかったのは、少々気にかかりました。たとえ、嘘をついていなくとも、更なる情報を引き出すことを前提に、尋問を実行した方が良かったのではないかと思います……」
「まぁ、きみの云いたいことは分かるよ。ぼくも徹底的に嬲り甚振りたいところやけども、真中は隙あらば自害して、逃亡することやろうしな。彼奴は元々病弱な性質でな、どれだけ繊細に気ぃ使っても死亡……情報漏洩の危険性がちらつくわけや」
「はぁ……オブジェクトの脱走のそれのように、念の為を危惧したってことですか? それで、一旦引いたと」
「それもあるけど真意を語るならば、今日のは本格的な尋問ちゃうねん。ただの顔見合わせやな。後日、諸知博士の薬物処理でヤク漬けにしたり、頭蓋を切除して脳に針をぶっ刺して電流放ったり、色々やる予定や」
そんなことよりも、閑話休題。
カナヘビは小鈴谷博士に仕事の話を振った。
「……ほんで、きみから見てあの部屋の状態はどうやった? 真中央は部屋を出ることができると思うか?」
「理論上、不可能でしょう」
小鈴谷はキッパリと云った。しかし上記の言葉は断言ではない。収容スペシャリストとして働いている彼としては、あらゆる不測の事態と例外的なケースを知っているがゆえの反応であった。
「真中央の状態を整理するならば、所持品道具なし。身体は指一本動かせない状態かつ麻酔剤で眠らせている。そして室内および室外周辺の約十キロメートルは厳重な警備体制が敷かれています。赤外線および監視カメラは前提的な常套手段として、たとえ現実改変の術を持っていたとしても、対策済み。認識障害、精神汚染を発露したとしても予防済みというわけです。絶対に――とは断定することは出来ませんが、彼が室内から室外へ脱出する可能性は、限りなくゼロに近い」
それどころか一歩進む、自力で腕を動かすことさえ困難でしょうと、小鈴谷は云いながら意味深な溜めをした。
「……しかし、懸念すべき点として内部から脱出できなくても、外部から……要は助太刀とでも云いましょうか。財団内の誰かが裏切って――もしくは、真中を助けるため『野晒し』の一員が紛れ込んで、脱走する可能性があります。かの二十面相も牢獄を脱獄する際は、外部援助を頼りにしていましたからねえ。監視員を洗って再検査し、配置した方が無難でしょう」
「せやな。雑魚で小規模とは云えども、財団の敵対者の頭が捕まっとるんや。警戒するに越したことはないやろう」
「それと房の壁、床、天井には防音設備を施した方が良いでしょう。かつて真中は財団に非常に強い忠誠を誓っていたエージェントや博士を数名仲間に抱きこみ、『野晒し』の仲間に加えた実績を持っています。奴の言葉に耳を傾けた時点で、終わりだ。現在真中には猿轡が施されていますが、それでも安心せず、入念に警戒態勢を敷くべきです。それと……これは一種の杞憂から来る発言でしかないのですが、収容室に拘束されている真中央が、偽者であるパターンも想定されます。何せ、あの肉体の元は、双子ですからね。昏睡状態になっている片割れの方にも厳重な監視をおすすめします」
小鈴谷はそれから考えられる限り、最大の想定策を口にした。要注意人物の収用法について十五分近く話し合いある程度落ち着いたところで、小鈴谷は最初から抱いていた疑問をカナヘビに尋ねる。
「この仕事を請けたときから疑問だったのですが、あの……自分は、真中の収容室に足を踏み入れる必要はあったのでしょうか? 書面上で収容室の情報を教えてくださったら、それで十分だと思うのですが?」
「普通ならそうやろうな。でもな、きみには体感レベルで真中の状態を認識してもらいたかったんや」
「……はあ……そりゃまた何故です?」
「真中はな、日本支部理事長に転生法を提出する前に失踪したやゆうてたやろ? 理事会の秘書に対面するその直前に、いなくなったんや」
「え――それってまさか……?」
「そや。理事会本人やなくともその側近に会うや云うと、武器は取られ常に監視された状態や。仮に書類は所持出来ても、武器なんか絶対に持てへん。でも真中は厳重に監視された状況下、手ぶらの状態であるにも関わらず、自害して『密室』から脱出しとる。転生によって逃亡に成功しとるわけや」
小鈴谷は自然、黙した。
どういうことですか、と空気を張り詰めさせながら質問すると、カナヘビは飼育ケースをうろつきながら言葉を続けた。
「きみが真中を収容室内に閉じ込め続ける勉強になると思て教えるけど、そん時の密室の状況下はな、理事会が働いとる極秘の建物内の秘書室に、真中は向かおうとしたわけや。二階か三階か分からんけど、玄関口からでエレベーターに乗車。上下に移動する小箱の中に数名のSPに囲まれた中、真中はおったわけやな。勿論エレベーター内は監視カメラが設置されとった」
カナヘビは細長い尻尾をパタパタと動かしながら、云う。
「ほんでな……目的の階に到着して、自動ドアが開く……先に真中の前方にいたSPが数名、廊下に出たその矢先や。真中は何も持っとらん、オブジェクトに暴露した事実はない、攻撃されたわけでも無いにも関わらず、エレベーター内で真中は突然自分の首を両手で……こうやってな、軽く絞めるような動作をしたわけや」
カナヘビは自分の首を絞める真似を実演した。
因みに、小箱――エレベーターのドアが開いた状態とは云えども、秘書室へ続く廊下は窓が設計されていない一本道である。秘書室のドアは閉ざされており、少々風変わりな密室が構築されていた。後に財団職員が現場検証を行ったが、無論、エレベーター内の天蓋が開いていた……なんてことはなかった。
「多分、その動作が発生トリガーやったんかな? 色々検証してみんと、正確なことはわからんけど、ともかくや……真中が自分の首に触れてから一瞬後、正確には0.2秒後に突然、首が裂けて、ぼとりと頭が落ちた」
「裂けた? 彼は特別優れた馬鹿力を持っているってわけじゃないでしょう? 触れるだけで、皮膚が裂けるだなんて……」
カナヘビは頷きながら、真中の身体能力や運動機能は一般的な成人男性と変わりないことを教えた。
「ぼくは仏さんの状態を直接見とらんし、人伝に訊いた話やから、やや正確性には欠けるけども、裂けているというより、抉れているような状態らしかったで。……しっかし、その当時にヒューム測定値や対認識障害を持つ人員がいれば、防げた事件かもしれへんなぁ……」
カナヘビが感慨深く呟いた瞬間、飼育ケースの真横に設置された緊急用の電話が鳴り響く。小鈴谷博士は3コール以内に受話器を手に取り、耳に宛がった。数秒後、彼は目を見開き、声を震わせながら、通話口から耳にした報告内容――事実を、カナヘビに告げる。
「……真中央が、密室から消失したそうです……」
6
真中央が拘束された収容室は5m×5m×5mの白く四角い、箱のような構造をした部屋であった。室内の壁や床は、殺風景な印象を与える白無地のものである。拘束具の他に室内に存在するものは天井に埋め込まれた照明と換気扇のみで、内部から扉が開かないように収容質内部にはドアノブをはじめとした、あらゆる物資が撤去されていた。電子スライド式のドアの窪みと思わしき線を見付けることができるが、どれだけ牽強付会な者でも、その溝を物質だと定義付けることはないだろう。
エージェント・カナヘビ、小鈴谷博士、機動部隊、医療班など、様々な人間の視界の先にその遺骸はあった。魂の抜けた空蝉が転がっていた。
そう、それは転がっている。
部屋の中央部に設置された拘束具から、50cmほど離れた場所に首が転がっていた。首の傷口は、カナヘビが真中央の消失時に引き合いに出されたものを連想させ、髣髴とさせる凄惨なものだった。鋭利な刃物とは正反対の、鋸で削り、鈍で叩き潰したような荒々しいものである。……いや、左記の表現はただの比喩でしかない。負傷箇所のことを直接的に述べるならば、首の断面箇所は抉り取られるように斬首されていた。もっと云えば、噛み千切れたかのような印象を与える。まるで大きな獣に咽喉笛を食い破られたかのように、抉れて凹み、そして潰れていた。
獣。
狼犬。
憑き物筋。
荒々しい大噛みの跡。
本体を見れば、胴体と頭部の繋ぎ目である頚部には人体の構造上太い血管が存在している所為であろう、まるで水道管が破裂したような、凄まじい量の血飛沫が飛散していたが、血液の汚染は胴体を中心に床のみが汚れているだけで、壁や天井には一滴も付着していなかった。室内は血生臭く、36,5度、血液全体から人体の生暖かさ持ったむわっとした臭気を漂わせている。死後間も無くである遺骸に直接触れれば、未だ体温を保持していることが認められた。
「これはどっちですか?」
小鈴谷の質問。
その発言は最もなものである――何せ、目の前で鮮血をだくだく滴らせた胴体から少し離れた位置に転がった首は、かつて財団で働いていた人間のものだからだ。
真中ではない。
兄か弟か、黒か白か、黒衣か白衣か、苧環か糸繰か、納棺師か外科医か判別としないが、どちらかのかんばせを持っていた。
真中と双子の顔立ちはあまり似ていない。彼らは母親似なのだろう。真中の外見的特長である三白眼でもなければ、精悍な顔付きもしていなかった。それゆえ、転がっている顔は誤った認識からくる見間違いや勘違いなど、そういった初歩的なミスではない。真中ではなく、兄弟の片割れの顔であると判別できる。
「兄弟のどっちかが真中の顔になっとったが……恐らく、憑き物が落ちて肉体が元の状態に戻ったんやろう。しかし、誰が殺したんや。密室に入室者の記録はあらへん。そして、どうやって自害したんや。あいつは睡眠薬を投薬した状態やったんやで」
カナヘビは次いで小声で「他殺にしても自殺にしてもどうやったのか分からんが、尋問されまいと早急に手を打ったな」と忌々そうに呟く。カナヘビは監視カメラ映像が記録されたディスプレイから目を向けているとき、小鈴谷とカナヘビの到着から数分遅れて、新たな加入者が現れた。
それは【彼】なのか、『彼』であるのか未判明状態の「彼」である。昏々と眠り続けた彼であったが、真中に睡眠剤を導入し入眠した瞬間に、「彼」は突如意識を覚醒したらしい。ここに連れてこられた理由は、被害者の存在をハッキリさせる為であろう。
兄弟の判別に関して、本来ヨコシマに精査させるべきだろうが、奴は兄弟の区分が不可能になっている。……しかしそれにしても、時折、記憶の混濁が発生し、自身が誰であるのか自己判断が出来ない兄弟本人に回答を任せるのは不安を覚えるように思えるが、彼らは時々、自身が誰であるのか思い出すことが度々あった。時々と云えるほど頻繁なものではないが、低確率で思い出すことがあるのだ。
ともすれば、首が捥げたショッキングな亡骸を見ることで、自覚し覚醒させる可能性に期待を寄せながら、初期化医師が「彼」の肩を叩き、首無し死体を見るように指差す。
「彼」はこれといって感情のない表情で指が示す先にある亡骸を見、赤く滑り薄汚れた床と、血液の凝固が始まった黒く錆びた胴体と傷口を凝視して、それから最後に転げ落ちた首を見て――
――咲った。
黒い作り笑いでも、白い愛想笑いでもない、極自然な莞爾であった。
その場にそぐわない、どこか和気藹々とした微笑みを一人浮かべる中、監視映像記録のチェックしていたカナヘビは「侵入者および脱出者無し。現実改変、認識障害、ミーム汚染等の異常物の検出はなし、か」と云い、しばらく悩むような素振りを見せ……ややあって……。
「名探偵の出番やね」
と、しわがれた声を発した。
7
カナヘビから密室殺人事件の依頼を受ける少し前、三善悪様は神津に、過去自分が解決した事件の詳細を話していた。三善は強い興味と熱い関心は綯い交ぜになった好奇心を見せる神津を目の前に、スパスパと煙管の煙をうまそうに飲みながら、多重人格の老婆が三度に渡って殺害されたバラバラ事件の内部事情を語る。
「バラバラ殺人事件……バラバラというのは要するにあれだ。殺人者にとって、四肢を切断する必要が生じたゆえ発生した事象である。犯人は、捜査を攪乱する目的でそうしたのか、個人的な事情によりバラしたのか二点の相違があれども、無意味に遺骸を切断することはそうそうない。そこら辺は、わざわざ語るまでもなく神津くんは承知しているだろうが、前振りとして前置きしておく」
「バラバラ殺人は隠蔽、誤認、処理、見立て、見せしめ、誇張等の理由があれども確かに犯人にとって都合が良いから人体が切断されるんですよね。バラバラ殺人の犯人が知能犯の場合、持ち運びがし易く処理が簡易だと想像できますが、猟奇者はその個人によって犯行動機は千差万別。ところで、三善さんが関与した老婆の殺人事件は、どういった理由で四肢を節毎に斬られたのでしょうか?」
「単(ひとえ)に纏めて述べるなら、犯人は老婆が三人いると思っていたわけだよ」
「三人? えーっと、多重人格だから三度に渡って殺した、ということですか」神津は興味を失ったような顔をする。「何だ、真相はそんなものですか。謎といえる謎ではありませんね。正直がっかりです。なんでそんな簡単な事件に財団は手を拱いていたんです?」
「まぁ、ぶっちゃけやつがれも、それほど大した事件ではないと承知しておるよ。財団がいき詰まった理由は、認識障害やら精神汚染やらありもしない角度と方向から事件を解剖しようとしたからだろうよ。真っ当に考えれば、その事件は難しいものではなかったのだ」
「あー……確かに、存在しない筈の人間がいると証言されれば、財団職員は咄嗟に認識障害の方に疑いを向けますね。悪い癖です。……しかしところで話を戻しまして、老婆は四肢を切断されたとのことですが、どうして斬る必要があったんです? 三人いると誤認していたとしても、即死を有さない末端部分の切除なんかやるだけ無駄ですよ。危害を加えたとき、悲鳴を出されて近所の人が通報し事件が発覚……なんてこともありますし、殺してバラすにしても人間の腕は、骨の芯と、筋肉の繊維と、皮の保護膜がコーティングされています。人体を切り落とすのは中々重労働だ。それに、血液なんかの問題もありますしね……」
「確かに四肢の切断は非常に疲れる。しかも、西瓜を切るのとは違って、それなりの決心が必要だ。だが、補足情報として伝えておくが、被害者の左腕と、右足は義肢でね……左腕は肘から下が機械で、右足は膝から下が義肢。バラバラ死体は機械を外したのではなく、生身の箇所を切断したものであった。まぁ……バラしたことには変わりなかろうよ」
そして重要な情報として『被害者は義肢の二つを魂のある人間だと認識していた』と三善は続ける。
「義肢を人間だと思っていた? 何ですか、ソレ。機械の部品が、一個の人間であるだなんて思い込むのは常軌を逸していますよ」
「だから、少し前に云っただろう? 老婆は三つの人格があると、そう思い込んでいたのだと……」
三善は灰入れに刻み煙草の粕を捨て、新しく煙草を吸い口にねじ入れ、燐寸で火を点け紫煙を燻らせる。
「老婆の思い込み……それは九十九神の概念というより、人形(ヒトガタ)に対する感情移入に近いのかもしれない。いや、臓器移植における記憶転移、かな?」
「あぁ……心臓移植を受けたら、好みや人格に変異を来たすって云うアレですか。理屈の上では、人形を人間と思い込むのはわかりますが、しかしそれにしても、機械の左腕ですよ? そして右足の一本です。擬人化された感情を抱いたとしても、そこまで盲目に考えるのはちょっと……」
「人間はヒトガタの形状をしていなくとも、他物質を人間であると思い込むケースは多々ある。たとえば野球選手にとって商売道具であるバッド。素人にとってその道具はただの振り被る棒状の物体でしかないが、かの有名なイチロー選手はバッドを粗末に扱うことを許さないと聞いておる。非常に悪い云い方をするが、バッドなんてものは、怪しからん無頼の中では人を殴る凶器としか捉えておらん者もおるのだ。そういった奴等は、バッドを生き物に接するように取り扱ったなんぞなかろうよ」
「野球選手にとってバッドは、苦楽を共にした友人のようなものですからね。それは分かりますが、人格があるとまでは思っていないと思います……」
「粘るねえ。それじゃ、次に心霊写真。俗に死霊や亡霊が乱入して来たものだね。真相というかタネ明かしとネタバレをすれば、心霊写真はデジタルカメラに移行するに応じて、パッタリ見なくなった。幽霊だと思い込んでいたのは、ただの映像技術の未熟がゆえに生じたバグだ。しかし亡霊が映っていると信じきっていた時代は、肉体の一部が欠損するか増殖した人体を複数霊の影響だと思い、∵に配置された模様を見れば人間の顔であると認識していた。霊にしても悪霊にしても、それら存在は人間の事を指す。人が残した無念や恨みに勝手に一人で妄信し、恐怖していたわけだ」
「えっと、心霊写真の正体が動物霊であるケースもあるんじゃないですかね?」
「それは自称霊能力者が、相談者を落ち着かせる目的で勝手にのたまった事じゃないかね? 或いは見識者と思われたいがために適当に放言したのだろうよ」
三善は少し不機嫌そうに云う。どうやら彼は、霊能力者に対して信用をおいていないらしい。
「さて……普通、被写体に通常ではありえない歪みが発生していた場合、真っ先に動物霊だと思う者は少なかろう。撮影場所が稲荷神社や動物園ならば分かるが、大抵、死んだ人間の霊の仕業であると判別してしまう」
ほぼ無条件かつ極自然的に、だ。
三善は浅く煙を吐いた。
「老婆は義肢を大昔から装着していた。年相応のボケと認知症、そして譫妄症による妄想が絶妙な具合に統合合致し、思い入れのある物質を――擬人化された感情から掛け離れたものへと変質させ、認識しておった。機械の肉体を一個の人格として接するようになっていたのだよ」
「……もしや犯人は、老婆の振る舞いを見て、人格があると思い込んだということですか?」
「そうだ。追加情報になって申し訳ないが、豈図らんや、犯人はかつて臓器手術を受けていてね。他人の肉体の一部を貰い受け、性格が様変わりしたと云う。だから、老婆の云わんとすることが……その気持ちに、同調と同意を示すことが出来た。深く話し込み、対話することで信じ切ってしまったのだよ」
「同調……質問なのですが、同じ考え方を持つ人同士なのに、なぜ殺害してしまったのですか? 思想に同意するということは、少なくとも好意的な感情や、尊敬の意があったということでしょう? 普通、気の合う人を殺さないと思いますよ。殺害理由は何です?」
「犯行動機は、非常につまらない話だが、ただの金目当てだ。犯人は、再び臓器手術を受けて新しい人格を宿し、『大家族』を作りたかったらしい……」
人間の思い込みの力は凄いよねえ……と、三善は締め括りながら、煙管の吸い口から灰を落として、本体を布製のケースに仕舞った。神津はその間、三善が話した事件のエピソードの概要を纏めようと、胸元からペンと手帳を取り出して、さらさらと記載していく。
三善はかつて神津が解決したという、雪山の洋館で発生した密室殺人事件の詳細を知りたいと思い、少しだけ逡巡したが、咽喉の渇きを解決した方が先決であろうと判断し、休憩室から少し離れた位置に設置された自販機へ向かう。小銭入れのがま口財布を袂から取り出そうと腕を伸ばした矢先、携帯電話の電子音が鳴り響いた。三善はすぐさま袂からスマートフォンを掴んだ手を出した。
「はい、もしもし」
三善は液晶画面をタップして、通話に応じる。電話の掛け主は神山博士であった。通話口から聞こえてくる彼の口調は非常に落ち着いた冷静沈着なものであったが、嫌に真剣みと硬質さを帯びた真面目なものである。
「三善悪様さん、あなたに仕事の依頼です。よしなし事を語っている暇はありませんので、おっとり刀で単刀直入に申します。いきなりで申し訳ありませんが、今すぐサイト-8181の収容室に向かって下さい。密室殺人事件が発生しました」
「収容室? あー……神山博士、非常に申し訳ないのだが、やつがれは収容室をはじめとした、あらゆる密閉された部屋――いわゆる『密室』に近寄ることは許されておらん。1+1が2になる如く、いわんや密室+探偵の回答は、密閉された室内の開放となろうよ。やつがれが該当地区に近寄るだけで全てのドアが開き、パンドラの如く有象無象が解き放たれ、大規模な収容違反が発生することであろう。やつがれが近寄るならまだしも、その構造物に入室することは許されておらぬ。ならぬ……ならぬのだよ」
「例の探偵の属性のことですね? ご安心を。その収容室は独自に孤立した部屋です」
神山博士は次いで、三善が近づいても何も起こらないと保障するように、建物の構造や警備体制のことなどを述べた。
「そんなら安心でしょう……ところで博士、密室殺人事件の状況はある程度認知したのですが、被害者は誰です? 加害者はオブジェクトだろうか?」
「加害者は真中央。被害者はイトマキ兄弟のどちらかがです」
三善は驚いたように目を見開いた。彼は博士に電話を貰うまで、影を追い尻尾を掴もうと躍起になっていた犯人が、すでに財団で囚われていることを知らなかったのである。彼が少し前に「自分は密室を解放する特性を持っている」と口にしていたが、上層部は明智小五郎が捕らえた怪人の脱走劇がお約束化されているように、上級職員は犯人の逃亡を危惧し、口を揃えて口を閉ざしたのだ。
この探偵の性質について、三国技師の解説を述べるなら『探偵は密室を開放する存在なので、犯人を封鎖された室内に閉じ込めることが出来ない』と云う文言である。その解説について真偽の方はまだまだ検証の余地があるが、それほど場違いでないもののように思われた。
三善は意図的に冷静さを強いた声調で「今から早急に向かいます」と、答える。彼は平常心と通常通りを心掛けるように、両目を閉ざしながら、以下の文言を口にした。
「探偵は傲慢な生き物である事はご承知でしょうが、それを良いことに許容範囲内の閾値を超えた無礼を働いてしまうかもしれません。悪しからずお願いします。どうぞ、良しなに」
8
神山博士からの一報を受けた三善悪様は、事件現場に三十分足らずで訪れた。三善は室内の状態を直接確認するため、殺人現場の物色を開始する。5m四方の部屋、天井には照明器具と換気扇が設置されているだけで、殺風景なものである。部屋の中央部の床は血液に汚染されているが、それに反して壁は血の跡さえ認められず、外傷など一切ない無傷の状態である。凹み、歪み、弛みなど、一切なかった。
室内で唯一の物質と云える物質は、堅牢な拘束具のみだ。三善は既に酸化し赤黒く変色し、パリパリに乾ききった拘束具のチェックをはじめる。彼は入念に捕縛具の状態を確認したが、血液に汚れているがそれを除けば新品同然の状態であり、壁と床同様破損した部位はなかった。
三善は首無しの胴体と、少し離れた場所に転がった生首を見る。むんずと髪の毛を掴み、壷の鑑定をするように眺め眇めた。三善が特に注視したのは咽喉仏の部位だ。大きな口を持つ獣に食い付かれたように惨たらしい傷を受けているが、よくよく露出した肉を観察すれば、首筋の裏に噛み砕かれたと思しき痕跡があった。
「太陽技師、この部屋に施されたセキュリティシステムの確認をしたい。どういった警備体勢が敷かれてあったのだろうか……?」
「うん? 警備システムかい?」技師は腕まくりをしながら、すらすらと述べる。「まず室内全体には、監視カメラによる中継、サーモグラフィ、体重測定器、カント計数機。ドアには暗証番号、指紋・網膜認証、カードキーによる検問をクリアしない限り出入りは出来ない。ドアの内側にはノブは無く、もしも室内から出ようってんなら、財団製超合金、厚さ10cmの外壁を破壊しないと、脱出は不可能だ。ちなみにアベルや不死身の爬虫類でない限り、壁を破壊することは出来ないだろう。それぐらいの自信がある」
「厳重ですな。しかし、仮に密室内から脱出したとする……それほど強い警戒が敷かれているのであれば、廊下の方にも何か仕掛けていますよね?」
「あぁ、勿論だとも。収容室内にいるおよそ56kgの物体が、2m以上の移動が認められた瞬間、廊下に出る間も無く即時、室内と廊下から催眠ガスの放出と、致死性と外傷を伴わない物理攻撃が行われる。ちなみにタイムラグは最遅で0.3秒だ」
「そのセキュリティシステムの解除法はどういったものだろうか? 具体的に教えて欲しいのだ……」
「セキュリティの解除法は、ここから5km離れた場所にある監視システムが実行している。食事、面談、尋問時に連絡さえ寄越してくれれば、一時的に解除される。ちなみに食事はロボットが運送予定であった」
「カナヘビさんらの対面後、ロボットを含め密室内に入室した存在はありますかな?」
「いないね。食事の時間もまだだったし、対面を希望した人はいないよ」
「食事……この部屋には体重測定器が設置されているとのことだが、食事や排泄に応じて重量の計算が行われると考えても構わぬか? そこで質問なのだが、真中の死亡前後に体重の変動が発生したと思う……どれぐらいの量が減少、もしくは増加しましたか?」
「体重の変異? 本当に僅かながらであるが、体重が数十グラムほど減少しているよ。これは魂が抜けたことによって重量が減ったのではなく、血液が乾き、水分が飛んだことによる重量の変動だろう。減りこそしているが、体重が加算された事実はない」
「ということは、侵入者が密室内に入り込んで殺害したという線は薄くなるな。う~ん、だとすれば原因は分からぬが、カマイタチが発生したのだろうか。真空なら、地球上のどこにでもあるし、改変能力さえあれば可能十分だろうし……」
「いや、それはないだろう」
太陽技師は首を振り、否定しながら壁を指差す。その壁はまっさらで汚れひとつなく、傷一つない綺麗なものであった。
「カマイタチって、烈風と比喩されるほど強い風のことを指すんだろう。その場合、血液が最低でも後ろの壁に付着してなきゃおかしいぜ? それに首を斬る……どれだけ血液の飛散を阻止しようと慎重に刃物を振るにしても、凶器をゆっくり鋸のように左右に切り刻んだとしても2.5m先の壁に一滴もついていないのはおかしい」
三善は護衛用の武器、短刀・刃毀(はがく)れを手遊みしながら、密室周辺に設置されていたカント計数機の変動について尋ねるが、数値の値は平常値であった。改変能力が使用された痕跡はない、ということである。
「というか、そもそも奴は麻酔剤で眠っていた状態なんだよな。覚醒時における自律行動は不可能……だとすれば、外部犯と考えるのが妥当だろうが……」
しばらく沈黙の後、三善は太陽技師にぺこぺこと頭を下げながら謝礼を口にし、片手にぶら下げていた首をぞんざいな仕草で手放す。凝固したとは云え、粉と化した血液の汚れを気にしながら、次に彼が向かったのは監視室である。真中死亡時の様子を見ようと思い、訪れたのであった。
監視員に事情と説明し、三善は密室内で何が発生したのか監視映像を確認した。その映像内容を一通り見た後、次にはコマ送りでじっくり眺めた。
密室内の映像記録を簡潔に纏めるなら、拘束具に捕縛され身動(みうご)きできず、睡眠剤で眠っている真中であったが、寝返りを打つ仕草のように俄かに身動(みじろ)ぎした直後、首にぷっつりと赤い筋が入り、次いで荒々しい傷口が作られ、ぼとりと首が転がった。首が落ちるまでの時間は、たった数秒である。
斬首時に当然のことながら血液が溢れ出るが、強い衝撃を受けたことにより生じる飛散するような動きではなく、樹液を豊富に有した樹木が真っ二つに倒壊し分泌液をだらだらと零れさせたような印象があった。云うなれば、ちょっとした衝撃でコップが倒れて、水が溢れたようなものであろう。
三善は死亡時の様子を見て、どうして壁に血液が全く付着しなかったのか最低限その理由を知り、映像記録内容を頭に叩き込み十分に熟知しながら、煙管を吹かす。彼はしばらく回転椅子に腰掛け、緩やかにくるくる回転しながら、無言のまま幾つかの仮説を立てていた。
その理詰めと理屈合わせによるパズルの埋め合わせは、五分程度で終了した。三善は煙管をテーブルの上に放置した後、パソコン近くに設置された電話を手に取る。内線番号を確認してかける先は、財団の保安部と人事部だった。
三善は二部署から情報を入手するため、数分ほど相槌を打ったり質問を行った。数分ほど時間が経過し知りたいことを知った三善は、受話器を元の場所に戻し、目を開きながら以下の発言をした。
「解けた」
9
「これから解決編に入りたいと思います」
エージェント・カナヘビ……小鈴谷博士……密室を防衛していた機動部隊……【彼】なのか『彼』であるのか判別のつけられなくなった「彼」……事件発生前に犯人を目撃していたヨコシマ……上層部職員数名が集った会議室にて、三善は開口一番、上の言葉を述べた。
「事件が解けたなら、書類に纏めて提出してくれたらありがたいんやけどねえ。何、この中に共犯者がおるわけなん?」
そう苦言を呈するのはカナヘビである。三善は苦笑しながら「探偵の様式美ですから、我慢してください」と答えた。
「さて……密室殺人事件。外部からの接触が遮断された、脱出不可能の密閉された空間。まず手始めに、この密室の状況を説明したいと思う」
一つ、事件発生時、密室に入室した人間はいない。
二つ、実行犯と被害者は同一人物である。共犯者もいない。
三つ、入れ替わりや替え玉などのトリックはない。
四つ、認識障害や現実改変等、オブジェクトの関与はない。
「ざっと纏めるとこんな感じですかな。まず密室からの脱出方法について説明します。真中は自害後、独自に保有している『転生』を実行した。真中の持つ『転生』とは、自分の子孫に乗り移ることができるというものだ。その憑依法のメカニズムは心理遺伝を応用したものと定義付けられております。密室脱出後、今頃奴は新しい個体を会得し、大手を振って大空を闊歩していることでしょう。クソ忌々しい」
三善は唾棄し悪態を吐くような態度で、密室からの脱出法について軽く説明したが、真中の脱出法は皆が承知していることである。一番知りたい情報は、そこではない。皆が疑問に思っているのは厳重に管理された密室内で、意識を持っていなかった真中がどうやって物理的な外傷を得、死亡したのかという疑問点である。
三善はそれを分かっているのか、さっさと次の説明を開始する。
「……して次に解説するのは、皆が疑問に思っているだろう自害の方法についてです。その当時、真中は肉体を強固に捕縛され、明瞭な意識のない状態だった。物理的に指一本動かすことすらできず、明確な意思はない。その条件下だと殺害方法は普通外部からの関与を疑いたくなるのが人情ですが、それは間違いだ。真中は誰かの手助けや、そして――オブジェクトを使用して、自害を実行したわけではない。やつがれは喋々喃々語ったり、勿体振ったりするのが嫌いだから、簡潔に一言で事件の真相を紐解こう。真中央は『思い込んで』自害しました」
「思い込んで? 何やの、それ……?」
カナヘビの疑問を含んだ声。皆も意味が分からないのか、眉を顰めた顔である。
「そのままの言葉の意味ですよ。特筆すべきは、『思い込み』で死んだのではなく、『思い込んで』自害したと云うわけだ。微妙なテニヲハの違いですが、自主的に首を獣に――狼に咽喉笛を喰い付かれて死ぬよう、深く深く想像力を働かせたのだ」
三善は云う。
「思い込み……勘違……通常、思い込みによる症状は認識上における症例が主だが、条件さえ整えれば物理的に、形となって肉体面にも現れる。思い込みによる有名な実験を挙げるなら、目隠しした被験者に水の蒸発する音を聞かせ熱々のスチームアイロンを当てると宣言し……実際は高温を有さない、アイロンの形を模した木の板を当てると接触箇所に火傷が生じた……なんて話は、一度ぐらい聞いたことがあろう?」
真中の思い込みは、アイロンの実験の延長線に属するものなんですと、三善は纏める。
「ところで自害を実行するための仕込みについてだが……青酸カリのような猛毒を奥歯に隠し、あるいは自爆スイッチを手術で肉体に埋め込んだり、何時でも発動できるよう常備する必要がある。これはやつがれ独自の想定となるのだが、自分の首が落ちる少々風変わりな自害方法のダウンロードは……恐らく……真中がイトマキ兄弟のどちらかの肉体を乗っ取った時点から開始されていたのではないだろうか。具体的なダウンロードの開始時を列挙するならば、兄弟の個人ルームに掛けられた軍服を見た時、かつて犬神として使役されていた狼の血が流れるチロ警備犬の姿を視認した時か、ヨコシマに捕縛され収容室に連行される時のいずれかござんしょう」
「……自害法を発動させたのは何時や? 真中は自然睡眠ではなく、薬物投与による眠り……強制的に意識を奪って気絶させたようなもんやで。夢っちゅうもんは、ふわふわしとる。そこまで思い詰めるのは不可能ちゃうん?」
「自害法発動のタイミングは恐らく、カナヘビさんらが出て行った後か、睡眠剤が投与される直前であろうよ。その時点で既にインプット済みだから、あとは承認ボタンを押すだけだ。彼は想像するだけで、自死のボタンが押せたのだよ」
「自死法は既にダウンロード済み、ボタンは手早く押せる……ところで、そこまで強く思い込むに至る経緯って何? プラシーボ効果……いや、ノーシボ効果を体現するまで想像するのって、ただごとじゃないでしょう。真中って、記憶処理剤を開発した人だったっけ? そう思い込むよう、自分の脳を記憶処理したのかな?」
上記の質問をしたのはヨコシマだ。三善は「その可能性は十分あり得るが、未知の薬毒がミステリーに登場してはならない。よって、具体的な根拠を挙げましょう」と云う。
「真中の自害……想像するだけで体現可能なプロセス。遺骸の外傷は、鋸で削られたような荒々しいものだった。ところで……アイロンの実験に再び視点を戻すが、この実験……そもそも、被験者がアイロンの形や使い方を知っていないと設立しないものなのだ。スチームアイロンの形状ですが、先が鋭利に尖がった、少々歪な三角形状をしている。傘や自転車のソレと同じく、多少例外はあるでしょうが、アイロンの規格は全て同型なのだ」
三善は腕を組みながら、右から左に皆の前を闊歩する。
「……そして、真中の首に生じた、獣に咽喉を食い破られたような傷口……やつがれは最初、犬に首を喰い付かれた経験があったから、リアルに想像できたのだと思っていたが、それは違っていた。……その根拠として、普通、自分の咽喉元が喰い付かれた時、その傷口を精密無比に視認することができるでしょうか? どのような状態になっているのか精巧至上に認識することが出来ると思いますか?」
「鏡さえあれば……」
「否(いや)さ。首が落ちるほど、抉られているのだよ? 多少タイムラグはあろうが、ほとんど即死のようなもんだ。そんな状況で、鏡なんぞじろじろ眺める暇などありえんよ」
三善はヨコシマの言葉を否定しながら、記録映像を思い出す。真中の首が落ちるまでの時間は、たったの数秒だった。
「たとえば、クルマに轢かれ致命傷を負ったとする。横合いからの衝突により身体が浮き、地を転がる。視点が強制的に揺らぎ、痛みとショックによって意識が朦朧とする中、自分の身体の状態をつぶさに確認することなんか中々出来るもんじゃない。たった数秒で認識し識別できるもんじゃなかろう。大雑把にしか認識することしかできぬよ。しかし、真中の傷口の再現――否、顕現は、咽喉仏の正面から首筋の裏側まで及ぶものであった」
「首筋? 自分の頭の後ろってどうやっても見えないんじゃ……」
「そうだ。見えない。首が弾け飛び舞うにしても、胴体に繋がったままグルリと一周捩れたとしても、視野に納められない。首というのはね……やつがれの言葉通り実証してもらっても構わんが、顎を引いて視界に納めようとしても、見れないものなのだ。どれだけ頑張って視野に納めようとしても、胸板や谷間が目に入る程度だ。鏡や写真を介した間接的な手段じゃないと、自力で見れない……」
「じゃあ――もしや、真中は他人が食い付かれる様子を、見ていたということになるのか? しかし、一体誰の……」
小鈴谷の言葉に、三善は頷いた。
「誰の外傷を見ていたのか、その裏付けは取れています。真中の経歴の話になるが、奴は四国・徳島県で生誕。四国と云えば、憑き物筋たる犬神の本場であったな。しかも真中家は、憑き物筋の大本山かつ大家であったそうだ。当然、真中の両親も、そして当人も犬神を製造していた。犬神の作り方というのはご存知ですか? 穴に埋めて、目の前に食べ物を置き、飢えさせる。獣の恨み辛みが十二分に蓄積したところで、首を切り落とす……というものだ」
「その呪物には効果があるのか?」
「さあ? それは分からぬが、現在財団が収容しているようなオブジェクトとは違った、ただ虐待された、ただの動物の死骸……異常性など無かろう。しかし、不幸や災厄が発生すれば、スケープゴート的に人々が妄信し信仰していたようだから、まったくのパチモンや紛い物であったじゃなかったみたいだ。あると思えばある……災害や悪事が発生すれば、スチームアイロンの実験の如く、無辜の人々は犬神の仕業であったと思い込んでいたわけですな」
さて……と、三善は話を切り戻す。
「人を呪わば穴二つ、式神や使い魔のようにして使役される犬神。当然、その呪物が必要とされているわけだから、新たに製造する必要がある。強い呪物を得るために、真中家は犬だけでなく、海外から取り寄せたタイリクオオカミを使って製造していたことさえあったそうだ。……そしてある日、真中家でオオカミを素材にした犬神の製造を実行していた真中の父親が、不慮の事故で死亡しました」
いや、事故じゃないさね。当然の報いだ。
三善は独り言を呟く。
「……海外から取り寄せたオオカミを地中に埋めて、首を切り落とす。斬首されたオオカミの頭部は刀を振るったことによる衝撃か、それとも犬自身の怨念を原動力にした火事場のクソ力だったのか……衝撃か踏ん張りなのか、胴体から切り離された首は、父親の方へと飛んで行き、その咽喉元に喰らい付いた。骨身を易々と噛み砕き首を落とす、異常な威力であったようです」
「真中はそれを見た……父親の外傷を細かいところまで確認したということか」
「そうだ。財団にいた頃の真中はオリジナルの肉体を保持しておった。そして転生法を作ったのは財団で働いていた頃のものである。奴が喉笛に噛み付かれ食い殺されたとなれば、辻褄が合わないのだよ」
小鈴谷の呟きに答える三善。外傷について説明が為され回答をもらったがヨコシマであったが、ハッとしたように声を上げた。
「え? でも、ちょっと待って。真中が傷口を見たってのはいい」ヨコシマは首を捻りながら、質問した。「でもそれって他人の経験でしょう? 親様とはいえども、自分が感じたことじゃないじゃん。体感はしても経験はしていない……そんな出来事を、自分の我が身に勘違いさせることはできるの?」
「他人の痛みはある程度共感できるものだよ。例えば、やつがれが魚の骨が咽喉に刺さった事を話せば、どういう痛みであるのか共感はできよう? レモンや梅干のことを想像すれば、食っていないにも関わらずバフロフの犬の如く、擬似的に口内で再現することはできる。真中が他者の傷を体現できる根源的理由は、親の経験値がそのまま子に伝承される心理遺伝の作用も関係しているだろうが……それ以上に、真中は意図的に自分を騙しているのであろう」
「意図的にって……自覚しながら勘違いするって、無理なんじゃないの?」
「真中は非常に巧妙な嘘吐きだ。何せ、奴いわく“正直に騙すことが”できるんだからね。そんな詐欺、ペテン、如何様氏……真実を真正面にぶつけて、騙まし討ちと不意打ちができる嘘吐きのハイエンド……最早、虚言を云う必要すらないレベルだ……決して不可能じゃなかろうよ」
それに――と、三善は言葉を続ける。
「真中は元来、思い込みの強い人でね……その具体的な例を挙げるならば、かつて彼は『人間は地球を滅ぼすために生まれた』と考え、破壊活動を行っていた。その強烈な勘違いは、やつがれにより正されている……が……しかし、この話は別次元の財団の話になるゆえ、あなた方にとっては夢物語のような、確認の取れない曖昧なものように思われるやもしれん。そこで……」
身近な例として――
三善は云った。
オダマキかイトクリか判別の出来なくなった「彼」を煙管で指しながら、云う。
「そこにおわす「彼」も、随分と思い込みが強い人のようだ。いやはや、親は子に似るものよ」
三善の指し示す動作に合わせて、その場にいるもの全員が一斉に「彼」を見た。「彼」は僅かに目を細めさせたが、何も答えることはない。それは無視したのではなく、何も云うことがなかったのだろう。
「ご周知の通り、イトマキ兄弟は度々自分が誰であるのか、どちらであるのか分からなくなってしまう事があると聞いております。記憶喪失及び障害など発症していないにも関わらず、兄が弟に、弟が兄になる。この症状こそ、思い込みの強さそのままではあるまいか?」
「いや、ちょっと待って。彼らは記憶の混濁が……共鳴し共感し共通している。それゆえ、区別が曖昧になるのは当然じゃないか?」
「いいや、当然ではない。たとえ記憶の混同が起きたとしても、黒の役割、白の役目を判別できることは可能だ。過去の記憶、幼少期等を思い出し、自分が誰であるのか再認識すれば良いだけなんだ」
殊に兄は医者として育てられてはおらず――
弟の方がそうあるべきと教育されて来たんでしょう。
区別は明瞭だと、三善は云った。
「一時的な混乱が生じてしまった……それは分かりますが、ほんのちょいっと他人の記憶が混入しただけで、アイデンティティーが揺らぐ……おかしな話だ。因みに、やつがれは兄弟のことを人事部に調べてもらったのだが、彼らが自分のことを間違えた回数は十二回。記憶の混入が発生した数は、たったの六回だ」
「え? 思ったより、少ないなぁ……」
「少ないであろう? █年██ヶ月の間で誤認識数、六回。混入数、十二回。決して少なくない数ですが、絶対に多い数とは云えない……一時的な混乱はあるだろうが、自分のことが不明になるほどのものではなかろう。それだのに、【彼】は『彼』であると思い込んでしまった。『彼』が【彼】であろうと判断してしまう――異常だ」
そもそも、彼等が勘違いしてしまう理由と云うのは――
三善は「彼」を覗いながら、語りだす。
「彼らの自己境界線が曖昧な理由……それはね、彼らが双子ではなくクローンである理由が関係している」
「クローン……?」
「真中央は人為的に双子を製造可能な技術を持っている。本来「彼」は、双子ではなく一人っ子だったんだろう。しかし、父親の勝手な意思で一人が二人になってしまった……【彼】にとって『彼』は、状況や環境の異なった自分であった。『彼』にとって【彼】は同じ時空と時間に存在する自分であると認識していた。その感覚と価値観を分かり易く簡易的に説明するならば、並行世界の己……とでも云っておこう」
「並行世界……パラレルワールド……」
「そして記憶混濁、誤認識についてだが、恐らく【彼】と『彼』は予期し予感していたのだろう。いずれ片方が真中に憑依され取り殺されてしまうことを、本能的に察知していた。だから、どっちが死んでも良いように予行練習として、バックアップを行っていたのだよ。【彼】と『彼』のどちらかが死んで「彼」が生まれても良いように、記憶を吸収して振舞う必要がある。さながら、母胎内の胎児が指しゃぶりしたり、欠伸をしたり、笑ったりするように練習していたんだ」
「それって、要は多重人格者になったと云うことですか?」
「それは違う。多重、黒と白が重なり合い灰色になったわけじゃあない。多重人格ではなく、同一人物だ。彼はもう二度と勘違いなんかしない。間違えない。誤らない。灰色にはならない。変色したのではなく、脱色したんだ。憑き物が落ちたように、透明になったんだ」
「透明……?」
「彼にとって黒や白は立場の違う己自身だ。【彼】は【もしも自分がカルト教団に入っていたなら、このような性格になっていただろう】と、思い込み振舞っていた。『彼』も『もしも自分が医者として育てられたら、このような性分になっていただろう』と思い込み、演じていた。片割れが死んだ事で、強調するように振る舞い演じる必要がなくなり、黒は白濁に塗れ、白は汚濁に流され、両色はごっそり抜け落ちた。色彩のないそれは、正しく透明。「彼」は、本来の自分を取り戻しただけだ」
細胞分裂のように懸け離れていたものが合わさる。重なり合うのではなく、パズルのピースのように繋がった。
螺旋状に絡み合っていた糸が解け、一本の筋となった。
真中の手により、異常だったものが正された。
本来の一子になった。
プラス、マイナス、ゼロ……元に戻っただけ――と、三善は云う。
ヨコシマは奇異なものを見るように「彼」を眺めながら、探偵に訊ねる。
「オダマキさんの悩みはなくなったのですか?」
「なくなったよ。何せ、死んでいる。いや――生きていないだけであろう」
「イトクリさんの苦しみはなくなったのですか?」
「なくなったよ。何せ、死んでいる。いや――生きていないだけであろう」
「……ここにいるのは誰なんです? どちらの肉体なんですか?」
「お前はその回答を得たとして、「彼」をどのように取り扱い接するつもりなのだ?」
三善は少々取り乱し始めたヨコシマに対して、あえて厳しい声を出した。冷ややかな態度に一瞬臆したヨコシマだったが、「ぼくは心境を整理したいだけだ」と答える。
「……やつがれの関与することじゃないか、まぁ良かろう。小田さんと伊藤さんの親戚である横島君が知りたいのは当然か。そうだな……ここにいるのが誰なのか――ヒントはある」
三善は煙管の煙草の入れ口に丸めた刻み煙草を押入れ、燐寸で枯草を炙り煙を燻らせながら、そのヒントを口にした。
「……代替品」三善はふうと浅く紫煙を吐く。「そもそも真中は、女のためだと思わなければ、どれもこれも第一子のみで良かったはずだ。どうして偽物が生まれたのか、弟の必要性が求められたのか、その点に重視すればおのずと答えは分かるものであろう。ちなみに納棺師がオリジナルで、外科医が模造品だ」
しかし――結局のところ――
「どっちがどっちでも構わぬのだろうなぁ」
三善は目を開きながら、煙管の先から流れ消えていく白い煙と、それに反して残った黒い焦げ跡を見詰めながら意味深に答えた。
「痛みますか」
「いいえ、あなただから、あなただから」
かく言い懸けて伯爵夫人は、がっくりと仰向きつつ、凄冷極まりなき最後の眼に、国手をじっと瞻りて、
「でも、あなたは、あなたは、私を知りますまい!」
謂うとき晩し、高峰が手にせるメスに片手を添えて、乳の下深く掻き切りぬ。医学士は真蒼になりて戦きつつ、
「忘れません」
―泉鏡花「外科室」より抜粋
伊藤遊佐(2000/12/31~)
小田祐馬(2001/1/1~)
(中略)
女性:……ええ……ああ、はいはい、あの伊藤さんのことですか? よくご存知ですよ、何せここいらでは有名ですもので。あんな事件があった上に、田舎なものですから。そもそも……あの事件以前にお医者様として有名でしたので、それに院長様ですから……知らない人はいないでしょう。
科は外科医ですかって? 違いますよ、内科医だったと思います。二十数年前まで産婦人科か小児外科でメスを握っていたらしいですけど、……もう二度と握らないだとか。何故なのか分かりませんが……。
それで一体、伊藤先生がどうなさいましたの、わざわざ新聞記者さんがお尋ねになって……まあ、伊藤先生の息子さんのことですか、ええ、あの子のこともよく知っています。お父さんの背中を見て育った所為か、お医者になりましてね。いいえ、でも実の息子ではないんですよ、奥様の連れ子だそうで。あの子の本当の父親は未だ不明のままです。本当に誰が父親なのかわからないのよ。……見当はついていますが。
あのお家は少々複雑な家庭でしてね、その事情に関して皆知っております。表立っていえることじゃないし、先生はホントウにご立派な方ですし……ネ……。それで……伊藤先生が何かまた問題でも起こしたのでしょうか?
……あ、違う、ソウジャナイ。じゃあ、どうして、お聞きになるの……? まあ、先生の息子さんが、新聞に? それで、わざわざこんな片田舎までおいでになったのねえ……他人の家の秘密をベラベラ喋るのはイケナイことだけど……まあ、でもね、教えてあげないことはないですわ……誰にも内緒ですよ?
複雑な家庭と言いましたが、そうですねえ……まず、伊藤先生の奥さんのことをお話いたしましょうか……でも、あなたの頭が混乱してしまうかもしれません。何故かって? 実はわたくしらも本当は『どっち』かわからないままなのですから。曖昧に話してしまう癖がついているんです。
何が解らないままになっているのか……伊藤先生の奥さん一卵性の双子の姉妹なんですが……ええ、顔がソックリというよりも、そのままとしか言いようがない、同一の顔をした双子です。その双子の妹が、現在伊藤先生の奥様です。伊藤先生と奥様はイトコハトコの関係で、少し離れた親戚……となりますね。姉の方は……殺されてしまいました。
実は……姉の方は、別の男性と結婚していたのです、吾妻さんといいます……男の方は医者ではございません。普通のサラリーマンで、真面目で誠実な方でした。私も話をしたことがあるのですが、普通に温和な方でしたよ。まさかあんな優しい人があんなことをするなんて……吾妻さんは……姉を……自分の妻を殺してしまったんです。
これにはわけがあるんですよ。深いわけが……実は姉の方は浮気をしていましてね……浮気だけならここまで大袈裟にならなかったでしょう。しかし、姉は浮気相手の子供を身ごもってしまったんですよ。これは間違いのない事実です。何故かって? 二人が結婚して二年、三年、五年経っても子供の兆しすら来ない。どこか悪いんじゃないかって、奥さんは……ちゃんとした大きな病院へかかって自分の身体のことを調べたそうです。……結果的には奥様に問題はありませんでした。そうです、男の方に異常があったのですねぇ。無論、夫の方も検査したらしいですよ。結果はクロでした。
吾妻さんはそのことが非常にショックだったのでしょう。お酒を呑まない人だったのに酔いどれて、一軒二軒酒を飲み呑み梯子する、クルクル千鳥足で酩酊……奥さんには何も言わなかったらしく自分の身体のことは黙ったまま、ずるずると……ね……。そんな時に妻の身体に異変が起きたのです。お腹が大きく大きく膨らんでおかしい、調べれば子供を授かったと……。
最初、奇跡的に子供を授かったのだと吾妻さんは思い、ニコニコ恵比寿顔で笑い、ホントウに喜んでいました。まさか妻が浮気しているなんて考えすらしなかったでしょうね。彼は何も知らないまま祝福し、十月十日過ぎていよいよ臨月となった。待望の子供だ……と言いたいところですが、子供を宿したのは一人だけじゃなかったのです。姉だけじゃなく、妹の方も子供を授かっていたのです。
子供が生まれた日は、よく覚えていますよ。何せ大晦日でしたからね……30日の深夜に姉の方は破水して、除夜の鐘が鳴る前に生まれました。伊藤病院で出産したのですから、これは間違いない情報です。伊藤先生が取り上げたとか……。
同じく妹の方も……これこそが双子の奇妙さとでも言うべきでしょうか……31日に破水して、除夜の鐘が止む頃に出産した。つまり妹の子供の誕生日は元旦ですね。
妹の方には夫の存在はなく、ただ病院にも行こうにも時期が時期でしたから、救急車を呼んでも産科を盥回しにされ、トウトウ家で出産するしかなかったらしいです。……故郷から少し離れたところで一人暮らししていたらしいですが、一人で産んだのでしょう。
妹は出産してから、2、3年は誰にも知らせないでホソボソとやっていたようです。妹の相手ですか? 怪しい男ですよ。……そうです。何かの宗教をしている、へんてこな方だと聞きました。姉妹の相手だと一番有力なのが、この男です。
吾妻さんが何も知らない中……子供は育つ、スクスク健康に育つ。2、3年すれば子供はどちらに似ているか、ハッキリしてきますからねえ。子供は母親似ではなく、父親似でした。父親似といっても吾妻さんとは顔が似ていません。少々不審に思いながらも、それほど吾妻さんは気に止めていないようでした。
だけど、ある日……姉の家の方に妹が子供を連れて行った時です。訪問した妹の子供が、『双子のようにソックリ』だった。見比べれば見比べるほど、わが子の顔は全く自分に似ていない。……おそらくそこで吾妻さんは不倫の事実に気づき、こう思ったのでしょう。妹の相手が妻の不倫相手ではあるまいか、と。
裏切られた、自分の身体に至らないところがあった為にこうなってしまった、自身の悪かったかもしれないが、何より自分の妻が許せない……そう考えれば考えるほど許せなかったのでしょう。吾妻さんは刃物を取り出して、姉を刺し殺しました。彼は捕まりませんでしたよ。妻を殺してすぐ自殺しましたから。
事件はこれで終わった……と言いたいところですが、ただの不義不倫で終るような話じゃなかったんです。ここで複雑に絡んでくるのですよ、妹の相手の話が……ええ、一時期家に入り浸っていたらしい怪しい男の話です。
大晦日に生まれた子供は一夜にして両親を失ってしまった。それも事故ではなく、殺人で、です。警察に通報し、親戚一同集まって……姉の子を、誰が預かり育てるのか話し合いになりました。妹の子供はそのままで良いだろうが、まさか姉の子だけを孤児に出すわけにもいかない。引き取ろうにも色々混み合った事情がある。……その中でたった一人引き取りを申し出たのが、伊藤先生です。
伊藤先生は素敵にスバラシイ方で、子供一人引き取るだけじゃなく、妹を妻にして二人子供を貰い受けるよう取り計らっていました。しかし、先生と妹が籍を入れいよいよ家族になる寸前ヒョッコリ見知らぬ男……妹の相手、宗教男です……が、今更のように現れました。名前は「オダ」とか言ったかしら? そこからが壮絶な親権の取り合いですよ。結構長い間争っていました。
時期は一年か……そのぐらいですねぇ。その間、親戚の叔母が、子供二人を預かっていました。そういえば……あの子らはチョット不思議な子達でした。……よくわからない……互いに矛盾しあった言葉で会話していて、大人には何を言っているのかさっぱりなんですよ。まあ、何かの遊びだったのでしょうがねぇ……。ああ、それでそうそう、裁判の結果の話ですね……結末だけ話すとこうなります。
……姉の子供は伊藤先生の子供に。何故か妹の子供は親権を得ていた男の方へ……。詳しいことはよくわかりません。……恥は恥ですからね、人に言えることじゃぁない。だけど憶測は出来ます。妹さんは元々心と精神が脆い方で、事件直後からイヨイヨおかしくなって、タッタ一年で白痴当然になりました。この事から責任能力はないと看做されて、下の子を怪しい男にとられたのかもしれませんねぇ。伊藤家の家族構成はイヨイヨ奇妙でしょう。しかし、何だかね、それとは別件にあの家族はどうもおかしい……。
奥様は病院に出たり入ったりの繰り返しで、中々見かけることはありませんでした。でも、何度か公園に子供を連れている姿を見たことがありますよ。その時、うわごとのように「お兄ちゃんはどこ? お兄ちゃんはどこ? お前知らないかい」って何度も言っていたんですよ。ゾッとしました。
私はそのうわごとを聞いて、漠然とですが……もしかしたらここにいる女性は、殺されたはずの姉の方なんじゃないだろうかと思いました。ドラマや小説じゃないんだから……いくら何でも出来過ぎだろう……しかし、当事者の男女がすでに死んでしまっているでしょう?
私が思うに……ただの可能性や邪推でしかありませんが……夫は間違えて妹の方を殺してしまった……罪や咎のない無実の人間を殺めてしまったことに対する自責で自殺したんじゃないかしらん……。もしも、伊藤先生の奥様が事件のいざこざに紛れ、すり替わっていたのとしたら……?
そうすると伊藤先生の奥さんが「兄」を探す発言も納得できませんか? つまり、こう言いたいんですよ。伊藤先生が引き取った男児は姉の子供ではなく、元旦に生まれた子供だと。
妻側だけじゃなく、伊藤先生の方にも少し引っかかることがあります。先生は……事件が起きる前から、姉妹のことを好いていたらしいですよ。特に妹の方をね……。先生はもしかしたら、姉のことなんてどうでも良かったのかもしれません。ただ、妹が産んだ子供だけは手元に置いておきたい。自分の子供ではないが、愛した女の血を分けた子供であることは事実だから……。
つまり、子供の方も入れ替わってしまったんじゃないかという話ですよ。無論、あの姉妹の方も入れ替わってあることが前提ですがね。ああ……お子さんですか、あらゆる面で12月31日生まれの子として扱っていますよ。名前も「オダユウマ」ではなく「伊藤遊佐」として存在しています。
あの子は中々頭の良い子で、伊藤先生と同じ医者になる為、上京したらしいです。数年間戻ってきませんでしたが、チョット前にチラとお見かけしました。盆帰りだとか言っていましたねえ。
伊藤家は複雑な家庭ですが、十分幸せだと思いますよ。でもねぇ、言う人は言うんですよ。……「もしかしたら姉妹の不倫相手が伊藤先生で、子供を引き取ろうとしたのは当然コト」……ってね。けしからん奴の中には先生が吾妻さんを殺したって言う奴もいます。先生は妹の方を好いていましたからね、復讐したんじゃないかっていうことですよ。そう考えますと、あの怪しい宗教男が意地でも子供を引き取ろうとしたのは当たり前のことだったのかもしれません。
……まあ、どちらにしろ、有り得ない話ですよ、あんな優しい先生が……ねえ……。結局、真実は解らないままですが、最悪、二人の女親と三人の男親を持つあの子は……隅々まで瑞々しく業の深い子なんでしょうネェ……アハアハアハ……イヒヒヒ……。
SCP-███-JPを信仰するカルト教集団の一員にイトクリ博士(本名: 伊藤遊佐)の弟(小田祐馬)が入信していたことが明らかになりました。伊藤遊佐と小田祐馬の身辺調査と出生調査を提出します。‐20██/8/16 エージェント・海野一三
SCP-███-JPを信仰するカルト教団の一員、小田鏡司郎が福岡県と佐賀県の県境で殺害された状態で発見されました。財団エージェントは小田鏡司郎を殺害した人物を拘束しました。‐20██/8/18 エージェント・西塔道香
「お待たせしました。それでは……始めましょうか」
……と一言、足音と気配もなく、諸知博士がスタスタとセラピールームに入ってきました。私はドアが開き、声が聞こえるまで、手提げ鞄を手にした諸知博士に気がつきませんでした。博士は椅子を引き、私ら二人の前に座ってニッコリ笑いました。
人によっては諸知博士と私ら兄弟が一緒の部屋にいる事に不自然を感じる方がいらっしゃるかもしれません。しかしこれにはちゃんとしたわけがあるのですが……今朝、朝食を食べようとした瞬間、私のPHSが鳴り響く……おやと思い、出てみるとそれは諸知博士からの連絡です。……「今日のお昼の12時30分頃、オダマキさんとお二人合わせてサイト-8181内のセラピールームにいらっしゃってください」という事でした。通常ならば、弟一人だけで良いでしょうが、どうやらこの面談には特別な意味があるのでしょう、私は空き時間があることを確認し、承諾の返事をしたのです。
挨拶もそこそこ、二人を呼び出した諸知博士は手提げ鞄から茶封筒とアイマスクとヘッドホンを取り出しました。茶封筒を自分の方に置き、他二点を私の方に差し出します。意味が解らないまま、オズオズと受け取りました。
「イトクリ博士、少しの間それを着けてくださいませんか?」
「はあ……」
「少し試してみたいことがあるのです。終ったら肩を叩いて知らせますので」
試してみたいこと……それは一体何かしらん……何をどうしたいのだろうと、気に掛かりましたが、指示に従わず命令に逆らっても意味はありません。私は素直にアイマスクとヘッドホンを装着しました。
二点を装着すると当然のことですが耳が塞がれ、視界が閉ざされます……暗く静かだナと思い思い、背凭れに背中を預けました。パイプ椅子が軋む音は当然聞こえませんが、若干揺れたような感覚がありました。数分後、トントンと肩が叩かれ、私はヘッドホンに手を伸ばします。
どうやら……何をしていたのか知りませんが、諸知博士の『試したいこと』が終ったらしく、私はヘッドホンとアイマスクを外し、少し乱れた髪を整えました。諸知博士を見れば、正面に座り、茶封筒から出したと思わしき3枚の紙を眺めています。こちら側では裏面しか見えなかったので、何が印刷されているのか分かりません。
「イトクリ博士、今度はオダマキさんにそれを渡して下さい。オダマキさんはそれをつけてくださいね」
私は二点を纏めて、真横にいる弟に預けました。イソイソとアイマスクをつけている途中、諸知博士を見ました。博士が座ったままでいるということは、肩を叩いたのは諸知博士ではなく弟だったのでしょう。
「……それじゃ、イトクリさん。いまからちょっとしたテストをします。私の手元に3枚の写真があるのですが、何が見えるのか……どのように感じられるのかを答えて下さい」
「心理テストですか?」
「……そんなところです」
静かに諸知博士は答え、1枚紙を裏返し……私に表が見えるように示しました。示された紙は標準サイズの写真です。私はソレをマジマジと見詰め、認識します。
「では、1枚目。何に見え、どう感じますか?」
「ひび割れ、でしょうか。大きな亀裂が入っているように見えます。薄い青色の硝子……コップか何かに亀裂が生じたのでしょう」
「2枚目……どうです?」
「う~ん、虫食いかしら? 黒い紙かカーテンか何かに大量の穴が空いているように見受けられますね。点々と空いた小さな穴から光が差し込んでいるみたいです」
「……最後です。3枚目……」
「穴、でしょうか。明るいところに行くに従って先細っているように見えます。穴に落ちて見上げているのでしょうか」
「……ありがとうございます」
博士はゆっくり二、三度頷き、隣に座っている弟の肩を叩くよう指示されました。私は片手を伸ばしてトントンと彼の肩を叩きました。弟は身体を少し震わせ、ヘッドホンとマスクをイソイソと外し、諸知博士に手渡しで返します。
「ありがとうございます。……実は先ほど、お二人に同じ写真を見せたのですが……面白い結果となりましたよ。いや、こちらとしては予想通りというべきでしょうか。実はですね、この3枚の写真、二人はひび割れと、虫食いと、穴だとお答えしましたが、違うんですよ」
『え』
「1枚目、雲を含めた青空。2枚目、星空。3枚目、満月です」
『…………』
私は……私だけでなく、弟と自分の目を疑い、何度も何度も諸知博士が見せる写真をジロジロと確認します。1枚目を熟視しましたが、ひび割れのようにしか見えません。2枚目を看視しましたが、虫食いのようにしか感じられません。3枚目を凝視しましたが、穴のようにしか考えられないのです。
「いや、嘘でしょう。どう見ても穴と亀裂と虫食いにしか見えない」
背筋をゾクゾクと震わせ、全身の産毛は逆立ち、背筋に冷たい汗が流れました。一体私の身に、目に、脳に、認識に何が起きているのでしょう。何度眺め眇めても風景物のようには思えない……小さな点、穴、亀裂にしか認識できない……。一体、私の身に何が……。
私の驚きは大袈裟のように思われるかもしれません。しかし、異常より異常、異質より異質な物体を相手にする財団内で私の反応は決して過剰なものではないのです。精神異常を受ける環境にいなかったのに、その影響を受けている……そう考えれば、私自身の狼狽を少しぐらい理解できますでしょう?
「実はこの現象……もしくは幻症……は、SCP-███-JPを直視した人間にしか現れない固有かつ独特の症状なんです。……イトクリ博士、普通の空や月や星も同様に、罅割れや穴や虫食いのように見えたことや感じたことはありますか?」
「……イイエ、でもそういう静止した状態のものなら、そのように感じていたのだと思います」
……最近になって、写真や映像などで空の風景を見ていませんが、もしかしたら昔からそのように感じていたのかもしれない……どことなく唇を青く震わせながらポツリと……。
「オダマキさん……あなたは本物の空や星はどのように感じられますか?」
「時々ですが、穴や亀裂のように感じることがあります。私はアレを見ていたのですから、不自然ではないですね」
弟の言うアレとは……SCP-███-JPのことでしょう……。
私はその実体を見たことがありません……が……そのオブジェクトを信仰していたカルト集団と弟はその実物を直視しています。これは不自然でも何でもない事実……だけど……だけれども、遠目にも目視していない私がどうして精神作用、もしくはミーム的な症状が現れているのか……。
「ど、ドウシテ私がオブジェクトの……」
「落ち着いて下さい、博士。これにはきちんとした理屈と、ちゃんとした道理があるのです。それを今確かめるために、別々に写真をお見せしました。いいですか、落ち着いて下さい」
その前に確認したいことがあるのですが、と諸知博士。どことなくゆったりとしてのんびりとした態度と口調に一層身体が焦り、心が逸りました。だけど、ここで急いても意味がない……是非落ち着かなければならぬ状況だと思い、深呼吸をして椅子にドカリと座り直りました。
「イトクリ博士……三日前カフェテリアでコーヒーをこぼしましたね?」
「は? それが一体ナニ……」
「答えて下さい。こぼしましたね?」
「……エエ、確かにこぼしました。恥ずかしい話ですが……手が滑って、思いっきり。太股に熱々のコーヒーが掛かりましたが……火傷はしなかったです。でも、ズボンがびしょ濡れで、慌てて着替えに更衣室に直行しました」
と喋っている内に、私の心は段々と落ち着きを取り戻してきました。もしや諸知博士の、この何でもない質問は、私を冷静にさせるために設けられた質問ではないかしらん……気を逸らすことで昂ぶりを抑えることのできる質問ではないかしら……と思い、知らぬ内に硬く握っていた握り拳をゆるゆると解いていくのです。
「実は……これは差前さんに聞いたのですが、イトクリ博士……あなたがコーヒーをこぼす数分前、オダマキさんが同じようにコーヒーをこぼしていたのだとか」
「え。…………そう?」
私は横目でオダマキを見ました。彼は真っ直ぐ諸知博士を見ています。
「オダマキさん……一週間ぐらい前、手を怪我して幸坂事務員に絆創膏をお借りしましたよね?」
「……ハイ……切りました。書類整理をしているときにサクッと手の平を切りましたので。怪我自体は、大したことなかったのですが、書類に血がつくのはいただけないと思い、近くにいた幸坂さんに絆創膏をお借りしたんです。本当は購買に行き、自分で買うつもりでしたが……」
「イトクリ博士、一週間ほど以前、メスを滑らせて手を怪我したとか」
「しました……。くしゃみをした衝撃で誤って。手持ちがなかったので、購買へ行って、ソノ……幸坂さんに……絆創膏をお借りしました……」
私は真っ直ぐ諸知博士を見ました。顔は正面を向いたままですが、オダマキが横目で私を見ているのが分かりました。
「イトクリ博士、その数時間後幸坂さんにお返しのクッキーを渡しましたよね?」
「……ハイ……そうです……小田さん、あなたは何を渡したんですか?」
「……私が絆創膏のお返しにあげたのはお菓子です……チョコチップクッキー、あなたも、同じ種類のものをあげたのでしょうね……」
私は片手で口をソッと覆いました……。
「行動が同じだ……」
「それだけじゃないでしょうね、二人が同じ行動をしているのは」
と、諸知博士。薄く微笑み、楽しそうなものでも見るかのような顔で……。
「実は前々から評判だったんですよ、お二人のこと。財団内じゃちょっとしたデジャヴだって言われているんですよ、知ってました?」
『…………イイエ』
……これは面談が終わってから確認したことですが、同じ行動をしていたのは、諸知博士に指摘されたものだけではなかったのです。例えばここ一月の昼食の内容、衝動買いを含む買い物の内容、財布の中の金額……何もかもが一緒だったのです。……私はこれほど驚いたことはありません。
私は気まずさのあまり視線を横に向け、二人から顔を逸らしました。諸知博士の質問の意図は未だ分かりませんが、先ほどの質問は私を落ち着かせるものではなかったのか……でも、どういう意味があってこの質問をしているのだろうと、考えているうちに諸知博士が人差し指をクルクルと回しながら……。
「では最後の確認です……お二人は自覚なさっているのか分かりませんが、二人の会話を他者が聞いたとき、会話の意味がわからないんですよ。会話の初めは普通ですが、だんだんとわからなくなる……」
オダマキは私を、私はオダマキを見ました。両者の視線が重なったのは数秒だけで、すぐに諸知博士に向き合います。
「どういう……意味……」
「……イトクリ博士とオダマキさん……お二人は時々矛盾した言葉を使いませんか? 徹夜で熟睡だとか、似たより寄ったりの大間違いだとか、幸坂さんがウィンクをしただとか、控えめに大盛りだとか……何となく意味がわかる場合もあるから良いのですが……。でも、お二人が会話をしているときの会話内容はとにかく理解しづらいんです」
「それは、もしやオブジェクトの影響ですか?」
不安になって諸知博士に詰め寄ろうとしました。
「SCP-███-JPによる影響ではないでしょう、そのような症状は報告されていませんから。……どちらかというと、イディオグロシアに近いんだと思います。通常は幼少期になくなるものですが……二人は本当は…………いいえ、私が言うことではありませんね」
……私は医療人として、勉学を学び資格を持ち財団内でも立ち振る舞っています。殊に長けているのは解剖学で、諸知博士専攻している学問については、全く範囲外でした。精神学は未知の領域……範疇外……。
イディオグロシア……とは双子間に見られる独自の、言語に限定されたコミュニケーションのひとつです。私はその概念や現象を特別な現象などと考えておらず、密接な関係を構成し易く、同年代の幼児が比較的見せ易い、一種の阿吽の呼吸だと解釈しています。
諸知博士は私ら二人の行動の類似点を指摘し、精神的な繋がりを自覚させました。暗にまるで双子のようだと指摘したいのかもしれません。確かに『小さな頃から一緒に育ち過ごしてきた者同士』ならば、諸知博士の言わんとすることを理解することができます。
確かに私と彼は双子……とはいっても、それはツイ最近知ったこと……私はこの年になるまで弟がいること承知していましたが、まさか双子だとは思ってすらいませんでした。一般的な兄弟以下の関係で、寧ろ他人の方が親しげになりやすい私たち二人に密接な関係を築いていないのに、精神的作用が互いに同調する事があるのでしょうか……?
「これはただの憶測でしかありませんが、二人は特に精神作用やミーム汚染について人一倍、特別気をつけた方が良いでしょう。多分、片方が感染すれば片方も感染してしまう……二人はリンクではなく、シンクロしているんじゃないかと思っているのですが……」
「じゃあ、あのテストはそれを確認するために」
「ええ、そうです。まさか本当に、別オブジェクトから汚染させて確認するわけにはいきませんからね」
諸知博士はそれから私とオダマキに通常の面談を行ないました。尋ねる内容については当たり前の質問ばかりです。例えば仕事の悩み、同僚や上司との人間関係、私生活での問題……弟に関してはミーム作用の詳しい話が加わりました。
弟の面談内容をそれとなく聞いていた私ですが、やたらとエージェントへの転職を勧めているのが印象的でした。諸知博士の勧誘の言葉は、然るべき訓練と鍛錬を重ねれば十分エージェントとして活動できるということでした。熱心に諸知博士は……折角高い身体能力を持っているのですから、それを活かす仕事をしてみませんか……と幾度となく勧めています。弟は全く乗り気ではないようで、曖昧な返事しかしません。
「ありがとうございました……」
面談が開始され一時間ほど経過した頃でしょうか……諸知博士は好奇心に満ち、どことなく慈愛に溢れ、微笑を含ませた顔で質問し、私たちの返事を聞き頷く……それを幾度か繰り返し、面談を切り上げるように手提げ鞄の中に物々をしまいながら、こう言ったのです。私と弟は椅子か立ち上がり、丁寧にお辞儀と礼を述べて室内から出て行きました。
そうして……廊下を数十メートルほど歩んだときでしょうか、何気なくといった風に背後にいた弟がボソリと呟いたのです。
「今日は早く帰ってお母さんに……」
私は言葉が終らないうちにピタリと足を止めて、重々しい顔で振り返りました。背後に身体を向けると、途中で口を噤ませ、彼は不思議そうに私を見ています。私はウンザリした顔で、睨みつけるように眺めていました。
「お母さん?」
「ハイ、母です」
ヒクヒクと苛立つように小刻みに動く目蓋……でも、声を荒げてはイケナイ……。
彼の言う家族……母親というのは彼の頭の中にだけある悲しい妄想の産物です。脳内の家族は理想的な関係を持ち、素敵にスバラシイものだそうです。ニコニコと笑い合い、決して喧嘩などありえない……でも……それは頭の中の出来事、ありもしない事実なのですからこれほど虚しいことはないでしょう。
私を生んだ母は白痴でした。微笑んでいる姿を一番強く記憶しています。私を見ているときの視線をよく覚えています。地平線の彼方でも見るような熱っぽく潤んだ黒目……精神が壊れてしまっている所為か、何時見ても奇妙に若々しく……イイエ……稚拙さを留めた顔が……アンバランスに顔面に刻まれた年相応の皺が見るだけで違和感を与えて……。
弟は母の精神の虚弱さが似てしまったのでしょう。だからこんな不毛な妄想をしたがるのだ……離れ離れになってから、あんなところで育って辛かったのでしょう、そうしなければまともな精神を保てないほどに……。
……もし、私があなたの立場であれば、そうしていたかもしれない……だけど、だけど…………私はあなたに言わなくてはいけない、真実と事実を……例え殴られ嫌われても。あなたの想像する家族など、どこにもいないと告げなくてはいけないのです。
「聞いてください。ホントウは自覚なさっているかもしれません。だけど、あなたの言う家族はどこにもいないのです。あなたの思う母はどこにもいませ……」
ダン! と声を掻き消す音。弟は廊下の壁を拳で殴り付け、顔を俯かせています。私は壁を殴りつけたその音と衝撃に、身体をびくりと跳ねらせ、次第に硬直させました。
「黙れッ……!」
絞り出すように出された苦しそうな声……殺気に満ち満ちた言葉……恨みがましそうに睨みつける両目……恐ろしく思いました。でも、でも……私は言わなくてはいけません。例え恨まれ呪われても、そんな家族は存在しないことを告げなくてはいけないのです。
「……そんなことしなくても良いんです。そんな悲しいこと……ねえ……小田さん、俺はここにいます。俺はあなたの家族だ。タッタ一人の兄弟です。私を……俺を、頼ってください。俺はアナタの兄です」
「え」
マジマジと、怒りを忘れたように顔を見詰められました。上げられた顔は唖然とし、トテモ意外そう……半笑いになって、マザマザと舐り回すような目線……。
……私は理由もわからず慄然とし、突き放されたような寂しさを感じました。何故……何故そんな顔をなさるの……と尋ねたかったのですが、ムズムズと唇が動くのみで、言葉がでない……。
「あなたは……あなたは何も知らないのですね……」
目の縁イッパイに募らせた涙が溢れたかと思うと、彼はさっと私の真横を早足で通り過ぎました。本来なら、あの背中を追いかけていくべきでしょうが……何故彼が泣いているのか、何が気に食わないのか全く分かりません……追いかける事ができなかったのです。
妾は新高さんと夫婦心中をしてみたかったのです。そうして出来るなら自分だけ生き残ってみたかったのです。
そうして、それがその通りになったのです。
ですから妾はホントウを言うと夫殺しだったのです。けれども新高はツヤ子さんの怨みの一念に取り殺されたと思って死んだのでしょう。妾のシワザとは夢にも思わないままだったのでしょう。新高はやっぱり妾を心から愛していたのでしょう。
そう気が付いた妾はモウいても立ってもいられません。
そればかりじゃないのです。妾のお腹に新高の赤ちゃんが出来ていたのです。
―夢野久作『少女地獄・殺人リレー』より抜粋
お待ちしておりました、神山博士、お久しぶりですね……エエ、分かっておりますよ、この話し合いの理由とそのわけを……申し訳なく思ってはおります。先走った結果だと分かっています。女のように癇癪を起こして、男のような横暴な真似に出た……その上子供のような稚拙さで……大人のような冷静さを取り戻せなかった私が悪いのです。でも、愚かしいと考えつつも、私はチットモ後悔していません。
あの日……私が何をしに、故郷へ戻ったのか……ソモソモ初めはそんなつもりはなかったんです。というよりも……まさか故郷の福岡で、あの男にバッタリ出会うとは思ってすらいなかったのですから……。
……動機……動機ですか……云わなくても分かっていらっしゃるでしょう? 私は、あの男が憎くて恨めしくて仕方がなかった。我慢できるものではなかったから思わず殺してしまいました……これが全てで、それ以上の弁解はありません……だけど、こんな一言でハイそうですかと片付けるわけにはいきますまい。もっと突っ込んだ私の話をしましょう……長い話になりますが、是非お付き合いくださいませ。
……私は三つか四つ頃に生まれ故郷と母のいる福岡から離れ、京都の田舎で育ちました。その土地は田舎というよりも疎開された土地と云っても差し支えない場所で、あるのは水田と山間と狂った信者ばかりです。私は通常の子供と同様に学校に通わせてはくれましたが、並以下の教育であったことは否定できません。弟のスバラシイ成績と比較されると苦々しくお笑いになるしかない、それほど教養のない私です。
私を育ててくれたのはアレを率先して拝み倒した小田……と、ワラワラと縋りつく自尊心と自主的な行動を忘れた信者共でした。私の言葉は決して大袈裟ではありません。知っていますでしょう、あの執念深い信仰と醜悪染みた信望を……大きな声では云えませんが、小さな声では聞こえませんか? モット云いましょう……狂っていたんですよ、頭が。
カルト教に相応しいように……ご想像通りの仄暗いでは追いつかない人殺しよりも凄惨な現場を度々目撃しました。逃げようにも逃げられない、幼く力のなかった私……力をつけて逃げ出すことが出来る年頃にはもう、諦観と絶望の為に逃亡する気力のなかった私……正直、あなた方の襲撃が天の救いにも思えましたよ。
……狂人の大人が信仰する、異常な場所……私の楽しみは聖書を除外した読書と料理でした。何故聖書が嫌いなのか……それは語らずとも理解できますでしょう、わざわざ口に出しません。
料理は……私がホントウに小さい頃、自分の世話を出来なかった私に、信者共が挙って世話をしてくれたのですが、子供ながらに教団の異質さをアリアリと自覚していました。できる限り距離を保っておきたい為に、洗濯や掃除、料理を初めとした家事全般を自分から動き、率先して片付けていました。小学校に上がる頃にはモウ一人前に出来るようになっていました。
斯様な経験からか、私は家事洗濯だけではなく、様々な、細々とした作業に著しい興味を抱くようになっていました。私はどちらかというと顔や性格は父親似ですが、手だけは女性的でした。恐らく、手元だけは母親似なのでしょう。
小さい頃、か細い手を同級の子供達に馬鹿にされる事が度々ありましたが、成長していくに従いフッと、ここに母の名残があると気がついた私は、自分の手をコッソリ眺めて、憂い顔でポタポタと涙を落とす事がありました。余り好きになれなかった自分の手元ですが、そう気付けば好きになれてしまうものなのですね。手元を見詰めては、母が恋しい、こんな偏狭の居場所から離れたいという一心で、夜毎泣くことすらあったほどです。
母を恋しがり、教団から離れたく思う心は一年一年過ぎる毎に大きくなり、深く食い込まれていくようでした。母の名残を見詰めるだけでは我慢できなくなった私は、故郷へ戻り……異常な環境から逃れたい為に、虫よりも嫌い、這う物よりも嫌悪した小田の下へわざわざ出向き、母はどこにいるのか、誰であるのかを訪ねた事があります。それは一度や二度ではありません。
私が斯様な質問をした時小田は……複雑な、誤魔化すようにはにかみ、眉を八の字に下げた泣きそうな顔をしていました。しかし……ある時、同様の質問にトウトウ堪えきれなくなり根負けしたのか、ポツリとある約束事をしました。
「お前が15の歳になったらきちんと教えてあげるからネ」……と。
15歳の誕生日になったらキット母親のことを教えてくださる。私は約束の日をイタイタしく待ち望んでいました。自分の年齢が10になった時、あと5年と楽しみ、両の拳が丸まったときの嬉しさ……両手の指では数え切れない年齢に嬉しく笑う……私にとって15歳の歳とは、二十歳よりも重要で大事な事でした。一日だって忘れたことはありません。
2015年の大晦日……いつものように信者共に、私にとってはチットモありがたくない神の言葉や教えを説き、日課を終らせた父親は私を呼び寄せました。父は座敷にいたのですが、その時の顔や姿勢などが多少不自然です。何か緊張しているような、覚悟でも決めているような……。
「何かご用でいらっしゃいますか」
と尋ねれば、父は「約束の日だから」と云いました。はて……私の誕生日は明日で、私はまだ14歳のはず……明日になれば教えてくれるんじゃなかったのかしらんと思いながら、目の前に用意された座布団にソッと座ったのです。
「誕生日おめでとう佑馬……いや、遊佐さん……今日は前々から約束していた母親のことを教えてあげるから」
「どういう意味ですか、遊佐とは誰……?」
「お前の本名だよ」
それを口火に教えられた残酷な真実……私の母親は福岡のある田舎で生まれ育った一卵性の姉妹の片割れ……不義不倫が原因で妹の方が殺されてしまったコト……殺人の疑惑のある伊藤先生……弟がいること……。
あれほどに……私は驚愕に満ち満ちて、何よりも悲しみ、複雑に疲弊した日はありません。自身の生まれた境遇や環境のこと、これまで思い描いていた母親の姿に大きな亀裂が生じ、ガラガラと音を立て崩れました。
自分の出生の境遇に絶望するばかりではなく、初めて知った弟の事を憎みました。本来あるべき場所にいる私が蹴落とされ苦しみの中にいる……あいつがいなければ私は今頃……今頃……あいつさえ……あいつさえいなければ……と子供ではないにしろ、15と云えばまだ大人ではありません……繊細で多感な時期の私にはえらく堪えたのです。
その日からでしょうか……私は前々から、恥ずかしい話ですが、家族というものをよく夢想し、想像していました。小田を父親だとは認めない……私の想像する父親はキット素晴らしいお人、夢想する母親はコンナに素敵なお方、姉や兄、妹や弟がいればアアして可愛がるという虚妄が一層大きく、一進深くなったのです。私の真実の家族はドウモ汚らわしく何ともイヤラシイものでしかない……しかし、粘りつくというよりも、焦げ付くような執着心を忘れる事ができない……。
15を境に想像するだけじゃなくなりました。意味もなく『家族四人分』の料理を拵え、テーブルに並べたこともあります。出来上がった料理を一人で食べ、空席が一層空虚さを際立たせました。……虚しかった……分かっていたんです、本当は。そこに誰もいない上に座らない事……意味もない白痴に似た逃避でしかないことに……。
虚妄をやめれば、会ったことのない、顔も知らない弟を憎むばかりでした。何度も殺し、幾度も苦しめ、重度に呪いました。私の呪詛は彼に届きましたでしょうか……? 少しでも身体に障りが出ればいい、呪詛がグルグル渦巻いて彼の身に振り罹ってしまえ……死にますように……何よりも憎く、誰よりも死んでほしい我が弟へ……ああ、でも今は少しも憎くない……許せることができる……兄弟として接し、愛することが出来る。
……愛憎相半ばともいえない気持ち、清々しい心持ち……重荷が取れたような……。ただ、気づきました……私が彼になったのなら、彼は私だったのだと……ただの自己愛かもしれませんが……。
私ははじめて弟と顔を合わせたことを今でも鮮明に思い出すことができます。ネエ……神山博士、そっくりな顔の兄弟を幾人もお持ちでいらっしゃる神山博士……私は不思議でしたよ、例え腹違いの異母兄弟であっても、あそこまで似るものなのか……だってソックリそのままなんですもの。双子のように瓜二つなんですもの。
……あいつと初めて顔を見合わせた時の驚愕と狼狽……目を丸くさせ、ここに鏡でも置いてあるのかしら、これは何かの夢幻かしらん、と疑いましたが、お互いはすぐさま了解しました。ここにあるのは鏡ではなく、現実の人間。そうして、兄弟が偶然運命的な再会を果たしたのだと理解できたのです。通常ならここで再会を喜び合うべきでしょうが、虚妄の家族以外に呪いを楽しみにしていた私は、人間らしい心持を捨て、殺意を尖らせ滾らせ募らせていました。
……殺してやろう……ここに私を惨めな目に合わせた人間がいる、何度も、幾度も、重度に呪った憎い人間がここにいる。だけど……何故でしょうね、明確な殺意を覚えながらも、どうしても彼を殺すことができなかったのです。私は何も出来ないまま財団に保護されました。
殺してやろうと思い行動に出ようとしたのは、邂逅のその時だけではありません。例えば、わざわざ私の隣で朝食を食べる呑気そうな顔……その眉間に鋭利な物でも突き刺してやろうかしらんと強く握り拳を作る。例えば、前原博士の宴会に付き合い廊下で居眠りをする彼……泥酔しきっており抵抗などできますまいと首を絞めようと思った両手の輪。例えば、エージェントの忘れ物の拳銃を見つけ、引き金に指を添えて狙いを定める……。例えばあの時……例えばこの時……といった具合に幾らでも機会があったのに奴を殺す事が出来ない。殺意が削がれたわけではないのに、頭が考えるのみで動く事が出来ない……。
何故私は彼を殺せなかったのでしょう……毎日呪う程憎かったのに、どうしても殺せない。顔が瓜二つだったから? 兄弟の情けに臆してしまったから? 私の感情は逆恨みでしかない事を自覚したから? ……どれも違います、他に理由がある……。
殺そうにも殺せない、曖昧な立ち居地の中……私はフと思いました。母親のことを……姉妹入れ替わっている嫌疑があるが、それでも私の母親である可能性があるお人、不義不倫の女……会いたくなりました……。
感情に押さえが利かなくなった私は、盆の少し前に長い休暇届を申請しました。申請時、弟が偶然隣にいたので、イツ休みを取るのだろうと思い尋ねました。弟は押しの仕事があるからと断りを入れて彼は福岡へ帰らないと返事をしました。しかしその内どこか不審に思ったのでしょう、休みは何をするのかと尋ねたのです。
私は「母親に会います」と告げたのですが、その時の一瞬シカメられた顔……大方妄想の中の女に会うのだと思われたのでしょう。しかし私は特別弁明もせず、彼に誤解を解くように働きかけることなく、トウトウ休暇の日が来ましたので一人で故郷へ向かいました。
博多駅から少し電車を走らせた田舎が私の生まれ故郷です。電車の中は暇でしたので、小栗虫太郎の「白蟻」を読み時間を潰しました。半分も読み終えていないところで、目的の場所に到着し、電車から下車しました。駅から少し歩き住宅街を過ぎたところで、長閑な風景が見えます。
私はその土地での思い出や過去のことなど微塵も記憶にないハズですが、疎らに道路を走る車……遠くの方をみれば水田と畦道……喧しい蝉時雨、分厚い作り物のような雲……庭に繋がれた犬……狭い細々とした路地裏の垣根……何故か懐かしく感じられ、ホロホロと涙が零れそうになりました……が……どこか夢心地のままボンヤリ歩いております内に白い角砂糖のような建物……伊藤病院が見え、ハッとさせられました。私は遠目に病院を眺め、アソコに私の弟のお父様が働いておられるのかしら……どんな立派な人だろう……小田とは大違いだろうと、どこどこまでも悲しい気持ちにさせられたのです。
私がボウとしている内に、弟を見知っている……私が知らない女性から話しかけられました。弟と勘違いしている為、大変辟易しましたが、私のホントウの名前や正体を明かすことなく「少し早いですが、盆休みで戻りました」とだけ返事し、さっさと立ち去りました。
伊藤病院から少し離れた場所に弟の自宅があります。曲がり角で赤い布をたらして居座る地蔵や、緩やかに傾斜を作る石畳の階段を上った先にソノ一軒家はありました。田舎特有の不用心なもので、玄関には鍵が掛かっておらず易々と中に入ることができました。家には誰もいませんでしたので、家の中を少し見、二階の弟の部屋と思わしき場所に入り、適当な医学書……解剖学の本をパラパラと読み耽っている内に件のお父様……伊藤先生が戻られました。
伊藤先生は玄関にある見慣れない靴に、どこか心当たりでもあったのでしょう、すぐさま弟の自室に直行して「戻ったのか」と顔を見合わせました。私にとっては初めての出会いです。
伊藤先生は……黒縁の眼鏡をかけた初老の男性……白髪混じりの頭をしていながらもどこか精力的で理知的な男性のように思えました。私はすぐさまここで自分の素性を明かして、はじめましての挨拶をするつもりでした……が……何となく憚れるような気がしましたので、とうとう家を出るまで本当の事を明かしませんでした。
息子が戻ったと思っている伊藤先生は、様々な話を私に振ってくれました……私には解らない内容で適当に相槌を打つ事で何とか誤魔化していました。何気ない会話でしたが、正体を偽っていることや、自分が他人であることがアリアリと自覚させられ、疎外感を味わいました。このまま話をしていたら狼狽の余り泣いてしまうだろうと考え、話を切り上げるように、私の目的である「母親」の居場所を聞き出したのです。
「いつもの公園にいるが……あれはもう治らんだろうな……諦めろ」
と、冷たいというよりは当たり前の道理を聞かせるような口調でそう述べたのです。私はそんな伊藤先生の真横を通り過ぎて、公園に向かいました。
母親のいる公園は、そう離れていませんでした。木下闇の涼しい閑静とした場所ですが、一人の狂人が毎日毎日季節を問わず座り込んでいるため子供は近寄りもせず、大人は人を遠ざけている、真に奇妙な場所でした。傍目にも陰気で、足を踏み込めば辛気臭い……墓場よりも墓場らしい……ここが涼しいのは大量に植えられた桜の木の葉陰などではなく、この女が醸し出す空気の為にそうなったのだと信じてしまいそうなほど、陰鬱とした場所……。
狂人の女性は一人ベンチに行儀正しく座り、空を見て微笑んでいるようでした。手遊びし、その両手に握られた人形が二つ……目は毒々しくも潤み、熱っぽく虚ろでした。私はその女の真横へ座り、ソッと話しかけました。
「只今……戻りましたよ」
女は声が聞こえていたのか、チラリと横目で見たようですが、左手を小刻みにチョイチョイ動かすのみで、人間らしい反応を示しません。尋常でない不吉な気配を醸し出す女性でしたが、ギスギスした空気が彼女の悲愴さの余り磨耗し滑らかになり、いっそ穏やかな風に思えました。
私は伊藤先生と話していた疎外感や寂しさを忘れ、落ち着いた心持ちでした。後にも先にもあれほど心安らいだことはありません。私は自然体のまま彼女に話しかけ、本来なら躊躇すべき質問さえも、スルリと口から走らせる事が出来たのです。
「ネエ、伊藤先生の奥さん……私の本当の母親は誰なんでしょうね」
右手、左手と相次いで動いていた手の動きが不自然に、凍り付いたかのようにピタリと止まりました。相変わらず空を見上げていたのですが、大事そうに握っていた人形をポトポト膝の上へ落とし、着物の袂から蝶の刺繍が施された、赤く派手な縮緬の袱紗を取り出したのです。それを受け取り、留め金を外して中身を確認しました。中に入っているのは、くしゃくしゃになった紙切れのような写真1枚……。
私は写っているものを見、裏側を確認して袱紗の中に戻し、留め金をパチンと止め、返しました。母は私に似た酷く華奢な指で差し出した物を受け取り、大切なものでも扱うように袂の中に戻しました。それから左手に人形を大事そうに触れ撫で回しながら、初めて私に話しかけて来ました。
「お前達は呪われているんだよ」
驚きました。喋っている内容ではなく、何事か告げる知性があったことに……。
「どういう意味……?」
「お前達は呪われているんだよ、せめて母親に似ますように、父親に似ていませんように腹を撫で、どれだけ願掛けした事か……その結果が、私たちに似たのは真似て欲しくないところだったの。呪われているんだよ……」
「…………そうですね、本当そうです……教えて下さり本当にありがとうございます。でもあの人には決して教えないで。キット泣くから……泣いて傷つくから……」
「……あぁ……」
肯定とも否定とも取れない、嘆息した声を短く出し、彼女は黙り込みました。それっきりでした。ソレッキリ彼女は何も云わず、空をボンヤリ見上げて、誰かを探すようにキョロキョロと視線を彷徨わせている……たったそれだけ……。
私はそんな気狂いの女性から離れて、家に戻り、伊藤先生と食事をしました。その食事の楽しかったこと、話す内容の嬉しかったこと、私を見てくれていることの喜ばしかったこと。私は幸福でした、幸せでした。生まれて初めて人間の子供になれたような充実感さえあったほどです。
先生の家から立ち去るとき、布団にいつまでも甘える子供のように名残惜しく思いました。いつまでもここにいたかった。だけど伊藤先生が見ているのは、私ではなく片割れの方です。このまま居座り続けると何をしてしまうのかわからない……これ以上疎外感を味わいたくありませんでした。
帰ることを告げたときの先生……いいえ、父親のどこか寂しそうな顔、アイツはこんな優しい環境の中育ち立派な人間でいれたこと……自分の生まれ育った境遇がこれほどに惨めで無様なものであったこと……最早恥辱……屈辱的でした。ムラムラとした尋常でない、憎しみが私を蝕むのです。
家を出た私は財団へ戻らず、休みはマダマダありましたので、博多の数少ない観光地を見物して回りました。その食い道楽の道中、偶然……あの男を見つけました。奴は驚き、私のことをトテモ心配していました。財団があの礼拝堂に人を送り込んで、暴力的な襲撃があり、そのまま顔を見合わせておりませんでしたから、怪我をしていないか、健康の有無が心配だったのでしょう。
私は、滑稽にも狼狽し、親のように心配しだすあいつにフッと薄く微笑して、
「組織のエージェントがまだここにいるかもしれません。ドウゾ……丁度いい隠れ場所を見つけたんです。一緒に行きませんか?」
と云えば、嬉しそうに頷き笑うのです。
「どこでどう見つかってしまったんだろう。折角の世の理と真実をあの異教徒共がメチャクチャにした。僕の宗教は失敗してしまったが、キット再興してみせる」
……移動中、そんなことを呑気に云う男の横っ面を殴りたく思いましたが、私は何も返事をしないまま乗り物を乗り継ぎ、福岡と佐賀の県境に行きました。その道中、ホームセンターで金鎚や荒縄を購入し、準備を整えました。何の準備をしたのか……云うまでもありません、あの男を殺す準備です。
私は男を適当に云い包め、人気のない山に誘い込みました。二合か三合歩いたところで、アイツの脳天に一撃、金鎚を見舞いました。頭蓋が陥没しないように気を払った不意打ちの一撃です。男はたまらず倒れこみましたが、気を失っていません……私は手加減したまま数度殴打したところで男はヤット意識を手放しました。
男の身体をズルズル引きずり、山の中を進みました。適当なところに到着しますと、準備した縄で、木の根元にアイツの身体を縛り付けました。奴は数分後意識を取り戻し、半日かけて徹底的かつどこどこまでも痛み付けました。ここで母親から貰った細い手と、これまで培ってきた繊細さが役に立ったのでしょう、私はとても充実し満足した濃厚な時間を過ごしたのです。
奴が絶命して、充実感と満足感が全身を支配してウットリしだした頃……背後からカサコソと音がする。草陰から現れたのはエージェント西塔さん……どうして彼女がここにいるのか、私の跡をつけてきたのかと勘繰っていましたが、後にこの男の跡をつけていた事を知りました。
「何をしている!」
……と……西塔さんは拳銃を取り出し構え、激しく警戒しながら近寄りました。その時私は、髪をおろしていましたので、誰なのか分からなかったのでしょう。間違えて撃ち殺されては適いませんから、自身が財団の人間であることを証明するため、ポケットの中に入れたままのクリアランスを投げて寄越しました。
彼女は拳銃を構えたまま地面に落ちた社員証を拾い、驚いた声……。
「印象が変わるのは知っていたが、まさかここまで変わるとは……それはさておき、どうして、あんた……ソイツを殺したんだ?」
「知っていたんです、カルト教団員は見つけ次第抹消対象だと……私が見ている風景を拡散させる可能性があるから……だとか。だから私はこのようなトテモトテモ乱暴な真似が出来たのです」
「イヤ……そうじゃねえ。理由じゃなくて、ワケを知りたいんだが?」
「殺したいからですよ」
どういう意味だ? と西塔さんはキツイ目線を更に険しくさせました。私は何も答えず、少し寂しそうに笑いました。この微笑を彼女がどういう風に解釈したのか分かりません。ただ……気の毒そうな顔をしていました。
「こっちにこい……」
西塔さんはそう云って私の袖をグイっと引っ張り、共に山を下りました。私は現場から離れるとき、木の根元に縛り付けた奴の亡骸を振り返ると、赤くゴミゴミしている所為か、人間の死体には見えませんでした。丁度路傍に落ちているゴミが犬猫に見えるように、遠目に眺めれば、この季節に咲く彼岸花のよう……。
西塔さんはワンボックスカーに私を押し込め、予め用意していたのでしょう。青いビニールシートや紐、スコップといった道具取り出し、山の中へ戻って行きました。彼女の後に続いて数名のエージェントがワラワラと続きます。車内に私一人がポツンと残されたのですが、彼女達は1時間もしない内に大きな荷物を抱えて戻ってきました。その荷物は云うまでもなく、私が殺した人間……。ビニールシート何枚分使ったのでしょうか……血液が垂れ、臓器がこぼれ落ちないようぐるぐる巻きになった青い人間の包み……紐で厳重に縛り上げ、シートの上からビニールで被い、しっかりテープで補強されています。
後ろの席にドッシリ置かれたモノに西塔さんを一瞥したかと思うと舌打ちをし、
「随分マアやってくれたな。身体が……特に顔がぐちゃぐちゃで誰なのか分からない……本当に抹殺対象なんだな?」
「エエ、件の抹消対象の男です。間違いない……」
私が答えた瞬間、車はエンジン音を響かせて発進しました。
「サイトに戻って死体処理の手続きをしなくちゃな……」
「西塔さん……それと後ろの人の記憶処置の手筈を……」
「いや、良いんだよ。ホラ、社員証……財団員だから」
「エッ! オダマキさん?」
小声でボソボソ話していると思ったら、不意に私の名前が呼ばれました。見れば西塔さんに山の中で投げて寄越したクリアランスを男性の顔に押し付けているところです。男性は二、三度私の顔と社員証を何度も何度も見返しているようでした。あんまりジロジロ見られるのは好きではありませんでしたので、社員証を返してもらい、ポケットの中に乱暴に入れました。それから移動中、外の景色をボンヤリ見詰めていたのですが、気付けば一睡もしていません。
サイトに戻ってから、私があの男を殺した件について話す必要があるからとこの部屋を案内され、私は神山博士……あなたがここに来るまで待っていました。そうして現在、私の動機や理由など全てお話しました。これが、私の告白です、神山博士……これ以上私の云うことは何もない……ただ、少し疲れました。喋り疲れたのでしょうか……酷く……眠たい……。
……まあ、どちらにしろ、有り得ない話ですよ、あんな優しい先生が……ねえ……。結局、真実は解らないままですが、最悪、二人の女親と三人の男親を持つあの子は……隅々まで瑞々しく業の深い子なんでしょうネェ……アハアハアハ……イヒヒヒ……。
「…………嘘だ……」
9月下旬の未だ夏を感じる季節……外からミンミンと蝉の鳴き声が聞こえる夜中でした。場所は私の弟であるイトクリの自室で、テーブルの上に置かれたボイスレコーダーを数十分間視聴していたのですが、音声がブツリと途切れた後、彼は震える声で云いました。
イトクリの顔は最早蒼白で、ボイスレコーダーから流れた音声を……信じられない、信じたくないという風に額に手の平を押し当て、否定の言葉を発しています。その言葉を聞きながらボンヤリ、無理もないことだと思いました。穢れや瑕のない一般的な家庭にとんでもない粗漏が生じていた……親子だと思っていた関係が今になって取り返しのつかない亀裂が生じていた……彼の反応は極普通のものでしょう。
彼の精神状態が冷静さを取り戻すまで、ボイスレコーダーを手に取り、弄り回しました。このボイスレコーダーの情報は海野さんが入手した物です。どうして海野さんが私たちの身辺調査をしていたのが分かったのか……それは西塔さんに見つかりワンボックスカーに押し込められたときに、オダマキだと教えられ驚きつつも振り返った男性は、実はエージェント海野一三さんだったのです。
移動中、上クリアランスを持つ海野さんの存在を疑問に思った私は、彼にいくつかの質問をして、私たちの調査をしているのではないだろうかと考えました。断っておきますが海野さんは明瞭しない曖昧な返事をするのみで自分から仕事内容を告げたわけではありません。サイト内に到着し、神山博士と話をしたのが盆の時節……九月の上旬に諸知博士と面談をし、私は先日、海野さんに直談判をしました。……私の出生についてお調べになったのでしょう……と確信したような虚勢で尋ね、直接ボイスレコーダーの貸し出しを願いました。海野さんは不思議そうな顔をしつつ、内心どこか警戒したような態度を示していましたが、どうしても貸し出して欲しいわけを述べると、上層部に許可を取った後、私に受け渡してくれたのです。
手の中で器用に弄り回している最中に、彼は冷静さを取り戻せたのでしょう。口元から手を放し、言葉を発しました。
「……私の家のことはこの際、触れません。だけど小田さん……あなたに聞きたいことがある……どうしてこの内容を私に聞かせたのでしょうか」
顔を俯かせ、ボソボソと声を発していました。私は機材をテーブルの上に置き、正直に返答します。
「あなたに知ってもらいたくなったからです」
「……俺が全く赤の他人の子供である事をか? 親様の恥をか!?」
両の拳でテーブルを殴りつけました。その衝撃ですぐ付近にあったコーヒーが波を立たせて揺れます。カップの中のコーヒーは報告を聞いている内にすっかり冷めてしまい、湯気が消えていました。冷めたコーヒーは温度など関係なく、当分飲まれることはないでしょう。
「知りたくなかった! こんな、こんなこと……!」
「確かにあなたにとってこの話は害でしかない……聞かなくて良いものだったかもしれません。だけど、伊藤さん……私がそれを許さないんだ」
「……どういう意味だ……」
「………………」
私はチラリと彼の顔を盗み見ました。縁に涙を溜め堪えきれずハラハラと涙の粒が筋を作り流れていました。すでに泣いているが、涙を流すのを堪えるように戦慄く唇、苦悶し震える眉間……私はハンカチをポケットから取り出し、差し出しました。彼は無言でオズオズ受け取り、目から流れ出た涙をグイっと拭いました。
「私は許さない。あなただけが平気の平左でいる事が……のうのうといれる事が……私だけが何故、自分の出生に苦しまなければならないのだろう」
「道連れやあてつけですか? それとも八つ当たり?」
「あなたは、鈍く鋭い」
私は云います。
「道連れやあてつけなどではありません。違うんですよ……私はあなたと兄弟になりたかった。ただの兄弟ではない、できることなら、双子として存在したくなったのです……私はあなたが憎らしく思っていました、正直な話、殺してやろうとすら考え、想像の中であなたがどれだけ死んだことか……でも、私はあなたのことが……逆恨みですが……あなたのことが許せそうなんです。あなたを、やっと一人の人間、たった一人の兄弟として愛することができる。だからこそ、私はあなたが何も知らないままでいることが許せなかったんです」
イトクリは顔を逸らしました。
「…………確かに私は恐ろしく無知でした……甚だ愚かで、あなたがこれほどの蟠りを抱えていただなんて……だけど、あんまりじゃないですか。……そりゃ、黙ったままでいることは辛いでしょうが、何も、コンナ、覚悟も何も出来ていない俺に、出し抜けに……ッ!」
「私はもう、妄想の中の虚妄の家族に頼るつもりはない」
誓言するようにそう云うと、彼はとても意外そうで驚いた顔をしました。目を丸くさせて、口を半開きにさせたのです。
「……あなたがいてくれている。それだけでどんなにありがたいことか……でも、ごめんなさい。配慮が足りてなかった。キチンと覚悟させた上で、了解と理解を得て聞かせるべきであった……あなたを傷つけるつもりはなかったんだ……でも、まさか泣くとは……」
「黙れ」
彼は遣る瀬無い顔をしつつも、どこか私に同情したような表情で、ハンカチをくしゃくしゃに丸め投げつけました。胸の辺りに当たったハンカチを拾い、苦笑します。……黙れ、か……。このやり取りは以前どこかで……。
「私が思うにこの女性の話していた内容は真実ではない……」
私はテーブルの真ん中に置いたボイスレコーダーを手に取りました。
「第一話がおかしいじゃないですか……先ず最初に姉の妊娠は良いでしょう、浮気をして妊娠してしまった……これは恐らく事実でしょうね。でもね……妹の妊娠はおかしい……誰も膨らんだお腹を見ていないんです、誰も。……これは私の予想ですが、妹が子供を妊娠して、姉が子供を死産にしてしまった……もしくはその逆だとしたら?」
「逆……?」
「私たちが双子であった方が話は自然じゃないかと思うんです。いいえ、理屈など関係なしに、私たちの顔は瓜二つで、行動も同じだ。精々、髪の長さ程度の差異で、腹違いの兄弟としてもここまで似るのは不自然です。双子の親からは双子の子供が生まれ易いと聞く……この説を絶対なものだと考えておりませんが、私たちが双子でない方がおかしいんじゃないだろうか」
私は云う。
「私が思うに母親を明らかにするよりも、父親を判明させた方がハッキリするんじゃないかと思うんです。あなたの母は白痴になったと聞く。それなら尋ねるべき相手は伊藤先生……」
チラリと彼の顔を窺うと、苦虫を噛み潰したような顔をしています。残念そうに首を振りながら……。
「私の父は……恐らく、何も喋らないでしょう……私が15歳になったときの正月、親戚の一人があなたの事を言いました。酔いの勢いで口が滑ったのでしょう、言った瞬間、ハッと酔いも醒めたように押し黙ってソレ以上は何も。……私はそこで初めて、弟がいることを知ったんです……気に掛かって、直接父に兄弟のことを訪ねたのですが……僕がその話をするぐらいなら死ぬといって、それっきり」
私は口の端が上がるのを止められませんでした。イケナイ、イケナイと自制しようとしつつも、表情が素直に出てしまう……これまで負の感情を抑える事に長けてきた私ですが、喜びの感情は堪えきれない。
私は再度確認するように質問しました。
「喋るぐらいなら死ぬと本気でおっしゃったんですか?」
「ええ、アレは本気でした」
「……不用意に触れられませんね」
私は両手で口をソッと覆いました。……笑うのを堪えるため、鞴の哄笑を堪える為に……。
私のムラムラとした興奮は最高潮に達し、ナカナカ引く様子を見せない強固なものでした。しかし何故でしょう……突如私は、タッタ一瞬で嬉しさや興奮が血の気が引き、ハッとさせられたのです。私の心に一点の黒い染みが生じ、その黒点は一気に広がりました。その黒点は寂しさでした。どうしようもない寂寞だったのです。
冷静というよりも孤独に包まれた私は、自分の胸の内に問いかけました。正直、何をしたいのだと……このままで本当に良いのかと……少しの間その疑問について考えてみたのですが、分からない。何も分からない。私は彼をどうしたいのか分からない。
フと見れば、彼は不審そうな顔で私の様子を窺っているようでした。その視線を打ち払うように焦り……打ち消す為に早口で云いました。
「本当、不思議ですね……顔が瓜二つで限りなく双子だろうに、それすらもハッキリせず、どちらが兄なのか、弟なのかも分からない。真実の父親と母親も、私達は憶測をし合うだけで永劫に明らかにならないんじゃないかしらん……あなたの父が教えてくれないのならば……何も知らないまま私達はこうして曖昧な立ち位置の中過ごすのでしょうね」
「あの……あなたの父の小田さんに話を伺えばよろしいのではないでしょうか。今は行方不明で見つかっていないそうですが……」
「……あぁ、アノ男ですか?」
私はボイスレコーダーを机に戻し、微笑みながら何気ない調子で云いました。
「私が殺しました」
あらゆる疑問を重ね合わせた最後の疑問の焦点となるべき、唯一点を発見して私と同じようにビックリしたに違いない。そうして私と同じように一瞬間の裡に一切を解決したに違いない。すべてが正木博士の所業である事を発見したに違いないのだ。
―夢野久作『ドグラ・マグラ』より抜粋
サイト-8110内の休憩室でエージェント尾野村さんのペン回しをぼうっと眺めていた時の事です。私はその日……報告書作成で午前を消費し、午後から入ったエージェントの外科手術を終らせ、身体中に纏わり付くような血の生臭い香りを流す為シャワーを浴び、一日の仕事を終わらせました。
……とはいっても今の時間帯は上がりの時刻ではないのですが、オペで一日使える精魂と気力を失った私は、これ以上作業をこなすのは困難だと判断していました。決してこれがサボリというわけではないのですが、休憩室でゆっくり飲み物を啜り定時まで過ごす……少々の怠慢は許されても良いでしょう。どうせあと数十分で終わりなのですから。
休憩室でゆっくり休み、時折口に運び飲んでいる物は……いつもならブラックコーヒー一択ですが……疲れた身体に丁度良い甘い甘い物……砂糖とミルクアリアリのバンホ-テンのココアがじんわり疲れを癒してくれるのです。
数分かけ飲み終わり、俄かに身体がポカポカし出した頃、休憩室に一人の男性が足音もなく自動ドアをスルリと抜け、休憩室に入ってきました。その人物をチラリと見れば……灰色のスーツに痩躯の男性……神山博士です。その存在に珍しいなと思いつつも、私はさほど気に掛けず、空になった紙コップを片手でグシャリと潰し、お行儀の悪い事ですが椅子から立つことなく、ゴミ箱へ丸めた紙コップを投げ入れました。
綺麗なフォームを描いてゴミ箱の中に紙コップが入ったとき、休憩室の入り口でキョロキョロと首を動かしていた神山博士が、ツカツカと大股で私の方へ近寄ってきました。テーブルの端に手を付き、少し身体を屈めるようにしてジロジロと顔を見詰め、小首を傾げながらこう言いました。
「……イトクリ博士でしょうか?」
「はい……?」
「探しましたよ……色んな意味で」
「えっと?」
オダマキと見分けがつかなかったのかしらんと思い、自分の服装を改めて確認しました。私の格好は白衣にシャツ、黒いズボンのフォーマルな格好です。白い手袋を嵌めていることもあり、常に喪に服しているオダマキとは白と黒の色違いで記憶していれば間違えることはないはずだが……と考えつつも、ハッとしました。私はオペ終了後シャワーを浴び、髪を整えることなく、休憩室でココアを飲んでいました。神山博士が色んな意味で探したというのは、オダマキと見分けが付かなかったわけではなく、印象が変わってしまい見分けられなかったという意味だったのでしょう。
「念の為にお尋ねしますが、本当にイトクリ博士ですよね?」
「ハイ、そう言いたくなるのは分かりますが……入れ替わりをするほど私たちの仲は良くありませんのでご心配なく」
ホッと息を漏らし安堵した顔を見たと思った瞬間、神山博士はどこか神妙な顔で周囲に注意を向けるように、目線を横に逸らしました。未だ手の中でクルクルとペン回しをしている尾野村さんを一瞥しながら、小声でこう囁くのです。……お話があります、少し宜しいでしょうか……と。
それは有無を言わせない厳粛さ……というよりも……真剣な空気や気配を纏ったものでした。何か重大で重要な話があると悟った私は「ええ……」と一声頷きながら、立ち上がりました。
「こちらへ。部屋は予約してあります」
と、早足且つ大股で歩いていく神山博士の後ろに続きました。私と彼は休憩室を出て、少し入り組んだ廊下を曲がり、エレベーターに乗り上昇し、複雑に入り組んだ廊下を折れ、階段を降り、ある区域に案内されました。その区域は私がナカナカ訪れない、職員向けのセラピールームが並ぶ場所でした。
神山博士は首にぶら下げているクリアランスをドアに設置された機械に通し、個室に私を案内しました。二人室内に入り、神山博士は机の角に尻を乗せたかと思うと、テーブルの上に予め用意してあったのでしょう、小さい茶封筒を手に取り、
「以前頼まれていたものですが……」
と断りを入れ差し出し、どこか冷徹に見透かすような一瞥を寄越して……。
「遅くなりました。これが、あなたがお望みになり、知りたがっていた写真です」
思わずピクリと動く身体……それは緊張による硬直でした。私は彼が差し出す封筒を受け取り、マジマジとそれを眺めました。
私は以前、神山博士にオダマキが殺害したという現場写真の提供を願いました。彼が小田鏡司郎を殺したという話を聞いてから、それが事実なのか、殺害の詳細を知りたくなり、ソっとお伺いをしたのです。申し出をしたとき、「今は忙しい時期ですから、後回しになりますが」と承諾の返事を得たのが、ツイこの前……正直、予想していたよりも早い対応です。
彼から受け取った封筒の口を開き、カサコソと音を立て、ズルリと中身を取り出すと、神山博士の言う通り中にあるのは……小田鏡司郎の虐殺死体……私の兄弟が殺した人間……財団のエージェントが躍起になって探していた抹消対象が、様々な角度で撮影された数枚の写真が入っていました。
私は半分も晒さない内に思わず、ギョッと目を見開き、ハッと息を呑み、ドキンと心臓が高鳴りました。その写真は、死体を……殊に人型からかけ離れた亡骸を見慣れた私でも、思わず顔を背け、目を逸らさずにはいられないほど凄惨なものでした。どれほど柔らかい言葉を使ったとしても、肉塊としか表現できない痛々しい屍骸だったのです。
深呼吸をするように胸に手を当て、改めて恐る恐るその写真を見直しました。一瞬見た感じでは彼岸花のように思える赤い塊、惨たらしい瘤のようなモノ……だけど、何故でしょうか……先程の険しい表情と怯えた顔が、恍惚とも言えない表情と、魅了された顔になっていったのです。
よくヨク屍骸の詳細を見れば……何と素晴らしい筋肉のスジの裂き方、血管のクダの避け方……逞しい肉筋を規則正しく切り裂き、太い血管を寸分の狂いなくすり抜ける、鋭利且つ俊敏、辣腕な腕と繊細な指が作った一個の造花……刻み込んだのはメスではなく、大振りのナイフでしょうか……それだのにこんなに繊細な彫刻が出来るだなんて……。
マジマジと写真を見詰め我知らず惚けた顔をしてポウとしていますと、神山博士のトテモ心配そうな顔と声が、私を現実に戻しました。
「大丈夫……でしょうか?」
「ああ……イヤ、イイエ何でもないんですチョット……アハァハ……」
誤魔化すように愛想笑いをしましたが、不審かつ疑問を孕んだ神山博士の顔は変わりませんでした。私はその場の空気を紛らわす……というよりも気を取り直し、気分を入れ替える為に咳払いをゴホンと一度鳴らし、緩みかけた顔をキッと険しくしました。
「随分痛みつけられていますね……特に顔がひどい……」
「余程の恨みがあったのでしょうね」
「……しかし、これは本当に小田鏡司郎なのでしょうか。よくあるじゃないですか、顔を破壊して死体の偽造なんかが……」
「そこら辺は大丈夫でしょう。歯型及びDNA鑑定を済ましてありますから。ほぼ間違いなく、小田鏡司郎の死体です」
「じゃあ、顔の破壊はただの怨恨か……」
「オダマキさんは一生をその男に奪われているようなものですから、怨恨でしょうね。……ねえ、博士……」
……と、イキナリ神山博士は机から尻を離し、すぐ正面に立ちました。冷徹というよりも怜悧に輝いた瞳で私を眺め、忠告とも警告とも言えない言葉を発するのです。
「イトクリ博士、あの男に気をつけた方が良いでしょう。あなたの弟オダマキ……もしくは兄の小田佑馬にネ」
「な、何を……」
捻るように身体を動かし、彼から距離を取ろうとしました。しかし神山博士は痩躯をユラリと動かしたと思うと、長い腕を伸ばし私の両肩を掴みます。その両手は、ただ柔らかく掴んでいるだけなのに……威圧とでも言いましょう……そう簡単に払い除けることが適わない重圧感がありました。私はそのまま棒立ちになるよう、彼の言葉を聞いていました。
「良いですか、この言葉は私の勝手な考え、憶測とも取れるただの杞憂、海千山千の勘繰り、勘違いも甚だしい予想かもしれません。ですが……私にはそう思えない……博士、イトクリ博士……あなたはオダマキさんに気をつけるべきだ。特に警戒し、意識して下さい。あの男は危険だ」
「…………危険って、あのオブジェクトの効果が残っ」
俄かに揺すぶられる肩……真摯かつ真面目な顔で……。
「違う。そうじゃない。オブジェクトなんか関係ありません。単純な意味での危険を察知して、直接的な意味合いでの危機感を持って下さい。あなた、いつもハンマーを常備していらっしゃるでしょう。玄翁は? ネイルは? ショックレスは? 持っていますね、手放さないようにして下さいまし」
ソッと軽く添えられた両手私の肩から離れました。……強く掴まれたわけではないのに皮膚が歪み、肉を摘まれ、骨が軋んだように重く強く確りと……しかしそれに反し、全く強力さを感じさせず、音もなくスルリと離れる両手……私はチラリとその動きを見ていました。
「警告はしましたよ、本当に気をつけてくださいね、博士……では、私は押し急ぐ仕事がありますので」
神山博士は会釈をしたかと思うと、クルリと身体の向きを変え、ドアノブを握り個室を出ようとしました。しかし真鍮のドアを半回転ほどさせた時点で、何か気でも変わったのか、再び私の方を振り返りました。
「あの……確認したい事があるのですが……」
「はい?」
「私とオダマキさんは、会った事がありますかね? 一度、盆明けに話をした事があるのですが、それ以前、私はオダマキさんと顔を会わせた事がありますか?」
「小田……、マキ……とですか? 恐らくない、と思いますけど……」
不可解な質問に私は首を振りながら否定しました。オダマキが財団に正式に雇用されるようになったのはほんの数ヶ月前のことですが、ツイ半月前まで私はオダマキに付きっ切りでした。仕事の案内や財団業務の説明をするばかりでほとんど離れた事はありません。その間、神山博士がサイト-8181に足を踏み入れた事はなく、オダマキと神山博士は『あの面談』が初対面……それ以降の時期に会うどころか、互いに姿を見た事がないはずです。
「どうかしたんですか?」
「いえ……たいした事ではないのですが、少し気に掛かる事がありまして……お久しぶりです……と、言われたんですよね」
「初対面なのに、ですか?」
「ええ。初対面なのに、です」
「変……ですね」
小さく頷きながら神山博士は、
「実は私は……あなた方二人が入れ替わっているんじゃないかと考えていました。一応兄弟ですから、秘密を守る為庇い合い、誤魔化そうとしていたのではないかしら……。表面で活躍し、裏面で暗躍したのではないかしらん……。ですが、その様子と関係性の浅さを考慮するにその線はない……だとすれば……」
……だとすれば……。
大きな含みや余韻を持たない何気ない言葉なのに、どうしてでしょうか。私は何故か、次の台詞に注意と意識を向けていました。しかし神山博士は何も言わず背を向け、ドアノブをガチャリと一回転させ、今度こそ本当にセラピールームから出て行きました。
私は音を立てて閉まった白いドアを数秒間凝視していました。唇にソッと指を当て、神山博士の言葉の続きを考えてみたのですが、ハッキリとした答えを見出す事は出来ませんでした。代わりに写真を封筒の中に収め、独り言を呟くのです。
「デジャヴ……かな?」
私は現在、電車にゴトゴトと揺られ、ぼんやり外の景色を眺めていました。窓から見える風景は晴嵐の空と満開の桜とが織り成す春の季節です。私は先日、サイト所長に数日間の休暇を申請しました。この休暇と帰省は単純に私が休む為に取ったものではなく、個人的な用件のために故郷へ戻る必要性が生じたのです。その私用は何なのか……言うまでもなく私とオダマキの出生の秘密を暴き、本当の母親や真実の父親を明らかにしたいが故にわざわざ休みを取ってまで故郷へ赴くのでした。
この行動を起こすキッカケになったのは……オダマキの言葉が発端でした。去年の夏か秋の初めの頃、私の自室に訪れ丁重に頭を下げた彼……少し時間はよろしいでしょうかと断り、たちまち承諾すれば突如教えられた両親の秘密……エージェント海野一三さんが入手した情報を聞き、慄然蒼白、驚愕瞠目し、狼狽の余り思わず泣き、彼に詰め寄ったのですが、その際に言われた言葉が、私を突き動かす原動力となったのです。
『できることなら、本当の兄弟、双子として存在したい……』
実の兄弟どころか、双子すらも怪しい私たち……互いに存在を勘繰り疑いながらも、両者が共々、双子の共通の思考というべきか……相手を弟だと思い、自分を兄だと理解していました……。ソンナ一種滑稽な関係性から離脱したい、コチラが兄か、アチラが弟なのかハッキリ明瞭させたいと考えるのは至極自然な事でしょう。
私は、本当はドチラが上で下なのかさほど興味はないのですが、彼が追い縋るような顔を見て、彼はどうしても兄弟のことを明らかにしたいのだろうと考えました。……真実を知れば、望んでいない結末の為に壊れてしまうかもしれません……だが私は、複雑かつ曖昧な立場なままであり続ける事は、確かに望ましくないと思っています。
興味がないと言っても、全く関心がないというわけではありませんでした。私は数十年前、兄弟がいることを知ったとき、それとなく父親に尋ねた事があるのですが、過剰かつ敏感な返答や反応と不自然な態度と、極端な拒絶と「死ぬしかない」という発言には首を捻るざる得ないのです。
……どうも父親は不義不倫以上に何かを隠しているように思える。寧ろ妻の浮気の事実を隠れ蓑にし、最も重大な真実を誤魔化しているような……。場合によっては、例え親殺しになっても構わないと決意を固めつつ、私は電車のアナウンスで目的地に到着した事を知り、荷物を手に取り下車しました。駅からトコトコ徒歩で、父親の事を深く考え歩んでいますと、私の家の前に立っている事に気が付きました。
玄関をボンヤリ見ている内に私はフッと想像しました。その想像は……もしもオダマキが実家に戻り父親と対面したとき、果たしてあの人は彼を歓迎してくれるのだろうかと、いうことです。
ただでさえ脆い彼の精神と心が、父親の拒絶し否定した言葉で瓦解し崩壊しないだろうか……成熟した大人がタッタ一言、少しの言葉で精神状態が悪化するわけはないと思われますが、家族という存在に対して執着では追いつかない渇望を抱いている彼が、著しい変化を来さないとは考えられなかったのです。
あいつを家に来訪させるときは重々慎重にならなければならぬ……と一人納得しながら、玄関の戸を開きました。非常に無用心な事ですが、戸は簡単にスルリと開いたのを見たとき、呆れた溜息を吐き出しました。……例え盗む物がないにしても、戸締りだけはキチンとして欲しい……。
私は靴を脱ぎ、家の中に入りました。荷物を居間に設置してあるソファの上に放り投げまます。どうやら父親は仕事で家を出ているらしく、壁に掛かってある時計で時刻を確認したところ、まだ10時になるかならないかの時間帯……忘れ物か、特別な用がない限り家に戻らない……と確信した私は早速動き始めました。
……私の帰省の目的はただ休暇を取りにきたわけではない……出生の秘密を知ることが目的……。
ソファの上に放り投げた鞄から、ある物を取り出しました。その『ある物』とは木場さんにお借りした鍵です。この鍵は純粋な意味で犯罪用のマスターキーでした。一言で言うと施錠物の鍵を外す違法な物品です。何か重要なものを隠すなら鍵を閉めてある事が容易に想像できましたので、サイトを立ち去る前に兄弟の秘密の事を暈しつつも、鍵を借りる事が出来たのです。
木場さんはどこか人の良い顔をし、絶対に鍵を返す事を約束した上で……
「そんなら、これがいいなぁ。コイツは俺の自製品の中でも気に入っている自信作で、どこにも売ってねえ。一般家庭ならこいつで充分だろう。金庫やパスワード式の奴は開けられないが……。こいつを鍵穴に差し込むだろう……ちょっと試してみろ、クセとコツがあるんだ。こう差し込んで、半分ぐらい入ったら捻るように動かす。そうそう、そこで形をなぞるようにすれば……おっ、一回で成功したか。器用だな、兄ちゃん」
……と……このように使い方を教えてくれたのです。
木場さんはそれから「あんた、本当に器用だから良い整備士になれるぜ、エージェントなんかよりこっちへ転職しないか」と誘ってきました。私は外科医であり、整備士になるつもりはないと断ったのですが、その時の木場さんの顔は忘れません。ぷかぷかと煙を吸っていた口からポロリと煙草を落とし、「アンタ、医者だったのか……」と声を震わせ、瞠目していたのですから。
「何故俺は医者と思われていないんだ……?」
苦々しい顔で独り言を呟きつつ、木場さんから借りたマスターキーを指の中でクルクル回しながら、二階へ上がり、直行で今まで一度も入った事の無い親の寝室に入りました。これまで見たことのない部屋ですが、内装は寝室というよりも書斎室と表現した方が相応しい部屋でした。室内の内装は大きな書斎机に、数百冊も書籍の入っていそうな本棚、布団の乱れたベッド、分厚い絨毯……この一部屋を一通り調べるだけでトテモ時間が掛かりそうです。
私はまず分厚い絨毯をひっくり返して床下を確認しました。フローリングの床は少し掃除が甘いのか、埃や塵が目に止まる程度で、絨毯の下に隠されている収納スペースや書類の紙切れ一枚などありませんでした。絨毯を元に戻し、次は書斎机の調査に取り掛かりました。鍵が掛かっているのは一番下の抽斗だけで、全体的に机の中にあったのは印鑑や通帳といったものだけです。最後に一番時間の掛かりそうな本棚に移行し、一冊一冊、ページを捲り捲くり眺め眇め調べましたが、発見できたのは栞と付箋だけです。念の為、本棚の裏側を確認しましたが、壁があるだけで成果はありません。
私は父親の寝室だけでなく家中のあらゆる箇所を悉く調べましたが、何も発見できませんでした。あえて言うなら、私の部屋にある本棚から解剖医学書が1冊なくなっている事だけ気が付きました。
家中を調査し終えたころ、私はスッカリくたくたに疲れてしまい、シャツの表は埃の汚れと、裏には滲み出た汗によって、独特の不快を自覚しました。私はシャツを脱ぎ、着替えながら、
「あの女なら知っているのだろうか」
と……期待すらしていない母親への独り言を呟くのです。
あの女……白痴の女性……父親以外に私たち兄弟の深く細かい事情を知っているのは、ヤハリこの女以外有り得ない。寧ろ父よりも物事を把握し承認しているのではないかしらん……。
しかし、事情を知ろうにもあの女はスッカリ壊人です。私が覚えているのは彼女の姿は、薄ら笑いのような泣き出す寸前の顔と、ボンヤリ空を眺め左右の両手に人形を握り締めながら手遊びしている様……。人間としての判断や思考力といったものは残っているのでしょうか……動物の本能しか残っていないようにしか思えない……。
私はバッグの中にクシャクシャにした服を入れ、チラリと時間を確認しました。実家に到着したのは10時頃でしたが、時計の針は丁度12時を指し示しています。もう昼か……と思った瞬間に身体は現金なもので、強い空腹を自覚しました。軽食を食べようにも家に何もありませんでしたので……外に出るついでにあの女の元へ赴いてから食べに行こう……昼食を食べ終えてから父親が戻るまで仮眠を取り、本命本丸の直談判を行なう……と、今後の計画を立てながら家を出ました。
空腹の事を考えればお昼を頂きたいのはやまやまですが、先に嫌なことを済ましてから食事をした方が気分的に良いだろうと思い、私は公園へ足を向け、あの女が季節を問わず居座る公園に到着しました。
私はゴクリと生唾を飲み込み、公園の入り口を凝視しました。外はポカポカと暖かく春の麗かな時期なのに、この公園だけが切り離され、時間に取り残されたようにどこか寒く、冷気が肌をゾクゾク粟立たせます。正直、出来る事なら立ち入りたくない空間でした。陰気な空気……墓場よりも墓場らしい陰鬱な気配にウンザリしながらも、半ばヤケクソになり私はズカズカと足を踏み入れました。
公園内はそれほど多くない桜の木が植えられ、ヒッソリとした花陰の所為で薄暗く、ぽそぽそと花弁が落ちる音以外に何も聞こえない静かな空間です。公園の奥の方に桜の木々の間に設置されたベンチがありました。そこ行儀正しく座り、左右に握った人形をチョイチョイ動かす着物姿の女性がいました。
その女性の近くに寄り、正面からマジマジとその顔を見詰めます。紙のように白い顔、熱っぽく潤み淀んだ暗い両目……肌は少女のように肌理細かく、房々とした緑の黒髪は瑞々しく解れさえありません。……一見年齢を感じさせない、少女とも女性ともいえない姿ですが、よくよく見れば笑窪辺りと目尻辺りの皺が年齢相応の印象を与え、騙し絵のように少女と中年の年齢を行きつ戻りつする姿は、非常に薄気味悪いものでした……。
「只今……戻りました」
「…………」
「お元気でしたか?」
「…………」
返事はありませんでした……が……これはいつものことですので気にしません。私は母親の隣に静かに座ると、右手に持っていた人形をまるで会釈させるように動かしていました。
その様を見て、「ふう」と浅く息を漏らし、頭上から雨のようにパラパラと降ってくる桜の花弁をサッと払い除けました。私が座った途端、風が少し強まったのか、落ちてくる花弁の量が少し増えたようです。私は母の肩や頭に降り積もった、雪のように白い花弁をサッサッと払い落としました。
「……ねえ、母さん」
何でもない事を言うように、尋ねました。
「ねえ……私の本当の親は誰なんでしょうネ……」
その途端……でした。
どこか半笑いの顔で手遊びしていた女の身体が、ビクリと硬直しました。オヤと思う間もなく、首を傾け見ると、チョイチョイと動かし両手に持っていた人形を膝の上にポトポト落としました。ぎこちなく瞳を動かし、私の顔をマジマジと見詰めたのです。何かを見定め、確認するような目線はそのうち外れ、袂からソッと出したのは青い袱紗……それを私の手にグイグイと押し付けるのです。差し出された袱紗を受けると、母は右手で人形を握り「佑馬」と言いました。ハッキリ言いました。私は心臓を突然鷲掴みにされたかのように、ギクリと身体を強張らせました。
「分かるんですか?」
「…………」
「私が、誰か……分かるのですか?」
母は右手に持っていた人形を強く握るだけで、何も答えませんでした。
私は首を振りつつ、差し出された袱紗に視線と意識を戻しました。それは蝶々の刺繍がされた華美な和物です。全体的な形を確かめるように触れ、パチンと留め金を外し、中身を確認すると入っていたのは……1枚のクシャクシャになった古い写真……それをズルリと取り出すと、もう1つ物が入っている事に気付きました。後から発見した物は写真と同様に色褪せ黄ばんだ封筒でした。
古惚けた写真と朽ち褪せた封筒……どちらから取り掛かるか少し迷いましたが、一番最初に触れ、取り出した写真からマジマジと眺める事にしました。写真は角が折れ曲がりくしゃくしゃになっています。正面は時間の経過による老化と、触れ回した事により、撓み緩んでいました。写真に写っているのは砂場で遊ぶ2、3歳の子供が二人、砂場で遊んでいる光景でした。服装や髪型で判断するにどうやら男の子のようです。
表面にはこれという異変がありませんでしたので、くるりとボロ紙のようになった写真を裏返しました。裏面には小さい女文字が記されてあり、自然私の注意を惹きました。
上品な文字で書かれている内容は以下の通り……。
遊佐(2000年12月31日)
佑馬(2001年1月1日)
へその緒を 二人結べば たすき掛け
「…………?」
へその緒を……二人結べば……たすき掛け…………。
どういう意味を持った言葉で、17文字を記したのだろうかと首を捻りました。考えるにこの「へその緒を」と文字を記したのは、この女性である事は間違いないでしょう。そうして「遊佐・佑馬」の名前を判断するに、表の砂遊びをしていた二人の男児は、恐らく私たち幼少の頃の姿……。
へその緒……へそ……結ぶ……結ぶ……二人結ぶ……たすき掛け……たすき……?
「あ」
思わず口を押さえ、改めて私たち二人の名前と17文字を凝視し、指先でなぞりました。私が触れた指先にあるのは「遊佐」と「佑馬」の二行の文字です。もっと正確に言うならば、上の行の「遊」と下の行の「馬」……。
遊……馬。遊、馬……「ユマ」や「ユウマ」でなく、遊馬という文字にはもう1つ特別な読み方がある……ナカナカ聞かない名前だが、一応知識として知っていました。何と読むのか、私は知っていました。
「あす……ま……?」
……ジーンと耳鳴りが甲高く響き、脳味噌が重たく沈殿したような……ゾクゾク背筋が震え、身体中の血液の循環が激しくなり、心臓は遅く鼓動し、素早く脈動を打つ……私はこれまで自覚した事のない戦慄の中、ある名前を次から次に順繰りに彷彿させていたのです。その苗字は父親の疑いのある、伊藤・小田・吾妻の3つでした。
……もしこれが偶然でもなく、思い過ごしでも勘違いでないとしたら……? いいや……そんなはずが……まさか……偶然なのか? ……しかし、考え過ぎではないだろうか……しかし、しかし、でも、まさか……でも……!
「あぁ……!」
ああ、何ということだ。最初からこの問題は至極簡単かつ明瞭なことだったのだ。初めから知っていたじゃないか、伊藤が好きなのは姉の方ではなく、妹の方だということに。好きな女がいるのに、果たして肉の関係を迫れるものなのか、なり形がそっくりだといって簡単に男女の関係になれるものなのか。
……だとしたら、ここにいる女性は姉妹の姉の方、吾妻と結婚した不義不倫の女であるのだ。伊藤が妹の方だけを好きであり続けたのならば、伊藤慶太郎……あの男は私の肉親ではない。だとすれば……私の本当の父親は小田鏡司朗……?
私は複雑な顔で母親をみました。この女性……この人はこの文字を伝えるためだけに存在していたのだ。とっくの昔に自殺してもおかしくはないだろうに、正気を保っている段階で……飛び降りか首吊りでも何でも良い、とにかく苦しみから逃れることができたろうに……。
自身が使える知恵を最大に絞って、誰にもばれないように兄弟に両親が明らかになる糸口を残した。非常に遠回し且つ繊細な……私たちが万一二人揃って親に疑問を持った場合の事を考えて、人間の良心と、親としての愛情と、女としての判断のために恥を晒して生きている。目的を果たして死のうにも死なれずイジラシク惨めに……。この女性が私の母親……吾妻の名前を唯一持っていた姉の方……この女性こそが私たちの母親……。
私は袱紗の中に写真を戻しました。そのまま袱紗を母に返すつもりでしたが、もう1つ包みの中に物が入っていたことを思い出しました。それは黄色く変色した横書きの封筒です。その手紙は長年、強く握られていた所為でしょう、くしゃくしゃに皺が寄っています。封筒から便箋を取り出し確認すると、しっかりとした男のペン字で書かれた堅い文章ですが、手汗や涙でインクが滲み、大半が霞んでいました。
ただ私に読めたのはこの程度……。
伊藤慶太郎 様
(判読不可能)
(判読不可能)プロジェクト進行は、小峠博士と斜井教授、
前野さんだけでは限界があります。
(判読不可能)には、伊藤先生…やはり、あなたの知恵と力が必要です。プロジェクトの成功はきっと、█類に多大な(判読不可能)。
(判読不可能)
…ところで、あの子に対面させて頂くとのお話でございましたが、
あ█たが会わせてくれた我██は、確かに、見た目そっくりですが、
まるで違います。別の子です。
約束が違█じゃないですか、先生。
私に会わせてくれるとおっしゃったじゃないですか。
あの子はど█です?
どこに隠したんですか?
祐█ではなく、█佐に会わせて下さいまし。
一生の願いです。2004年█月18日 日本生類創研 主任 真中央
「………………………………」
…………………………。
………………………………………………………………………………。
…………………………………………………………。
…………………………………。……………………………………………………。
……………………。
「……日本…類……研……」
ぽつりと呟いた瞬間に手の力が抜けてしまったのか、ひらひらと舞うように、手紙は手元からすり抜けました。私は呆然とした顔で袱紗を地面に落とし、ベンチからユックリ立ち上がりました。真横にいる女性をみると、人形を真ん中に寄せ、右から左へ位置をずらして人形を動かしていました。私の凄まじい戦慄などまるで気づいていないように……。
私は現在、悪寒とも怒りとも言えない凄まじい戦慄が、全身をブルブルワナワナと震え動かしていました。手紙で知った重大な事実のために震え戦く唇から出たのは……ある疑問……。
「何故、入れ違いが…………起きたのだ……」
……もしも、「日本生類創研」が、私達に深く関わっていたとしたら、どうでしょう……。そもそもの疑問、入れ替わりの理由は……何かの驚異から守り隠すために、「兄」が小田鏡司朗の手に渡り保護されていたとしたら……? 私が親元で普通に育てられたのは、例え驚異に晒されても構わなかったから?
私の考えは全て勘違いでしょうか……?
……しかし……あらゆる疑問と疑惑が今更、ハッキリした形となって、くっきりと残って行くのです。それは何か理由をあげれば、スグ納得してしまう些細な疑いでもありましたが……あの組織が密接に関係していたならば……すべてが疑わしい……。
妊娠の問題を明らかにすべく母親は病院にかかったというが、どこの病院にかかったのだろう。もしや……普通の病院ではない……?
伊藤慶太郎が、私たち二人の秘密を口にするぐらいなら死ぬしかないといった態度……あれは……日本生類創研と関係があった為に黙り込んだのではないか……?
姉と結婚した吾妻が死んだ理由は浮気のいざこざではなく、口封じの理由で殺されたのではあるまいか……?
母が白痴になった理由……それは本当に精神の脆弱さから来るものかしら……。財団が記憶処理をして情報の口外を塞いでいるように、日本生類創研独自の口封じがあるのではないか……?
伊藤慶太郎と小田鏡司郎は無関係……?
私は父親似であるが、誰に似ている……?
小田鏡司郎が父親なら、奴に似ているのでしょうが……顔が解らない……。
誰に似ている……?
真中央……?
誰……?
父親?
私達は双子……?
単純に、ただの異母兄弟なのか……。
…………それとも、それとも……………………別の可能性がある……ならば………………。
「お前達は呪われているんだよ」
「…………」
ボンヤリ……と、私はその女性をみました。女性は空を眺めながら訥々と静かに……。
「お前達は呪われているんだよ。どれだけ腹を撫で私たちに似ないように願掛けしたことか。……非情だけど、お前達は私たちに似てしまった。私たち姉妹に」
「…………」
「お前はいつか殺されるでしょうね。そうして誰からも死んだことに気付かれないかもしれない。だって、私たちがそうなんですもの。私たちがそれをやったのですもの。アハアハアハ……」
アハアハアハ……アハァハ……。
女が笑う。口を押さえて、背筋を震わせて、泣き笑いともいえない複雑な表情で……。
私は顔を引きつらせ、ふらふらと歩き出しました。桜の花弁が降り積もった小さい山をけり破りつつ、思い出すのは神山博士のアノ言葉……。
『あの男に気をつけた方が良いでしょう。あなたの弟オダマキ……もしくは兄の小田佑馬にネ』
思い出すのはあの目、あの視線、あの瞳……生半可でない、恨みを持つ人間でないと醸し出せない、冷静に咽喉笛を狙う肉食獣の眼……。ここ最近は小田鏡司朗を殺したからでしょうか、一見穏やかな風に見えるのですが、その目線はやはり変わりません。いっそ、冷静になり、こちらの隙を窺っているような……。言い知れぬ殺意を全て私に向けている……。
『私はあなたが憎らしく思っていました、正直な話、殺してやろうとすら考え、想像の中であなたがどれだけ死んだことか……でも、私はあなたのことが……逆恨みですが……あなたのことが許せそうなんです。あなたを、やっと一人の人間、たった一人の兄弟として愛することができる』
……どういう意味で、あの人はあんなことを言ったのでしょう……自分を不幸な境遇の目に合わせた人間を……とても残忍な手法でですが……殺した程度で……これまで憎み呪った人間を許せるのでしょうか。人間の心の機微というのはソウ単純なものではない。身代わりに人を殺しても、逆恨みで呪った人間を許せるのか……?
考えるに彼が私を殺すことができなかったのは、温かい人情からくる情けではない……。私を殺せなかったのは、顔が瓜二つだったから? 兄弟の情けに臆してしまったから? 逆恨みでしかない事を自覚したから?
………………違う。
今、殺す時ではなかったから殺さなかった。ただそれだけなんだ……。
私と彼の関係な路傍で顔を合わせた人間程度のもの。非常に脆く、些細なきっかけで簡単に破綻するものでしょう。現にあいつは……私を……怨み恨み嫉み妬んでいる。チャンスさえあれば、すぐにでも殺しに掛かる状態なのだ。それが辛うじて、現状維持を保っているだけ……。
ああ……奴はきっと私を殺して、私に成りすますつもりなんだ。これまで入れ違った状態を正常に戻すつもりなんだ。財団で人間が死ぬなんて日常茶飯事……私と彼が入れ替わってもキット誰も気がつかない。あいつと私の違いなんて精々髪の長さの程度なのですから。そっくりなんですもの……そっくりそのままなんですもの、私達二人は……。
でも、うまく入れ替わることができても奴はどうするんだ。見た目がそっくりでも知識や頭脳や記憶は違う。奴が財団で振舞うなんて……いいや、アイツは財団でなんか働く必要はないんだ。オダマキが財団で働き初めて一年足らず、辞めろうと思えば……監視対象に入るだろうが、それでも日常に戻ることができる。私がこれまで育ってきた伊藤家の一人息子として、平然と居座ることができる。
「それだけだったんだ、俺たちの関係なんて……」
自分で予想した事実を認めるように、ソッと呟き、グッと唇を噛み締めました。こんなにも悔しく口惜しいはずなのに、涙は溢れませんでした……が……しかし、ムラムラと湧き上がる怒りの感情が、顔を険しくさせるのです。
「覚悟を……」
覚悟を決めなくてはいけない。
私は財団で働く上で「死なせる」覚悟と、いつでも「死ねる」決意を決めていました。しかし私に本当に必要とされている意思はそのどちらでもなく、「殺す」覚悟と「殺される」決意をしなくてはいけなかったのです。
……死にたくない……もっと言うなら殺されたくない。あいつが私を殺す場合、ただ殺すだけではない。私の存在を消し去り、入れ替わるつもりなのだ。そんな目にあうぐらいなら、殺してやる。殺されるぐらいなら、私はあいつを殺してやる。この手で……殺してやる。
……私は後悔しないでしょう。きっと悔やまないでしょう……そのために決意を固めているのですから……。
【完】