どうぞ御先に
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御先稲荷

女は安っぽいボールペンを握り、十数回、数十回、数百回と書いた。そこは白一色の部屋で、スチールの机が一台にパイプ椅子が2脚、ボールペンが1本、契約書が多数、そして女が2人押し込められていた。ボールペンを動かす女はちょうど人型のオブジェクトに支給されるような、簡素で遊び心のない部屋着を着ていた。もう一方はビジネススーツを着て、相手が契約書の隅々まで目を通し、サインを施すのを微動だにせず眺めていた。この状況はビジネススーツの女を時々入れ替えながら、既に数時間継続している。

サインしている方の若い女は最早無心であるように見えた。元々は契約書の全文を読むほど几帳面な性格ではなかったのだが、収容房で過ごした数日間はこの組織の性質を察するには充分すぎる時間だった。加えて、彼女の選択権は限りなく無かった。事実を受け止めるために、これからの自分に何ができて何ができないのか、何をしなくてはならず何はしてはならないのか、与えられる限り全てを把握する必要がある。

机に齧りつくようにして、今の自分に与えられた情報を理解し、反芻する。休憩も無しに同じ姿勢を保っているせいであちこちが痛むが、それは今後の人生と天秤にかけるようなものではない。一秒も無駄にできない。呼吸を意識的に整えながら書類へ向き合い、1つの束を読み終えるごとに偽の  いや、新しい自分の名前を書いていく。

財団の収容房に入ってから、一度も本名を呼ばれたことはない。扉にはアルファベットと番号を組み合わせた識別コードが刻まれていたし、呼称には常にそれが使われていた。そして今日からは、識別コードが「御先稲荷」になるだけだ。書類に頭を近付ける度に、髪で構成された「耳」が揺れる。サインを施す度に何故か以前の生活を想起し、回想を振り払って再び書類に没頭する。

そのまま振り回せば鈍器になりそうなほどの紙の束を読破した御先は、そこで初めて、不安に押し潰されそうになりながら顔を上げた。目の前には無表情なスーツの女が変わらずに座っていて、こちらの顔を眺めている。蛍光灯の光が2人の女を照らす。御先は何を言えば良いのか分からず、口を少し開けてすぐに閉じた後、震える手でボールペンを置いた。それが合図と見做されたのか、スーツの女は適切な速度で書類を手にした。

数人の、これもスーツの男が部屋に入る。部屋の中がカメラででも監視されていたのか、その入室のタイミングはあまりに隙がない。御先が若干目を見開きながら「あ」と言う間に、書類は女から男へ渡ってケースに収められ、女は流れるような仕草で椅子を立つ。

もたもたと御先が立ち上がる間に男達は適切な配置へ動き、御先にチョーカーやリストバンドを装着させた。それらは異様に軽く、意識しなければすぐにでも存在を忘れられそうなほど御先へ馴染んだ。装着を終え、男達が女の横へ整列する。どこか滑稽にすら見えるほど、彼らには個がない。女は腕時計を確認した後、改めてこちらへ向き直った。但し、その口調は御先以外の何者かに向けられたように思えた。

「では、本日現時刻を以て、対象SCP-███-JP-aは職員『御先稲荷』として承認されます。宜しくお願い致します」
 
 


 
 

キャリーケースに詰め込まれた手荷物はそう多くない。夕日に照らされながら御先はキャリーケースを引く。服はまだ財団支給のものだ。手荷物の中には使い慣れた巫女服以外に着る物がないが、特に買い足す必要は感じていなかった。

山のような契約書にサインし、GPSと各種測定機器を内蔵したチョーカーとリストバンドを装着させられ、IDカードを渡され、鬱陶しくなるほどのセキュリティを通過して御先はようやく寮へ辿り着いた。廊下には規則的にカメラが並んでいるが、それは住人を保護するというよりは住人から外部を保護するようにさえ見えた。殆ど重量を感じないはずのチョーカーが存在感を増す。そのうち慣れるだろう、と御先は考えた。書類通りなら、私はこの忌々しい「耳」が無くなるまでこの特殊寮で暮らすのだから。

特殊寮と収容房の違いは入ってみるまで分からないが、幾分かはマシだろうと予測していた。収容房での待遇が特に悪かった訳ではない。ただ、収容房での扱いは明らかに「ヒトの形をした何か」だった。それに比べれば、この寮は機能的にはどうあれ、人が居住することを前提にあるように思えた。寮に住むことで、御先は人として存在したかった。

極めて楽観的に思考を捻じ曲げるなら、御先は思わぬ形で就活から逃れたと言っても良い。財団に提示された労働時間と報酬は決して悪いものではなかった。職場の雰囲気がどうかは分からないが、どのみち御先のセキュリティレベルでは大した人間と会えはしない。自身の能力を考えるに、退屈な仕事にもなってはくれないだろう。

と、自室を目指して単調に廊下を歩く御先の前で一枚の扉が開き、女が一人出てきた。女は赤いイヤリングをしていて、着ている白衣は所々塗料か何かで汚れているように見えた。御先はあちらが話しかけて来なければそのまま通り過ぎるつもりだったが、向こうはこちらを見つけた。その後ろから扉が閉まり、自動施錠される音が聞こえる。IDカードを部屋に忘れないようにしないとな、などとぼんやり御先が考える間にも、女は話しかける。

「こんにちは。新人さん? 部屋はどこ?」

「あ、はい。216号室の、御先です。よろしくお願いします」

慌てて頭を下げると、イヤリングの女は気楽そうに笑う。

「こちらこそ。ああ、他の住人に挨拶は要らないと思っていいよ。ここは人の出入りが激しいし、色々ややこしい人も沢山いる」

女はそれだけ言うと、申し訳ないけど今から仕事だから、と背を向けて歩き出してしまった。財団の職務があまり時間帯に左右されないのは既に聞いていた所だ。「ややこしい人」が多くいるのなら、まともそうに見える彼女とはある程度交流を持った方がいいのかもしれない。表札を見ると「茅野」とある。カヤノさんね、と口の中だけで呟いてから、2つ隣にある自分の部屋へ向かい、カードを差し込む。扉の上にあるカメラのレンズが何回か動くのが見えた。

無骨で重い扉が電気駆動で開いていく。赤い夕焼けの光が室内へ差し込み、何も無い空間を照らす。少しだけ空虚を感じてから、御先は部屋へ入る。背後で、扉が再び施錠される。キャリーケースを玄関に置き、何よりも先に寝室へ向かい、ベッドに寝転がって全身を脱力させる。柔らかくも冷たい綿の感触が頬へ返ってくる。一連の出来事の中で、初めて真の安息を得た気分だった。

御先は何の感情も抱けずに、ただ眠った。
 
 


 
 

御先は、3年前、財団へ入職した時に想定していたよりはずっと楽な人生だと思うようにしている。

並んだカメラにもやたら厳しいセキュリティにもいつかは慣れる。同僚に白い目で見られるようなことも意外と少ない。行動制限があっても金があれば暇は潰せるし、職務は苦痛でもなければ単純作業の繰り返しでもない。

なのに、降り積もる不快な何かがあった。

いつもの巫女服を着込み、いつもの廊下を歩いて簡易実験室へ着いたというのに、増幅されていく不安があった。この3年で数百のオブジェクトの声を聴いていて、それらは御先の中で混沌として渦巻いていた。感情は既に混濁している。うねりながら日々形を変えるそれらを、どこか他人事のように眺める御先がいる。感情達は御先ではない何かを吸い上げて、御先の中にありながら御先に影響を与えずに鼓動している。

その圧迫を明確に感じ取ったのは昨日の深夜だった。喉の渇きを癒すために自動販売機に行って帰ってくる、その数分の間に今までに無いほどの不安が御先から湧き上がっていく感覚を御先は忘れられない。普段過ごす寮内がとてつもなく恐ろしく感じられた。それでもなお、生活に支障をきたすような異変とは言えなかった。

特性上、御先の"静聴"は実質的には業務でありながら実験として扱われた。室内に御先以外の人間はいないし、何かあればすぐにでも保安職員が飛んでくる。蛍光灯の照明はやけに冷たく感じる。

いつも通り、御先が入室する前に準備は完了している。透明な抗菌ケースに入れられ、折り畳まれた布が机にあった。事前に渡された資料からこの布が男性用下着であることは知っていたが、今更その事実が御先に何か影響を与えることはない。無骨なパイプ椅子の感触にも慣れた。

「時間です。実験を開始してください」の声と共に、御先は普段通りにケースを開け、軽く息を吐いてからAnomalousアイテムを耳に押し当て、目を閉じる。オブジェクトの言葉を聞き漏らさないように、血管の無い「耳」に神経を集中する。

要らない

「要らない」言葉は記録のために復唱する。まだ聞ける。聞かせて欲しい。

お前は要らない

「お前は要らない」足りない。続けて。まだ言いたいだろうから。

お前は弱い。お前は醜い。お前はここに相応しくない。お前は其れに相応しくない

「お前は弱い。お前は醜い。お前はここに相応しくない。お前は其れに相応しくない」まだある。あなたは言い切っていない。聞かせて。

だから死ねよ、御先稲荷

「あ?」

思わず布を取り落とすかと思った。スピーカー越しに職員の呼び掛けが聞こえるような気がしたが、詳しい内容は認識できそうにない。

そうだよ。そうなんだ。お前じゃない。御先稲荷、お前じゃないんだ。お前じゃ無理だ

今度こそ、本当に布が耳から離れる。スピーカーの声が更に大きくなり、それは御先の鼓動と「耳」に聞こえる怒声で押し流される。

邪魔だ。勿体無い。冒涜だ。誹謗だ。背信だ

鼓動は異様に速まり、首から頭にかけて血管が蠢き、浮き上がる。熱は次第に上に集まる。髪の根元がざわつき始める。湧き上がるような濁流が頭蓋を包んでいく。御先は頭を押さえることもなく、ただ目を見開いて静止している。その体の中で、強烈に貪ろうとする何かが息づいている。

だから、詫びて、死ね。

まず響いたのは木材の軋むような音だった。一見すると分からない変化だったが、後々の映像解析によれば、この時点で御先の頭蓋骨は確実に歪んでいた。続いて皮膚が僅かに収縮した。保安職員がドアから一歩を踏み出す。御先はどこにも視線を固定していない。毛髪で構成された「耳」は、3年間維持してきた形を崩し始めている。

そして重厚な破裂音と共に、御先稲荷の頭部は炸裂した。

償え。

そうだ。お前は失格だ
それは、お前に任せた私への冒涜だ
お前は揺らいではならなかった
聞き入れる必要があった
それはお前の義務だ。聞こえる者の義務だ。お前に告げる者への誠意だ
だから、要らない
そんな弱い僕は、私には要らない
死んで償え。お前には、狐も巫女も務まらない

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