失敗にさようならを

「異常オブジェクトの全消失を確認。財団設立から調査し究明され収容してきたSCP群は、文章のみでの疑似登録が決定されました。2███年現在、財団で収集された異常アーティファクトのための収容室は必要ではありません。民間人に秘匿するために流布された虚偽情報は定期的に宣伝する必要がなくなりました。アノマリーを生成・流通させていた要注意団体は、民間企業に吸収されています。繰り返します。財団にオブジェクトおよび敵対組織は例外なく実在していません。収容された物品および生物は消滅、或いは異常性を消失しました。財団には収容室等をはじめとしたサイトは必要ありません。
 
 
――財団の解体処置が、O5評議会により決定されました。この決定事項は覆ることはありません」
 
 

***
 
 
忸怩失敗は学徒の一員である博士や研究員をはじめとした白衣を身に着けた財団職員の数がめっきり少なくなったサイト内の食堂で、ミートスパゲティを食べていた。お行儀が悪いことに頬杖をついての食事であるが、彼の気落ちしたような気分を考慮するならば誰も咎めることはできないだろう。

財団の正式解体が発表されてから数日後……これまで異常物というよりは危険物を相手にしてきた財団にとって、後処理の数は膨大だった。

まずはじめにオブジェクトの研究と究明を日夜務めていた報告書や、提出前の文章は、どのような些細で細かい一文字であれども詳細にアーカイブ化され、これまで財団に秘密裏に協力してきた国家組織に受け渡すことになっている。文字列の一行ならまだしも、これから実験を行う予定だった日時まで提出しなくてはならないのだから、研究員における事後処理の作業は非常に膨大で、機械類を可能な限りフル稼働してもそして人手が足りず、機動部隊やエージェントをはじめとした学問の専門外が協力する事態となっていた。

研究報告書をアーカイブ化する作業のときは、サイト内は活気に賑わい……そして、一仕事を終えるような……祭りの後片付けをするような感慨の中、ひと月ほど本部とどこの支部もごった返したようなお祭り騒ぎだっただろうが、時間の経過と共にその喧しさと姦しさは静かになっていく。

報告書を纏め終え提出したサイトは悉く施設は解体され、人員は解散した。具体的なことを述べるならば、収容室や機密文章を多量に注ぎ込み積み込んだ施設や建造物は物理的に破壊され、建物が設営されていた痕跡すら跡形もなく消去されることになった。その建物に滞在していた警備員や研究員には、財団の記憶処理専門の部隊による適切な記憶処理を受けて、一般企業や研究施設に再就職する流れとなっている。

一部の建造物、そして重要な人員を除いて、財団の職員として雇われていた職員は、平和で一般的な世界へと戻されることになった。

現在、忸怩が食事を摂っているサイトも他施設と同様の結末を迎え、人気がなくひっそりと、人の数が少なくひっそりと、静謐なるしじまだけが支配している。特別ここは日常的に騒がしいサイトではないのだが、深夜や放課後の雰囲気とは異なったもの静けさだけが、ありありと気配を見せているのだ。

「あと十時間か……」

忸怩はため息と共に呟きながら、フォークを回す。挽肉が丁度いい具合に細かくなったそこから、動きを加えることによって香ばしい、食欲をそそる匂いがしてくるのだが、彼本人にとっては少しも魅力的に思えなかった。食事とは娯楽的な意味合いで摂取される場合があるが、そもそも根本かつ基本的には生命活動を維持するための行動である。肉体が生きて活動するために豊富かつ多岐に満ちたエネルギー源を必要としているのだが、今日から数時間後、財団によって正式に終了処置が決定された忸怩にとって、特別きっちり三食摂取する必要はない。無意味とはいかずとも、さほど意味のある行動ではなかったのである。

終了処置。

財団の報告書の中で……上層会議の会話の内で何度も繰り返し出された言葉。終了が一体全体何を意味しているのか、処置がどういった意味合いを指すのか、わざわざ説明をする必要はないだろう。ただ端的に忸怩の状況を述べるなら、とある記憶処理を受け付けない異常物に接触した過去を持ち、お上の判断で死亡することが決定されたのである。忸怩が関わりを持ってしまったオブジェクト自体は、世界を揺らがすものでも……そして根底を覆すものでも何でもないのだが、その異常物を所持している環境と情況がよくなかった。

忸怩の他にも記憶処理を受け付けない、SCPオブジェクト群が存在していたと残滓的な名残を、せめて記憶の中にとどめさせるように他者の脳内に残っているものは、正直なところ多々ある。その場合、異常物に関係するエピソード記憶に捏造と改竄を加えることによって、『小さいころの思い込み』や『ただの夢』などといった内容に認識を変化させ、消えない記憶を持つ財団職員は、生還して一般社会で生活することができる。記憶処理という言葉に惑わされがちだが、処理作業というのは別に何も消去だけの行為ではなく、誤認識の作業も含まれていた。

……記憶に関して常套手段の如く用いていた所為か器用な真似が可能な財団だが……忸怩が関わりを持ってしまったオブジェクトには、記憶処理による刷り込みと悪夢といった小細工は通用しない。変化と変形を受け付けさせないものになっている。

それゆえ、最後の機密情報漏洩の抑制作業として、死亡が決定された。この口封じは忸怩だけでなく、機動部隊の平隊員や高セキュリティクリアランスを持つ上層部をはじめとした、上から下にわたる様々な人間が……多くはないが決して少なくない人間の終了処置が決定されているのである。

忸怩が正式に死亡通知を云い渡されたのは、サイト内が後始末をはじめて十日ほど経過した時期……せめて最後は何物にも縛られることなく自由に生きろと、約二十日ほどの勝手が許可された。

その間、通常通りに研究員の仕事を手伝うも良し、一時的に故郷へ帰省して家族団欒を過ごすのも良し、娯楽に興じるのも良しといった具合だが、限定的な自由の期間を迎えれば、仕事仲間の思い出から消え、家族の方では過去の思い出として故人となり、一人で時間を消費していたとしても、人知れずひっそりと消え、誰からも知られることなく命が潰える。行く行き先は同じ結末と結果しか残らない数字上の死となるだけだ。

正直、口惜しくないのかと問われれば、悔しい。

心底、悔しくないのかと聞かれれば、口惜しい。

忸怩自身、財団を善良な組織や正義の味方などと盲目的に捉え、考えたことは一度もなく、むしろ悪にほど近い独占的な団体だと思っていたが、この結末は少々酷であるように思われた。

だが――あの男――これまで諜報活動を行ってきた父親と同じような意見を抱くのは心底癪であったため、単に自分に運がなかっただけのことであると納得するよう努力を努めては重ねた。云い聞かせては頷き、やがて『いつ死んでもおかしくない職場で、終わりまで生きることができた』のだという風に、腑に落ちないながらも理屈と理論上の納得をすることができた。

自由を許可されてからの忸怩の生活は、最初期ややりたいこととやり残したことをリストアップしてこなしていたが、たかが二十数年生きた程度の男の生涯でピックアップできるものなど数が知れている。それゆえ自由の後半は自堕落的に娯楽施設で存分に遊び倒し、酩酊の末に道路で仰臥して、行きずりの人間と関係をもってこれまで行ったことのないプレイをしたり……または放蕩かつ自虐的な生活とは一変して、慣れない料理や、し慣れない慈善活動を突発的に行ってきた。

退屈のような……そして正反対に忙しいような中で、親戚である少年のうざさに辟易しながらも貴重な一日をわざわざ消費したこともあるが、その該当人物はもう記憶処理を受けて高校か大学に通っている頃だろうし、いまだにどちらなのか分からない双子にしたって、今頃仲良く喧嘩していることであろう。

既知にして旧知の機動部隊やエージェントもほとんどが姿を見せなくなって、忸怩は半ば死ぬことを悟り親しんだ住まいから離れた猫のように、人と会話することのない寂しい最期を迎えようとしていた。このまま他者と話をすることなく死ぬのだろうなと、食堂の隅の壁にかけられたカレンダーを眺めようとしたところで、不意に彼の目の前にとある人物が座り込む。

荒々しい所作で腰かけたのは、不機嫌そうな顔を隠すことなくむくれている有良悪無だった。

「……何?」

かつての仲間……同じ仕事に携わっていた同僚に、低い声でぼそぼそと反応を返すと、彼女は辛気臭いものをみるような目線と、呆れたと云わんばかりの溜息を出す。

「あんた、あと数時間で死ぬんですってね。セミより短いじゃない」

随分はっきりと物を云う。よそよそしくなく豪快で、いっそ好感が持てそうであるが、相手は腹の虫が悪い。忸怩は余計なことは云わず頷くだけに反応を留めると、有良は乱暴に髪の毛を掻き揚げながら「財団は何を考えているのかしら?」と、気だるげな口調で云うのである。

「ったく、不自然極まりないっつうの。あたしがよ、このあたしが……他人に不幸を振りまくあたしと三善の阿呆が生きて、一般社会での生活が許可されて、何もないあんたが死ぬの絶対おかしい」

「もしもお前に少しでも悪いことがおきれば、その倍……累乗、周りに不幸が及ぶからな。穏便な処置にしたのは、多少業腹だろうが、当然のことじゃないか」

何せ有良……お前が掠り傷でも負えば、周囲の人間はバラバラ死体になるような状態を発生させるのだ。

財団の対応は当然のことだろうと、忸怩は云う。

「しかも幸いなことに、お前と三善の特異体質は因果律を基本として低確率を発生させるもの。現実改変とは違う。運と巡り合わせを極端に体現したものだから、財団を離れてもさほど問題ないと判断されたんじゃないのか」

例えば、不幸にも運悪く殺人事件に巻き込まれたり――

例えば、幸運にも運良く一枚の宝籤に当選するような、隕石に人間が衝突するような問題。

これまで異常物を集めてきた財団にとっては、異常物がすべて無問題となった現在、彼と彼女らを遠くに離したいというのが本音だろうが、忸怩はわざわざそれは云わなかった。口に出さずとも三善と有良は、とっくの昔に推理して看破していそうなものだからである。

「ただ俺は運がなかっただけ。しくじった――だけなんだから」

俺だけが殺されるならまだしも、財団において同じ状況の人間は少なからずいる。

忸怩は手にしていたフォークを置き、ミートスパゲティの入っていた大皿を離した。食欲がないわけではないが、食べる気になれないらしい。

「しくじった、ね……何を仕損じたのかあたしにはわからないけど、あんたもうちょっと上層部に抵抗しなさいよ。死亡通知に噛み付いて抵抗すれば良いのに、あっさり飲み込んで無抵抗なんだもの。ったく、見てるだけでイライラするっつーの!」

「いや結構反発と反抗はしたんだけどね。最後の最後にこれはおかしくねって、反骨精神丸出しよ。でもさぁ、話を聞くと客観的に考えても、主観的に考慮しても、死んだ方が良い奴だったんだもん。仕方ない、仕方ない」

「何よソレ、詳しいことをあたしにも教えなさいよ」

「お前が死にたいんならな。教えてやってもいい」

「……やめとく。あたしが不幸になることで、周りがどうなるか分かったもんじゃないもの」

「賢明は判断で」

忸怩は口角を上げて笑い、食事の時一時的に外していたカラスマスクを装着する。

「まー……あれだ、最後の最後に人類の安全に貢献したとなると、男としては有頂天よあなた。世界を守って死ぬ俺かっけーみたいな」

「……ほんとは微塵もそんなこと思ってない癖に」

「そこはマジで指摘するな。虚勢が崩れるだろう。嘘を指摘されると真実に気が付き、改めてムカついてくるからやめてくれ」

やっぱり納得していないじゃないのと有良が云うと、そのようだなと忸怩は返事を返した。自分に云い聞かせ納得していたとしても、腑に落ちないことから、忸怩はどうも死にたくないらしい。

有良は彼のその感情に気付いたのだろうか。それとも最初から死にたくないことを彼自身に改めて自覚させるつもりで来たのかわからないが、これ以上何も云わず無言のまま過ごす。

忸怩と彼女の間に時折のスリッパにより廊下を走る音と時計の秒針が場を支配する中、しばらくしてとある異音が加わった。ぐすりと鼻を濡らした音である。半ば無意識になっていた忸怩が八ッとしたように顔をあげると、涙目になりながら俯いている同僚の姿があった。

「なんでお前が泣くんだよ……」

「あんたが泣かないからよ、馬鹿……」

ただ、死ぬわけではない。

ただただ単純に死亡するだけではない。

忘れてしまうのだ、彼のことを。姿形、声と顔、性格と名前、ありとあらゆるものが死亡した瞬間、並行的に忘却され、消滅する。

有良が耐え難く納得できなかったのは、忸怩が死ぬことよりもこの点だったのであった。

「ねえ……やっぱり教えてくんない、あんたの頭の中にある機密情報。記憶処理を受け付けないっていう、ソレ。どうせなら、あたしは……」

「ダメだ。お前の特性……不幸を振りまく体質よりも、人間として教えられない。俺も相当汚い仕事をしてきたが、共倒れだなんて巻き添えをするほど人間を辞めてない」

頑なで頑とした言葉だった。有良はその返答は考えるまでもなく想定していたものであったが、更に静かに涙を流す。そんな様子を忸怩はまるで困ったものを見るかのような目線を向けていた。やがて逡巡したあと、何の脈絡もなく唐突に、実に気軽で気負うことなく、平坦な声で以下の言葉が発せられた。

「なら、逃げようか」

「え?」

有良は思わず、聞き返すような声を出した。それは忸怩の言葉を聞き逃しただなどという失態からくる反応ではなく、彼の云っている言葉の内容がよく分からなかったからである。

「なら、逃げようって俺は云ってんだよ」

「逃げるってあんた……そんなことができたらそもそも、とっくにやっているでしょうに」

「そうだな。逃げれるのならば、とっくの昔にやっている。ここから逃げても、どこにも逃げられないんだろうな。分かるよ、よく分かる。財団の影響が及んでないところって地球全土どころか別次元の世界に及んでいるじゃないかってぐらい幅広いからさ、やっても無意味な行動だってことはわかる。すぐに捕まるだろうよ」

でも……。

「逃げた事実は変わらないだろう」

生憎今は現実改変なる異常性を持ったオブジェクトはない。いや……あってもなくても、事実を変えるほど大仰な行動をしているわけではないのだ。

「……そうだなぁ、財団から逃げるなら即日実行しよう。今晩さ、ここのサイト近くのコンビニで待ち合わせってどうよ? お前もよく行き来していただろう、あのコンビニだ。そこで軽く軽食買って、クルマ走らせて、海辺にでも行こう。夜の海は行ったことがない。月明りで綺麗なんだろうか」

忸怩は云う。

「一晩明かしたら、気ままに移動する……クルマを乗り捨て新幹線で一気に距離を開けるんだ。新幹線に乗る前に駅弁とアルコールなんか一緒に買ってさ、ちょっとした宴会をするんだ」

忸怩は云う。彼は云う。

まるで、遠避航にすらならない遠足のようなことを……旅行に行くような口ぶりで……家出のような出奔を……デートなどの約束事を取り付けるように云うのだ。

カラスマスクで口元が完全に隠れているため見えないが、穏やかな口調から微笑んでいることが分かる。

「そんで遠距離隔てたら、期限まで少し時間があると思う。動物園、遊園地、水族館、映画館……何でも良い。現地で何かを鑑賞しよう。まさか逃亡するような奴が娯楽施設にいるとは思わないだろうから、うまくいけば財団をやり過ごすことができるかもしれない。一年や半年……一月は無理でも、一週間、一日、十時間、一時間、十分、一分、十秒、一秒程度でも長引かすことができる」

「…………」

「俺と一緒に逃げてくれよ、有良。最後の思い出にさ……付き合ってくれるだろう?」

「それは元々持つあたしの運のなさを知ってでの発言かしら? だとしたら、あんたはわかっていない。忸怩、あんた一人逃亡して、もしも奇跡と僥倖が合わさり、万が一、億が可能性として本当に財団から逃げ切ることができるかもしれないのに、それをドブに棄てるような真似をしているのよ」

あたしは幸福ではない。

ただ、運の無さを周りに振りまいているだけ。

有良悪無の名前、『良』いことが『有』って、『悪』いことが『無』いコードネームは名は体を表す如く表現されている。

それを知っているだろうに、何故確実に死亡する方法を選ぶのか……。

有良は憤りを感じながら、告げた。彼女の怒りは本物であり、少しの冗談も誤魔化しも許さないものであったが、忸怩はそれに相対して困ったように笑い頬をかきながら答えるのである。

「いや、だってお前に『悪いことはない』んだろう?」

俺と時間を過ごすことは都合が悪いことか。俺が死んだあと、記憶処理を受けて、最後の時間が幸福な時間ならば、『良』いことが『有』って、『悪』いことが『無』い有良ならば、記憶処理を受けても思い出してくれるに決まっている。

――と、忸怩は云うのである。

小さな希望にも似た信頼の言葉を受けて、有良は意表を突かれたように目を丸くしたのは云うまでもない。

「確かに、あんたと時間を過ごすことはそう悪いことじゃないわ」

「そっか」

「何ニヤついているのよ、調子に乗らないで。そもそもあたしはあんたが死ぬことに納得していないのよ……でも、仕方なくだからね。仕方ないから付き合ってあげるだけなんだから」

有良は、涙の気配を感じさせない顔と目と表情と口調でそう云い、先程まで気落ちしていた事実を……しおらしい態度をなかったものにするかのように、少しだけ荒々しい所作で離れていく。

照れ隠しのような様子を見せる有良の態度に忸怩は苦笑を浮かべながら、『成功』したと小声で呟くのだが、彼は気づいていなかった。

『成功』の裏にこっそりとある『失敗』の存在を……。
 
 
***
 
 
有良は忸怩が約束した通り、サイト近くのコンビニの駐車場に存在していた。彼女は星空ひとつ見せない夜空を眺めながら、まるで希望がないことを示唆的に表しているようだと考え、自己嫌悪するように顔をしかめさせる。

有良は到着の遅い相方の存在に「何の準備をしているんだか」と小言を呟きながら、冷やかしと物見遊山でコンビニの雑誌などを立ち読みした。そして時折、携帯の液晶ディスプレイに表示された時間で終了実行時間までの刻限を確認するのだが、いくら経てど待てども忸怩が現れる様子がない。

このままでは逃げることすらできずに、財団の処理班に捕まって何もできずに終わってしまう可能性を考慮した彼女は、もはや待ち合わせ場所に居座ることができずに自ら動き出した。最悪、食堂での逃亡計画の情報が洩れて捕縛されてしまっているかもしれないと想定した有良は、いてもたってもいられずに、サイト内に赴き忸怩の姿を探そうと、二十四時間営業の店を出た。

そして体が向き、足が動くままに肉体を動かす道中で、クルマどころか横断歩道を歩行する歩道者すら歩めないほどの渋滞が発生していることに気が付いた。パトカーの存在と、赤いランプを眩く輝かせる救急車の存在から交通事故が遭ったことを理解しながら、有良は野次馬を掻き分けながら突き進む。

そして心中の内にあるのは、「あいつは渋滞が発生して到着が遅れたのだ」という運の悪さであり、彼女は自分の心配性を自嘲気味に笑うとほぼ同時に人集りが集っていた中心……ドーナツのように穴のあいた、事故車と公安を除いた人気のない事故の中心部を見て、自然と膝から崩れ落ちた。

少し長い黒髪。担架に乗せられた肉体。だらりと垂れた腕から下たる血液に見慣れた刺青。路傍に打ち捨てられたような黒いマスクと、よほどの運の悪さがなければ実現しないような、ひしゃげたという表現では足りない……巨人から徹底的な破壊を受けたとしか思えない車体があった。

「……うそ……」

これは一体何の冗談で、悪質な悪戯か。

これが異常物による実害ではなく、日常で起こりうる悲劇であると云うには、あまりにも……あまり余って間が悪すぎる。

本来ならば、この交通事故は彼女が受けるべきものだったのだろうか。

それとも本来も将来も何もなく、自然に勃発した普遍的で平凡な死亡事故だというのだろうか。

分からない……事実と真相は分からないが、有良にとってこの思い出と過去の記憶は、彼の存在と共に葬り去られることになる。一般的な職員と同様に財団に関する何もかもを忘れ、日常生活を送る。特別や例外を許さない運命に呑まれたのだ、そう……特例であった異常物の存在と同じように消えたのだ。

有良は忸怩の存在を記憶してくれると願った日陰さえ気付かずに、生きるのだろう。今や忸怩に関することは有良にとって、都合の悪い不幸な出来事になってしまったのだから、決して思い出すことはない。

『良』いことが『有』って、『悪』いことが『無』い。

……むしろ彼女は思い出すどころか、忘れたことすら忘れ、亡き心に違和感を覚えることはないだろう。

ss
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