12月31日、諜報機関オフィスにて
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「あー」
 20██年の12月31日、僕はただ一人、司令部-81██の諜報機関オフィスにいた。なんだって年の瀬に一人でそんなところにいるのかと言えば、当然好き好んでこんなところにいるわけではなく、れっきとした理由がある。
 僕がノンオフィシャル・カバーだった頃に関わった要注意団体について聞き取り調査があるらしいのだ。なんで今更――なんて文句を言ったところで、そんな不平を聞き入れてくれるような物わかりのいい上司が、ここにはいないことぐらいわかっている。仕方なく諦めてこうして待っているのだが、一向にその担当者が来ないまま、予定時刻から既に1時間半以上が経過している。
「うわ……もう11時」
 予定では今頃家でのんびりと紅白歌合戦でも見ていたはずなのだが、気づけば後1時間で今年が終わってしまうところまで来てしまっている。
「仕事場で年越したくねえなあ……」
 本業である諜報ですら年末年始は完全に休みとなっているにもかかわらず、こんなところで思わぬ足止めを食らうとは。メールの指示を見る限り、僕は担当者が来るまで、諜報オフィスから出てはならないことになっている。他の部署に比べても、かなり機密性を要求される諜報オフィスは、当然ながら出入室を逐一記録しているから、誰も見ていないからと言ってひょいと部屋を抜け出すことさえかなわない。
「嫌だなあ……」
 もちろん、年越しをともに過ごす相手などいない。
 人肌恋しいからといってわざわざサイトに残っているようなそんな寂しい連中もいると聞くが、生憎僕はそのような敗北主義者たちとともに年越しそばを一緒にすすりたくはない。今まで仕事一本で独身貴族をやってきたツケが回ってきたのだと考えれば、まあそれなりに諦めもつく。
「あー……ネットすらできないとはね……」
 当然だがオフィスに置かれているパソコンたちはみんな、スタンドアロンだ。ネットワークを繋いでいるのは限られた部署のものだけで、使用者のセキュリティクリアランスによって、アクセスできるファイルも制限される。もちろん電子機器の持ち込みは全て申告しなければならず、インターネットにつなげるなんて言語道断だ。そういえば最近風の便りで、どこかの部署の担当官が自分のパソコンに私用目的のファイルを入れていて、大目玉を頂戴したという話を聞いた。馬鹿な奴もいたものだ。
「……はあ」読み終えたSF小説をデスクの上に放って、背もたれに深く寄りかかる。待っている内になんだか眠くなってきてしまった。「ちょっと寝るか……」
 せめて夢の中でくらい楽しく年を越そう――なんて悲惨な面持ちで敗北主義に浸りかけたその時、オフィスのドアが開く音がした。
「……ん」
 ようやっと担当者が到着したのか、重役出勤しやがって、皮肉の一つや二つでもぶつけてやる――と重い頭を背もたれから引きはがして、僕は立ち上がった。オフィスのドアから僕のいる事務スペースまでは少し空間がある。どれ、来客の顔を拝んでやろう――僕はそんな企みを持って壁際に張り付き、そっとドアの方を覗いてみる。
「えっ」
 そこにあったのは、意外な顔だった。


「あれ、誰ですか。――うわあ! あ、海野さんか、そうか、すみません……」
 職員証をデスクの上に叩き付けたエージェント・海野は、明らかに苛立っていた。それもそうだよな――と私は、年末に呼び出されるお互いの不運な身の上に同情する。
「で、なんであなたがここに? 保育士が諜報に何の用です?」
 エージェント・海野の双眸はこれでもかというぐらい猜疑に満ちている。話をする前からすでに、厄介事の匂いを嗅ぎつけているようだ。諜報機関命令で呼び出されて、やってきたのが保育士ともなれば誰だって怪しむか、そりゃ。
 私はあえて微笑みを崩さないことにして、ダウンジャケットをハンガーにかけながら喋り始める。
「いや、お互い大変ですね呼び出しなんて。……あ、コーヒー飲みます?」エージェント・海野のデスクの上にあった空っぽのカップを取り上げる。「部門ごとに使っている豆が違うんですよね、ここは確か――」
「ちょっと待ってくれ串間さん」エージェント・海野の表情がいつの間にか消えていて、隠そうともしない殺気がびりびりと伝わってくる。もう八割方私を殺すつもりなのではないか。「質問に答えてくれませんか」
 確かエージェント・海野って少林寺だかなんだかやってたよな――と、人事部のデータベースを覗いた時のことを思い出す。監察官という仕事柄、人事についてはいろいろ詳しく暗記しているのだが、このエージェントの顔についてだけは、未だに覚えられないものの一つだった。
「……あなたを呼び出したのは私です」
 いえ正確には、私たち、です。
 私の言葉を聞いたエージェント・海野の顔に、再び表情が戻ってくる。困惑と不審と怒りがマーブル状に混じったような複雑なものだ。
「なるほど分かりましたよ」エージェント・海野はさっきまで座っていた椅子をデスクに戻しながら、自嘲するような語調で言葉を紡ぐ。「僕を不審者だと思い込む親御さんも多いでしょう? それじゃ仕方ない」
 こんな嫌味な奴だったっけ、と私は記憶の中のエージェント・海野を探ってみる。独り身で休日暇なのをいいことに、よく同僚に託児所の送り迎えを頼まれてしまっているあのエージェント・海野は、もう少しお人好しな印象だったのだが。
「まあ信じられないというお気持ちは分かりますが……」
「大晦日にこれだけ待たされるなんてこともあるんだ、今なら何だって信じられますよ」
「………………」
 手厳しい。
 だいたい私だって好き好んでこんなに遅刻したわけではないのだ。いや、確かに原因は私の不手際にあるのだけれど、しかしやっぱり一番問題視されるべきはあの監察課連中のカッチンコッチンに凝固した脳髄であって、おかげで私の大切な原稿が全ておじゃんに――いや、それだけではない。本来ならば私は今頃、戦利品たちを炬燵の上に並べて、サークルのみんなと共に祝勝会を開いている手はずだったのだ。それをあの堅物ども、私の有給をすべて却下した上にこんなところに召喚しやがって……!
 一回落ち着こう。
 私は大きく深呼吸をした。
「……では海野一三さん、本題に移りましょうか」


 話を一通り聞き終えたエージェント・海野は、先ほどから黙ったままでいる。何を考えているのかは大体想像がつく。――この女の話は果たして本当なのか。初めは信じられない人がほとんどだろう。私のように初めから監察官として財団に雇用されるようなパターンは稀だ。
「……お話は分かりました、串間監察官」
 長い長い沈黙の後、険しい表情のまま、エージェント・海野は頷いた。
 内部保安部門への雇用――それはつまり、財団の中でもう一人の自分を作り出すということに他ならない。
 私自身、たびたび思うのだ。保育士と監察官という仕事は、あまりにも温度が違う。求められている人間としての体温が違うのだと。保育所で子供たちと接しながら、その親たちを摘発していく。その業の深さに、幾度となく私は心を折られている。
 目の前のこの男はどうなのだろう。公安警察で散々人を騙してきたというこの男は。
「もっとも、監察官として本格的に雇用されるかどうかはまだわかりません。試用期間というものもありますから」
 私は冷めてしまったコーヒーに口をつけて、すぐに離してしまった。オフィスの時計が急に鳴りだしたからだ。文字盤の上を這い回り続ける2つの針は、ぴったりと重なっている。ふと目が行った腕時計の日付は、1月1日。
「明けましておめでとうございます」エージェント・海野が立ち上がった。「監察官の件は、できるだけ早いうちに返答します。だから、少し時間をください」
「いえ、十分お考えになられてからで大丈夫です。――それと」
 明けましておめでとうございます。私が決して晴れ晴れしいとは言えない作り笑いでお辞儀をすると、エージェント・海野はそれには全く気が付かない様子で、相好を崩す。
「そういえば、串間さん今日もそちらのお仕事で遅れてたって話でしたけど」
「ああ、はい」
「なんかさっき噂で、パソコンにプライベートなファイルを置きっぱなしにして大目玉を食った職員がいるって話を聞いたんですよ。――ひょっとして、その件絡みだったりするんですか?」
「えっ」
「あっ、いえ、ダメですよねそんなこと聞いたら……はは……」
「………………」
 すみません、と笑いながら頭を下げるエージェント。
私は噂というものの伝播速度に強い絶望を感じながら、脳裏に『抹殺対象』の顔と名前をリストアップしていく。
「はは……」
 ――こんな仕事、やめてやる。そう、固く決意した。

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