祓師の門出、秋にて
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夜半、仄かに霧が立ち籠める林間で、二つの影が向かい合っていた。

影の一つは、怪異である。熊ほどの大きさの醜悪な肉塊がぶるぶると震え、樫の幹に無毛の皮と紫色の体液を擦り付けている。血走った幾つもの眼球を痙攣させているその醜悪な生き物は、三本の丸太のような腕の先の鋭利な生爪を地面に突き立てながら、人の赤子じみた呻き声をあげて敵対者を威嚇する。
対する影は、少女である。神社からそのまま出でたかのような白の小袖と緋袴の巫女装束に身を包み、明るい茶色の髪を後頭で結い上げ、まだ幼さの残るあどけない顔に浮かぶは真剣の一文字。両の手で確と掴んだ薙刀の、ギラリと輝くその切っ先を異形に向け、微動だにしない。
彼等の周囲の木々は無残に折られ、それらの表皮には荒々しく争いの痕が刻み込まれている。これ以前にこの場所で何があったのか、何を以ていくさを行う事と相成ったのかは知る由もないが、両者の間に流れる空気は痛い程に張り詰め、一触即発の状態にあることだけは確かである。ぶわり、と、生暖かい風が木々の間を吹き抜ければ、静寂を保っていた両者の眼前に、遠慮するかの様にゆっくりと木の葉が揺れ落ちてゆくのであった。

ぎゅわあああああ。

先に動いたのは、怪異である。身も凍る雄叫びをあげ、猪に似た狂的な愚直さで一直線に敵へと猛進する。
少女は、冷静である。今当に襲い来る敵へ毅然たる狩人の視線を浴びせながら右手を薙刀から放すと、懐から素早く何かを取り出す。二つの指で挟んだそれーーー赤と黒の墨液で描かれた奇妙な紋様が印象的な護符を軽く投げ、刃先でそれを滑らかに両断した。

それまで閉ざしていた口を、微かに開く。

「元柱固真、八隅八気、五陽五神、陽動二衝厳神……」

洩れ聞こえる呟き。刀身が音も無く熱を帯びる。

「害気を攘払し、四柱神を鎮護し、五神開衢、悪鬼を逐い、奇動霊光四隅に衝徹し、元柱固具、安鎮を得んことを、慎みて五陽霊神に願い奉る」

呟きは次第に厳然たる詞へと変わり、周囲の空気が波立つ。

手負いの異形の怪物は少女の手前で独楽のように回転すると身体を歪ませ、ぐばあ、と奈落の底のような大口を開いた。闇奥でギラギラと濡れ光る幾つもの眼が焦点を合わせたちょうどその時、少女は呪を唱える。

「害気悪鬼を祓い給え、急急如律令!」

腰を低くし、中段に構えていた少女が動き、目にも留まらぬ速さで得物を横一文字に振り抜く。

交錯は、一瞬であった。

二分された怪異の上半分は少女の頭上を飛び越え、石に打たれた鳥の如く地に落ち、樫の枝に覆われた地面を滑りながら急速に朽ち果ててゆく。下半分は少女の足元に転がって断末魔の叫びをあげ、硫黄の臭いのする体液を噴出した。
少女は摺足で二歩後ろへ下がり、長物を構え直し残心した。微かに身動ぎした瀕死の異形の半分は、その見事に輪切りにされた肉体の断面を露わにする。どろりと濁った赤黒い肉液の中に、幾つもの腐った赤児の苦悶の表情が浮かんでいた。その中の一つが、ぎゅわあああ、と小さく憐れな悲鳴をあげる。今にも消えそうな命の残り火を両の目で確と見据える少女は、逡巡するように唇を僅かに噛み締めると、薙刀で化物の眉間の内の一つを素速く一突きにした。異形は長く悲痛な断末魔を響き渡らせたが、やがて完全に沈黙した。林間に本来在るべき静寂が戻る。……巫女装束の娘は頭上で薙刀を回転させ汚れた血を払い落とすと、静かに嘆息した。

そこに、老人の声。

「腕を上げたな」

少女の背後から聴こえてきたそれに、しかし彼女は動じない。深呼吸とも取れる溜め息をもう一度吐いてから、整然とした足取りで声の主へと向き直った。身体の動きに合わせて長髪が獣の尾のように揺れる。月光に照らされぬ内は、明るい茶髪も暗澹として見える。

娘は穏やかに口を開いた。
「……見ていらしたのですか、御爺様」
「盗み見は年寄りの嗜みさ」林の奥に佇んでいる老人は、軽く笑って顎を掻く。鼻から上は夜闇に紛れ、能く見えない。「腕を上げた、が、未だ一人前には程遠い」
「……」
「不服か? 小豆」
「滅相も御座いません」
小豆(アズキ)、と呼ばれた少女は静かに頭を下げる。先程までその手に握っていた長物は何時の間にか折り畳まれ、着物の中へと収められている。驚くべき手際である。
老人は嗄れ声で言葉を続けた。
「それでも腐れ童子を一人で祓うたア大したもんだ。俺の若い頃にゃ出来なかった」
「御爺様の若い頃と云えば」少女は僅かに笑みを浮かべて言った。「五行結社にいらした時ですか。あまり想像できませんが」
「するなするな。京都の似非法術師共と連んでた時ゃア、まるで生きた心地がしなかったぜ。連中、20世紀にもなってもまだ阿呆みてえな軍隊ごっこなんて続けてやがる。葦舟が逃げ出した理由もわかるぜ」
「もう今は21世紀ですよ」
「そうだったか? まあ連中にとっちゃ大して変わらねえや。“統一センター”出の半人前が幾ら集まっても、霊泉から湧き出た動的霊災(たいふう)一つ祓えねえんじゃ全く以って意味が無え。当然捕らえるべき獲物は『看守』どもに引っ張られてっちまう。自業自得ってヤツだ」
言葉を止めて、老人は大きな溜め息をつく。少女の足元で朽ち果ててゆく怪異の死骸は、その大半が塵芥と化していた。
「必要なのは“自らの頭で考え、想い、憂い、其の身体を刃と化す”こと….俺が最初にお前と会った時、何より先に教えた言葉だ。憶えてるか」
「はい」
「良い子だ」老人はニヤリと笑い、少女は微かに頬を赤らめた。「昔からお前は良い子だな、小豆。“刀”にするにゃ勿体ねえくらい、気立ての良い素直な子だ」

夜風は強く、木々はざわざわと揺れている。老人は急に其の表情を硬くして、少女の綺麗な瞳を視線に捉えた。
「だが、やっぱりお前はまだまだ半人前だ。腕前の事だけじゃ無ェ。自分が何の為に刀を握るか、それを誰が為に使うか、そしてお前の根っこの所にある、“お前は誰であるか”という問いの答えを、見つけてねえんじゃねえか。それは誰かに教わるものでも無えが、独りで腹ん中に抱え込んで思いつくような簡単な頓知でも無え。バランスが大事って訳だ」
老人の話を聞き取っている少女は、その本当の意味を理解出来ずとも、この話が辿り着くであろう結論を薄々と感じ取っていた。……それでも、何も言わず耳を澄ませる。
「振り子みたいなモンだ。どんなもんでも片方に偏りすぎてりゃ、そいつはバラバラになって崩れちまう。何処かで調節しなきゃならねえ。だが人間ってのは、手前が気になる所しか目に入らないから、全体のバランスなんて分からねえんだ。どこで踏み出せばいいかも皆目見当がつかなくなっちまうのさ」
老人は一呼吸置いて、言った。
「だから、他人が背中を押すんだよ」

少女は、いつの間にかほろほろと溢れて止まらなくなった涙を、真っ白な袖で拭い始めた。それはあっという間に水気を含み、ぐしょぐしょになっても未だ止まらない。そんな姿を見た老人は破顔して言う。
「おいおい!やめろよ。今生の別れって訳でもねえだろうが」
「……」
「こっちだって辛いンだぜ。炊事洗濯皿洗いを一任してた愛弟子との別れは」
「全然……そうは……見えませんっ…!」
「まあ言うな。お前には本当に感謝してるんだ」
泣きじゃくる愛弟子を気遣うように労りの声をかけた老人は、星の少ない暗い空を見上げる。
「だがな、感謝してるからこそ、お前には若い内にもっと広い世界を見せておきてえ。こんなド田舎で見つける手前の価値なんぞ、鼻紙にもならねえからな。先方にはしっかりと俺から伝えておいてある。お前がする事ァ、歯ブラシやらパンツやらを鞄に詰めて、電車の切符を買うぐらいだ。後はお前の自由。行って、見て、傷ついて、気に食わねえ野郎どもを殴りつけてみろ。全部それからだ、串間小豆」

少女は……串間小豆は、赤く腫らした目元を乱暴に擦ってから、老人が今まで見たこともないような笑顔で叫ぶ。
「……はい!」
「良い返事だ」
老人は笑って、旅立つ弟子に手を振った。


……一週間後。御嶽観音(みたけかんのん)町へと続く錆び付いた鉄橋の真ん中に、一つの人影有り。詰襟の学生服の上に着古したダッフルコートを羽織り、目深に被った学帽の奥で光る両眼で街の全貌を見つめている「少年」は、肺に溜め込んだ秋の空気を目一杯に吐き出し、汚れた都市の空気を吸った。

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